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夜の海が、じわじわ赤くなっていた。
◆
いくつめかの戦が終わったあと、
島の本城に、兄弟たちが集まっていた。
床には、血の滴る甲冑。
壁にもたれてうなだれる兵。
香の代わりに、薬草の匂いが満ちている。
刀二本の兄弟が、
酒をあおりながら笑った。
「いやぁ……負けたな」
「だが、楽しかった」
笑ってはいたが、
腕には布が巻かれている。
さくらの大太刀に、
一度「触れられた」痕だ。
◆
槍の兄弟は、
黙って地図を見ていた。
島のあちこちに、
赤い印が増えている。
負けた場所。
押し込まれた場所。
かろうじて押し返した場所。
「……このままでは、立ち直れん」
ぽつりと呟く。
酒の兄弟が、
眉をひそめた。
「まだまだ、
奴らの首は並んでおらんぞ」
「鬼娘の首もな」
「そうだが」
槍の男は、
静かに首を振る。
「兵は、替えが利かん」
「腕の立つ者から減っている」
「次の戦で“勝てばよい”話では
もうなくなってきておる」
◆
若い兵の名が、
何人も読まれる。
あの岬で倒れた者。
あの入り江で沈んだ者。
あの森で戻らなかった者。
名前を口にするたびに、
部屋の空気が少しずつ重くなる。
それでもなお、
誰かが言う。
「だが、退けば海の笑いものだ」
「島の男が、
海の向こうの女に膝を折るのか」
「そんな話、
子や孫に語れん」
勇猛さはまだ、
胸の真ん中に居座っている。
◆
それでも――
敗戦のたびに
別の声も育っていた。
「負けるたびに、
向こうは形を変えてくる」
「初めての釣り野伏せりで、
あれだけ切り抜けられた」
「次に同じ手を使っても、
あの鬼娘がいる限り
きっと通じぬだろう」
「こちらも、
毎度違う手を探すが」
「最後には“兵の数”の差に
押し潰される」
冷静な者ほど、
声は小さい。
だが、その小さな声が
負けるたびに少しずつ大きくなっていく。
◆
数戦を重ねると、
島の空気も変わってきた。
戦場に向かう足は、
まだ軽い。
若者たちは、
鬼娘の噂を肴に笑う。
「今日こそ、
大太刀を折ってやる」
「髪の一本でも
抜いて帰ろうぜ」
だが、
年長の者の目は
笑っていなかった。
「また、
戻ってこられるかの」
妻が、
黙って背中の紐を締める。
子どもが、
門の柱から顔を出している。
その光景が
少しずつ増えていく。
◆
ある夜。
戦から戻った兄弟たちが、
静まり返った城の広間に座っていた。
酒の兄弟の盃は、珍しく空だ。
「……手打ちに、せんか」
先に言ったのは、槍の男だった。
「このままでは、
島ごと折れる」
「戦好きのわしが言うのだ」
「もう、
“楽しい負け”では済まん」
刀の兄弟が、
悔しそうに天井を見上げる。
「鬼娘を討ち取りたかったがな」
「向こうも本気を出し切っておらん」
「本気を出したときのあいつを
想像すると……」
言葉を飲み込む。
◆
当主も、
そこに座っていた。
兄弟たちの顔を、
一人ずつ見渡す。
「手打ちにすべきだ、という声が」
「ここまで増えたのは初めてだな」
低く言う。
「戦を好むこの家で」
沈黙。
火が弾ける音だけが響く。
◆
兄弟のひとりが、
笑って頭を掻いた。
「俺は、まだ戦いてぇ」
正直だった。
「鬼娘とも、
海の向こうの軍勢とも」
「だが――」
視線を横に滑らせる。
担架の上で眠る兵。
痛みでうなされる声。
「こいつらの顔を見てるとよ」
「“俺一人の楽しい”のために
島を巻き込むのは、
ちょっと違うなと思い始めた」
笑いながら言う声に、
わずかな震えがあった。
◆
敗戦のたびに強くなっていたのは、
軍勢だけではなかった。
「このへんで矛を収めるべきだ」と
主張する声もまた、
戦のたびに
厚みを増していた。
最初は、
老いた者の愚痴のようだった。
次には、
女たちのすすり泣きに混じった願いになった。
その次には、
戦場から戻った男たちの口から
ぽつりぽつりともれる言葉に変わった。
やがて――
広間の真ん中で、
当主の前で語られる意見にまで育った。
◆
「……よし」
当主は、
ようやく口を開いた。
「わしらの誇りは、
もう十分に海に流した」
「鬼娘も、
殿の軍勢も」
「わしらが“弱い”と思う者は
一人もおらん」
「ならば、
ここで手を打つことを」
「“弱さ”とは呼ばぬ」
静かな声だった。
兄弟たちは、
順に頷いていく。
「島を守るための“勝ち”だ」
「そう、
言うていこう」
◆
殿の陣に、
使者が送られた。
血の匂いがまだ残る戦場の先に、
白い布を掲げた舟が進む。
さくらは、
遠くからその様子を見ていた。
(ようやく、ですね)
(あの勇さと、
この島の戦のうまさが)
(“生き残る知恵”に
追いついた)
大太刀の柄を、
軽く撫でる。
今日は、
抜かないで済むかもしれない日だ。
◆
殿の前で、
島の使者は深く頭を下げた。
「島をひとつに束ねようとしたこと」
「海の向こうの殿に
牙を向けようとしたこと」
「それらすべて、
島の男の未熟とお笑い下さい」
言葉は丁寧だったが、
声は決して折れていない。
「ただ」
「ここから先は、
殿の“世”の中で」
「海を守る役を
我らにお任せ願いたい」
「陸で剣を振るう鬼娘がいるなら」
「海には、
島の槍と船を」
殿は、
しばらく黙ってその言葉を聞いていた。
◆
敗戦のたびに強くなったのは、
殿の軍勢と鬼娘だけではない。
島の男たちの
「負け方」と「生き残り方」もまた、
戦の数だけ鍛えられていた。
やがて、
その「生き残りたい」という理が
「勝ちたい」という勇猛さを
少しだけ追い越したとき。
西の島の戦は
ようやく「手打ち」という形を
選べるようになったのだった。




