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島は、血で温まっていた。
◆
軍勢の規模で言えば、
殿の軍が圧倒している。
陸で鍛えられた戦い方。
層をなして動く歩兵。
合図ひとつで形を変える列。
それでも、
島の男たちは引かなかった。
退かぬ、というより
退くという選択肢そのものが
どこか頭から抜け落ちているような戦い方だった。
◆
彼らには、
彼ら独自の戦があった。
入り組んだ入り江。
急に切り立つ崖。
湿った森。
見通しの悪い野。
陸の教本には載らない場所から、
矢が飛び、石が落ち、
細い道に火が走る。
殿の軍が「線」で進もうとするたび、
島の男たちは「点」と「穴」で食いついてくる。
表から見れば、
押しているのは殿の軍。
だが、
その足元には絶えず
小さな噛み跡が増えていった。
◆
その中で――
さくらは、あまりにも目立った。
強烈な桃のような女の匂い。
風が変わるたび、
その香りが戦場を撫でる。
艷やかな長い髪が
大太刀の軌道に沿って翻る。
鎧の上からでも分かる
しなやかな線。
そのすべてが、
「男よりも強い女」という
ありえない像に結びついていた。
◆
島の兵たちにとって、
それは我慢ならぬ光景だった。
「俺たちより前にいる女」
「男を薙ぎ倒す女」
「海の向こうから来た、
よそ者の鬼姫」
彼らは、
誇りを傷つけられたような感覚を
どうにも飲み込めなかった。
それは不快であり、
同時にどこか心地よくもある刺だ。
◆
前線の塹壕で、
若い兵たちが囁き合う。
「見たか、
あの大太刀の女」
「見たとも」
「笑ってやがった」
「いや、あれは……
笑ってたか?」
「分からん」
分からないからこそ、
目が離せない。
◆
当主の兄弟たちもまた、
戦の間に
彼女を何度も視界の端に捉えていた。
「面白い女だ」
刀二本の兄弟が、
刀の柄で肩口のかすり傷を叩きながら笑う。
「男どもより前に出て、
あの匂いと、あの髪だ」
「標的にするなという方が無理だな」
槍を使う兄弟は、
黙ったまま頷く。
「精神の支柱でもあろう」
短く言う。
「陸から来た軍勢の“芯”だ」
「散らしても、
あの女が立っている限り
立て直される」
戦術としても、
討ち取りの価値は高い。
◆
「誇り」と「理」が
同じ一点を指した。
それに、
もっと分かりやすいものもある。
強いものへの敬意。
憧れ。
そして、どうしようもない嫉妬。
「あれを討ち取った者は、
島一番の名を得る」
誰かがぽつりと言い、
それはすぐに
多くの男たちの胸の中で
同じ形を取った。
◆
さくらが前に出る。
桃の匂いが、
潮と血の匂いを押しのける。
それだけで、
島の兵の視線が集まる。
「あそこだ」
「鬼娘」
「海の鬼姫」
呼び名はいくつか生まれたが、
目が向かう先は一つだった。
◆
彼女は、
自分が「標的」にされていることを
とっくに分かっていた。
前列の眼つきが違う。
矢の向きが偏る。
釣り野伏せりの輪の中で、
最初に収束する矛先が
いつも自分の立つあたりに向いている。
(いいですよ)
さくらは、
心のどこかで静かに思う。
(わたくし一人に
殺意が集まるのなら)
(そのぶん、
背中の者たちの首は
少しだけ遠くなる)
理としても、
悪くない。
◆
島の男たちにとって――
さくらは「討ち取りたい女」だった。
誇りを傷つけ、
憧れを刺し、
戦術的価値も高い。
それらすべてが
一つの方向にまとまるとき、
その感情は名を変える。
殺意。
ただの敵意でもなく、
ただの恐怖でもない。
「どうしても
あれを倒さずには終われない」という
焦がれるような執着。
◆
矢をつがえる手が増える。
狙撃の位置が変わる。
罠の置き方が変わる。
「鬼娘を通すな」
「鬼娘を崖に誘え」
「鬼娘の足を止めろ」
敵の号令の中に、
彼女を示す言葉が
確かな頻度で混じり始める。
その一つ一つが、
戦場の温度を少しずつ上げていく。
◆
さくらは、
大太刀の柄に指を添えながら
(これは、
殿の世とは別の“戦の顔”ですね)
と、ふと思った。
殿の軍が持ち込んだ秩序。
島が元から持っていた野性。
その二つがぶつかり合う境目で、
彼女自身が
「標的」として燃やされている。
(ここで折れれば、
殿の軍の心も折れます)
(ここで折れなければ)
(彼らの心に、
“届かなかった一太刀”が
いつまでも刺さるでしょう)
それは、
彼女の大太刀が刻む傷と同じように
島の男たちの胸にも
一生消えない線になる。
◆
西の島の戦は、
兵数だけでは語れないものに
変わり始めていた。
殿の軍と島の勢力。
陸の秩序と海の野性。
そして――
「男たちがどうしても討ち取りたい女」と、
それでもなお
一歩も引かぬ鬼娘との戦いが、
戦場そのものの形を
じわじわと変えていくのだった。




