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退く島軍。
追うさくらたち。
一見、分かりやすい図だった。
◆
さくらは、前を走る男たちの背を見ていた。
(まだ、崩れてはいませんね)
退却の足だが、乱れていない。
転ぶ者も、振り返って悲鳴を上げる者もいない。
ただ、「退きながら揃えている」足。
(……悪い足ですね)
喉の奥で小さく笑った、その瞬間だった。
◆
草むらが、裂けた。
左右の斜面。
林の陰。
低い石垣の裏。
そこから、一斉に男たちが飛び出した。
「今だ!」
叫び声と同時に、
斜め横から槍の穂先が突き込まれる。
前だけを追って走っていた味方の列が、
横から薙がれた。
悲鳴。
土煙。
鉄と肉のぶつかる鈍い音。
◆
釣り野伏せり。
退く敵を追わせ、
野に伏せた兵で挟み込む。
教本の中でしか見なかった言葉が、
一瞬で現物になって目の前に広がった。
(島の男たち……)
(前へ出るだけの蛮勇ではないのですね)
◆
さくら自身も、
横からの槍を数本まとめて受けた。
大太刀の腹で弾き、
柄で押し返す。
だが、すぐに次が来る。
上から、
下から、
斜めから。
退いているふりをしていた前列が、
今度は反転し、
真正面から押し返してきた。
挟まれた形になる。
前後左右。
すべてが敵。
◆
味方の列の中に、
「迷い」が一気に広がる。
追うはずだった足が止まり、
振り向く者と前を見る者で視線が割れた。
さくらは、
一瞬だけ空を見た。
低い雲。
風向き。
(ここは、あの人たちの島)
(わたくしたちが知らぬ地形と風を
幼いころから吸って育った人たち)
(正面の勇だけで測ってはいけませんでした)
自嘲する余裕が、
ほんの針の先ほどだけあった。
◆
次の瞬間、
大太刀が唸った。
「下がってください!」
さくらの声が、
挟まれた味方の列に落ちる。
振り下ろすのではない。
大きく薙ぐのでもない。
足元だけを払うような低い一閃。
斜めから入り込んでいた槍の林が、
まとめて弾き飛ばされた。
石が砕け、
足をすくわれた敵兵が倒れ込む。
「――いいから、“下がる”のです!」
前へ出ようとした味方の背中を、
さくらは柄で殴った。
振り返った男が、
一瞬目を剥く。
「前も後ろも見ようとすれば、
どちらも死にます」
「今は“ここ”だけを見て、
わたくしの後ろに集まりなさい」
◆
島の男たちの「釣り野伏せり」は、
見事だった。
退くふりの列と、
伏せていた列と。
挟む角度も、距離も、
よく練られている。
だが、その中心に
鬼娘が一本、杭のように立ってしまえば、
一撃で崩れる形ではないにせよ、
「簡単に食い散らせる獲物」でもなくなる。
◆
さくらは、周囲を見渡した。
味方の兵たちが、
まだ混乱のただ中にいる。
前へ出ようとする者。
その場で構え直そうとする者。
逃げようと足を返す者。
(全員を救うことはできません)
(それは、陸でも海でも
変わらない)
ただ一つ――
彼女は線を引いた。
(殿の世から渡ってきたこの軍が)
(“島の罠にかかって壊滅した”と
語られることだけは避けましょう)
◆
「――半歩、下がりなさい!」
さくらの声が、
再び響く。
命令の内容ではない。
その声に乗った“覚悟”が
周囲の兵の背筋を打った。
さくら自身は、
一歩も下がらない。
前から来る敵を、
一人ずつ弾き返しながら、
横からの槍を、
刃の腹で受け、峰でいなし、
柄で叩き落としながら、
少しずつ、
味方がまとまれる「芯」を作っていく。
島の男たちの罠と、
殿の軍の混乱。
その真ん中に、
鬼娘の大太刀が一本、
静かに打ち込まれていた。
島の男たちの叫び声が、
四方から押し寄せていた。
◆
さくらは、
ひとつ呼吸を深くした。
(正面を壊すのは得意ですが)
(囲まれるのは、あまり好きではありません)
大太刀の柄を握り直す。
手の中で、木がしっとりと馴染む。
「輪にならないでください!」
背中に向けて、もう一度叫ぶ。
「“線”になりなさい!」
意味がすぐに通じたわけではない。
だが、
前に立つ鬼娘が一向に下がらぬのを見て、
数人が、本能的に
その背中に自分の背中を預けた。
一人、二人。
五人、十人。
ばらばらだった味方の兵が、
徐々に一本の筋になっていく。
◆
釣り野伏せりの挟撃は、
獲物を「輪」で包もうとする。
輪にして、潰す。
しかし、
さくらの足は止まらない。
前にいる敵を
一人ずつはじき返しながら、
半歩ずつ、
横へ、斜めへ、
線を引き直すように動く。
(ここを“抜け目”にしてはいけません)
(この線が切れた瞬間に、
全部呑まれます)
大太刀が、
再び低くうなる。
足元。
膝。
槍の柄。
殺すのではなく、
「立てなくする」一閃。
倒れた兵の身体が、
一瞬だけ壁の代わりになる。
そのわずかな時間の中で、
味方の兵がさらに背中を寄せ合う。
◆
島の男たちは、
よく訓練されていた。
挟み込む角度。
距離。
退いていた列の反転。
どれも、
何度も繰り返して身体に染み込ませた動き。
だが、
彼らの想定に
「輪の中に鬼が一本刺さっている」
という図はなかった。
「崩れるはず」の場所で、
崩れない芯。
「飲み込めるはず」の獲物が、
喉元で引っかかっている。
じわじわと、
焦りが広がっていく。
◆
「前はわたくしが抑えます!」
さくらは、
背中に向けて言った。
「あなた方は、
右にだけ下がりなさい!」
「右の丘まで、
“線”を伸ばすのです!」
右側には、
低い丘があった。
そこまで辿り着き、
片側を地形に預けられれば
「輪」は「半輪」に変わる。
「釣り野伏せり」は、
挟めなければただの追撃になる。
◆
味方の兵たちも、
ようやくそれを悟り始めた。
右へ。
右へ。
最初は恐る恐るだった足が、
徐々に同じ方向へ揃っていく。
横から槍が伸びるたびに、
さくらの大太刀が飛ぶ。
前列の押し込みを止め、
横からの刈り込みを折る。
(よく出来た罠です)
(褒めるべき戦です)
(だからこそ、
ここで学ばせていただきましょう)
鬼娘は、
心のどこかでそんなことを思っていた。
◆
ようやく地面の感触が変わった。
足元が、
わずかに高くなる。
右の丘のふもとだ。
「ここです!」
さくらは叫んだ。
「ここから先は、“下がる”ではなく“登る”のです!」
背中合わせに並んだ兵たちが、
そのまま斜面へ身体を預けていく。
片側を丘に預ける形で、
細い線が折れ曲がった。
島の兵たちの「輪」が、
そこで完全には閉じなくなる。
◆
包囲の外、
遠くで太鼓の音が変わった。
殿の本隊から送られる合図だ。
釣り野伏せりに
こちらが掛かった瞬間を見て、
別の方向から
押し返す陣形に移る合図。
さくらは、
その音を背中で聞いた。
(間に合いましたね)
(ここで全て呑まれなければ、
あとは殿が何とかしてくださる)
大太刀の切っ先を、
少しだけ下げる。
ここからは「退路を開く刃」。
殺すためではなく、
生きて戻るための刃。
◆
島の男たちの中にも、
すぐに状況を読んだ者がいた。
当主の兄弟の一人が、
丘の方をちらりと見て顔をしかめる。
「……抜かれたか」
「鬼を芯にされたら、
輪が締まらん」
舌打ちしながらも、
彼はすぐさま号令をかけた。
「無理に追うな!」
「前の奴らだけを食え!
鬼のいるところまでは行くな!」
勇猛だが、馬鹿ではない。
危険な芯には、
これ以上牙を立てない判断。
それは、
島の戦い方の上手さでもあった。
◆
丘に辿りついた兵たちは、
荒い息を吐きながら振り返った。
見下ろせる位置から見る
「釣り野伏せり」の形。
自分たちが
どういう罠に飛び込んだのかを、
ようやく目で理解する。
さくらは、
斜面の少し下でまだ刃を振っていた。
「登り続けなさい」
「斜面の上まで行けば、
あとは殿の軍と合流できます」
自分は、
最後の数歩のところまで残る。
(ここまで来れば、
全滅はありません)
(釣り野伏せりは、
失敗しました)
(それでも、これは
島の男たちの勝ちとも言えるでしょう)
「島の戦」を、
一つまるごと教えてくれたのだから。
◆
やがて、
敵の圧力が少しだけ弱まった。
別方向から殿の軍が押し返し、
挟み返しが始まったのだ。
島の男たちは、
深追いせず退く者と
なお前へ出ようとする者に分かれた。
その姿を見て、
さくらは大太刀を肩に担ぎ直す。
(この島を平らげることは、
簡単ではありませんね)
(でも――)
(こういう相手と刃を交えるのは、
嫌いではありません)
桃の匂いに、
潮と血と煙の匂いが混じっていた。
海の戦は、
まだ始まったばかりだった。




