表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

112/121

110

退く島軍。

追うさくらたち。


一見、分かりやすい図だった。



さくらは、前を走る男たちの背を見ていた。


(まだ、崩れてはいませんね)


退却の足だが、乱れていない。

転ぶ者も、振り返って悲鳴を上げる者もいない。


ただ、「退きながら揃えている」足。


(……悪い足ですね)


喉の奥で小さく笑った、その瞬間だった。



草むらが、裂けた。


左右の斜面。

林の陰。

低い石垣の裏。


そこから、一斉に男たちが飛び出した。


「今だ!」


叫び声と同時に、

斜め横から槍の穂先が突き込まれる。


前だけを追って走っていた味方の列が、

横から薙がれた。


悲鳴。

土煙。

鉄と肉のぶつかる鈍い音。



釣り野伏せり。


退く敵を追わせ、

野に伏せた兵で挟み込む。


教本の中でしか見なかった言葉が、

一瞬で現物になって目の前に広がった。


(島の男たち……)


(前へ出るだけの蛮勇ではないのですね)



さくら自身も、

横からの槍を数本まとめて受けた。


大太刀の腹で弾き、

柄で押し返す。


だが、すぐに次が来る。


上から、

下から、

斜めから。


退いているふりをしていた前列が、

今度は反転し、

真正面から押し返してきた。


挟まれた形になる。


前後左右。

すべてが敵。



味方の列の中に、

「迷い」が一気に広がる。


追うはずだった足が止まり、

振り向く者と前を見る者で視線が割れた。


さくらは、

一瞬だけ空を見た。


低い雲。

風向き。


(ここは、あの人たちの島)


(わたくしたちが知らぬ地形と風を

 幼いころから吸って育った人たち)


(正面の勇だけで測ってはいけませんでした)


自嘲する余裕が、

ほんの針の先ほどだけあった。



次の瞬間、

大太刀が唸った。


「下がってください!」


さくらの声が、

挟まれた味方の列に落ちる。


振り下ろすのではない。

大きく薙ぐのでもない。


足元だけを払うような低い一閃。


斜めから入り込んでいた槍の林が、

まとめて弾き飛ばされた。


石が砕け、

足をすくわれた敵兵が倒れ込む。


「――いいから、“下がる”のです!」


前へ出ようとした味方の背中を、

さくらは柄で殴った。


振り返った男が、

一瞬目を剥く。


「前も後ろも見ようとすれば、

 どちらも死にます」


「今は“ここ”だけを見て、

 わたくしの後ろに集まりなさい」



島の男たちの「釣り野伏せり」は、

見事だった。


退くふりの列と、

伏せていた列と。

挟む角度も、距離も、

よく練られている。


だが、その中心に

鬼娘が一本、杭のように立ってしまえば、


一撃で崩れる形ではないにせよ、

「簡単に食い散らせる獲物」でもなくなる。



さくらは、周囲を見渡した。


味方の兵たちが、

まだ混乱のただ中にいる。


前へ出ようとする者。

その場で構え直そうとする者。

逃げようと足を返す者。


(全員を救うことはできません)


(それは、陸でも海でも

 変わらない)


ただ一つ――

彼女は線を引いた。


(殿の世から渡ってきたこの軍が)


(“島の罠にかかって壊滅した”と

 語られることだけは避けましょう)



「――半歩、下がりなさい!」


さくらの声が、

再び響く。


命令の内容ではない。

その声に乗った“覚悟”が

周囲の兵の背筋を打った。


さくら自身は、

一歩も下がらない。


前から来る敵を、

一人ずつ弾き返しながら、


横からの槍を、

刃の腹で受け、峰でいなし、

柄で叩き落としながら、


少しずつ、

味方がまとまれる「芯」を作っていく。


島の男たちの罠と、

殿の軍の混乱。


その真ん中に、

鬼娘の大太刀が一本、

静かに打ち込まれていた。


島の男たちの叫び声が、

四方から押し寄せていた。



さくらは、

ひとつ呼吸を深くした。


(正面を壊すのは得意ですが)


(囲まれるのは、あまり好きではありません)


大太刀の柄を握り直す。

手の中で、木がしっとりと馴染む。


「輪にならないでください!」


背中に向けて、もう一度叫ぶ。


「“線”になりなさい!」


意味がすぐに通じたわけではない。


だが、

前に立つ鬼娘が一向に下がらぬのを見て、


数人が、本能的に

その背中に自分の背中を預けた。


一人、二人。

五人、十人。


ばらばらだった味方の兵が、

徐々に一本の筋になっていく。



釣り野伏せりの挟撃は、

獲物を「輪」で包もうとする。


輪にして、潰す。


しかし、

さくらの足は止まらない。


前にいる敵を

一人ずつはじき返しながら、


半歩ずつ、

横へ、斜めへ、

線を引き直すように動く。


(ここを“抜け目”にしてはいけません)


(この線が切れた瞬間に、

 全部呑まれます)


大太刀が、

再び低くうなる。


足元。

膝。

槍の柄。


殺すのではなく、

「立てなくする」一閃。


倒れた兵の身体が、

一瞬だけ壁の代わりになる。


そのわずかな時間の中で、

味方の兵がさらに背中を寄せ合う。



島の男たちは、

よく訓練されていた。


挟み込む角度。

距離。

退いていた列の反転。


どれも、

何度も繰り返して身体に染み込ませた動き。


だが、

彼らの想定に


「輪の中に鬼が一本刺さっている」

という図はなかった。


「崩れるはず」の場所で、

崩れない芯。


「飲み込めるはず」の獲物が、

喉元で引っかかっている。


じわじわと、

焦りが広がっていく。



「前はわたくしが抑えます!」


さくらは、

背中に向けて言った。


「あなた方は、

 右にだけ下がりなさい!」


「右の丘まで、

 “線”を伸ばすのです!」


右側には、

低い丘があった。


そこまで辿り着き、

片側を地形に預けられれば


「輪」は「半輪」に変わる。


「釣り野伏せり」は、

挟めなければただの追撃になる。



味方の兵たちも、

ようやくそれを悟り始めた。


右へ。

右へ。


最初は恐る恐るだった足が、

徐々に同じ方向へ揃っていく。


横から槍が伸びるたびに、

さくらの大太刀が飛ぶ。


前列の押し込みを止め、

横からの刈り込みを折る。


(よく出来た罠です)


(褒めるべき戦です)


(だからこそ、

 ここで学ばせていただきましょう)


鬼娘は、

心のどこかでそんなことを思っていた。



ようやく地面の感触が変わった。


足元が、

わずかに高くなる。


右の丘のふもとだ。


「ここです!」


さくらは叫んだ。


「ここから先は、“下がる”ではなく“登る”のです!」


背中合わせに並んだ兵たちが、

そのまま斜面へ身体を預けていく。


片側を丘に預ける形で、

細い線が折れ曲がった。


島の兵たちの「輪」が、

そこで完全には閉じなくなる。



包囲の外、

遠くで太鼓の音が変わった。


殿の本隊から送られる合図だ。


釣り野伏せりに

こちらが掛かった瞬間を見て、


別の方向から

押し返す陣形に移る合図。


さくらは、

その音を背中で聞いた。


(間に合いましたね)


(ここで全て呑まれなければ、

 あとは殿が何とかしてくださる)


大太刀の切っ先を、

少しだけ下げる。


ここからは「退路を開く刃」。


殺すためではなく、

生きて戻るための刃。



島の男たちの中にも、

すぐに状況を読んだ者がいた。


当主の兄弟の一人が、

丘の方をちらりと見て顔をしかめる。


「……抜かれたか」


「鬼を芯にされたら、

 輪が締まらん」


舌打ちしながらも、

彼はすぐさま号令をかけた。


「無理に追うな!」


「前の奴らだけを食え!

 鬼のいるところまでは行くな!」


勇猛だが、馬鹿ではない。

危険な芯には、

これ以上牙を立てない判断。


それは、

島の戦い方の上手さでもあった。



丘に辿りついた兵たちは、

荒い息を吐きながら振り返った。


見下ろせる位置から見る

「釣り野伏せり」の形。


自分たちが

どういう罠に飛び込んだのかを、


ようやく目で理解する。


さくらは、

斜面の少し下でまだ刃を振っていた。


「登り続けなさい」


「斜面の上まで行けば、

 あとは殿の軍と合流できます」


自分は、

最後の数歩のところまで残る。


(ここまで来れば、

 全滅はありません)


(釣り野伏せりは、

 失敗しました)


(それでも、これは

 島の男たちの勝ちとも言えるでしょう)


「島の戦」を、

一つまるごと教えてくれたのだから。



やがて、

敵の圧力が少しだけ弱まった。


別方向から殿の軍が押し返し、

挟み返しが始まったのだ。


島の男たちは、

深追いせず退く者と

なお前へ出ようとする者に分かれた。


その姿を見て、

さくらは大太刀を肩に担ぎ直す。


(この島を平らげることは、

 簡単ではありませんね)


(でも――)


(こういう相手と刃を交えるのは、

 嫌いではありません)


桃の匂いに、

潮と血と煙の匂いが混じっていた。


海の戦は、

まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ