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幕の中に、
まだ匂いが残っていた。
◆
濃い。
さくらが去ってから、
そう時間は経っていない。
にもかかわらず、
幕を揺らす風は
ことごとく桃のような女の匂いを運んでくる。
(鬼娘、か)
狸は、
香炉の火を指先でつつきながら
鼻の奥に残るその匂いを
じわりと感じていた。
香を焚いても、
すぐには消えぬ。
狭い幕の中は
一時の間だけ
鬼の気配に占められていたのだ。
◆
(わしが抱える中で、
最も強い男が敵わぬ)
「狸に過ぎたるもの」。
傷一つ負わずに戦場を渡ってきた槍。
その胴に、
初めて深い太刀傷が刻まれた。
血相を変えて運び込まれたとき、
狸は思ったものだ。
(あの男が「引け」と言うなら、
それ以上の理は要らぬな)
負けたから引くのではない。
斬られたから退くのでもない。
――「今は、ここで刃を合わす時ではない」
そう判断した武の頂点。
その言葉と傷は、
狸にとって何より雄弁だった。
◆
(戦国で最も強い男が敵わぬ)
槍の男だけではない。
寺を焼こうとする軍勢を、
北の反乱を、
逆臣を。
鬼娘の大太刀は、
何度も戦場の形を変えてきた。
それを今、
自在に動かしているのが
「殿」と呼ばれる、
かつての「猿」だ。
狸は、
机の端に置いた駒に目を落とす。
殿の名が刻まれた駒。
その向こうに、
亡き主君の影が、ちらつく。
(あの男に従うしかないな)
心の中で、
静かに結論を置く。
◆
従う、とはいえ
頭を垂れて仕えるという意味ではない。
狸にとっての「従う」は、
刃を今はそちらに向けぬ、ということ。
(猿の世が、
どこまで続くか)
(鬼娘が、
いつまで鬼でいられるか)
(猿の子供が、
自分の名で旗を掲げる日が来るか)
それらを
じっと見定めるあいだは
自分の牙を
鞘の中で研ぎながら、
静かに息を潜めておく。
それが、
狸という生き物の戦い方だった。
◆
幕の中の匂いが、
少しずつ薄れていく。
桃の匂いも、
血の気配も、
鬼の影も。
代わりに残るのは、
古い木と紙と、
冷えた墨の匂い。
狸は、
ようやく香炉の灰を指でつまみ
かすかに笑った。
「……あの鬼を使いこなす男に」
「この老狸が、
正面から噛みつけるはずもないか」
そう呟いて、
一つだけ駒を進める。
牙を隠したまま。
腹の底を見せぬまま。
それでも、
選んだ手ははっきりしていた。
――今は、猿に従う。
鬼娘の匂いが消えた幕の中で、
狸の決意だけが
静かに濃くなっていった。
西の海の向こうが、
騒がしくなり始めていた。
◆
かつて従属させた西の大勢力。
そのさらに西――
大きな島が一つ。
そこでは今、
一人の男が、
島をまるごと己の手に収めようとしていた。
城を落とし、
国人たちをねじ伏せ、
旗を一つに揃えようとしている。
(西の果てのこと)
最初にその報を聞いたとき、
殿はそう思った。
都でもなく、
街道でもなく、
すぐにこちらに牙を剥く場所でもない。
だからこそ、
まずは書簡を送った。
「島を一つに束ねること自体は構わぬ」
「だが、その刃を
こちらに向ける気があるなら――
今のうちにやめよ」
穏やかな文。
だが、その行間には
はっきりとした線が引かれていた。
◆
返事は、来なかった。
無視。
返書どころか、
使者に対する丁重な挨拶さえない。
代わりに届いたのは、
別の筋からの噂だった。
――「西の島で、新たな“覇”を名乗る男がいる」
――「殿の世など、この海までは届かぬと」
殿は評定の間で、
その噂を静かに聞いていた。
◆
地図の端。
西の海に浮かぶ島は、
これまでほとんど駒を置かれたことがなかった。
誰もが、
「遠い」と思っていた場所。
だが今は違う。
都から西へ。
都から南へ。
都から北へ。
殿の世は、
既に陸を伝って広がり始めている。
(ここで、
“海の向こうだから”と目をつぶれば)
(そこに別の秩序が起きる)
(それは、
いずれ必ず本土へ牙を向ける)
殿は、
そういう男だった。
◆
「討伐するしか、ありますまい」
策士が、
最後に口を開いた。
「従属させた西の大国を抑えにし、
兵糧の道を確保できます」
「島そのものを
丸ごと奪う必要はなくとも」
「“海の向こう”に
殿の名を知らしめることはできます」
別の重臣も頷く。
「ここで放置すれば、
やがて西の海は
『殿の世を認めぬ者たちの避難場所』になります」
「それは、
いずれ大火となりましょう」
◆
殿は、
長く黙していた。
さくらは、
その横顔を見ている。
寺を焼くと決めたとき。
将軍の城を攻めると決めたとき。
逆臣を討つと決めたとき。
そのどれとも違う、
静かな顔だった。
(遠い)
(でも、
見過ごせない)
その二つの思いが
綱引きをしている顔。
やがて、
その綱が片方に傾いた。
殿は、
短く言った。
「……討伐するしかあるまい」
評定の間の空気が、
一段階重くなる。
「西の大国には先に筋を通す」
「“お前たちを責めるのではない”と」
「その上で、
海を渡る兵を整えよ」
「陸の世から、
海の世へ踏み出す時だ」
そう決まった。
◆
評定が終わり、
さくらは廊下を歩いていた。
風に乗って、
遠くから潮の匂いがする。
(島)
(海の向こうの戦)
陸の戦は、
いくつも見てきた。
城、山、川、平野。
そこに大太刀を振るう場は
いくらでもあった。
だが海は違う。
(大太刀は、
海の上ではどう振るうべきか)
さくらは、
自分の刃の重さを想像してみる。
船の上。
揺れる板。
狭い甲板。
(……少し、
考え直す必要がありそうですね)
(振り下ろすばかりが
剣ではありません)
鬼娘は、
自分の大太刀の柄にそっと触れた。
まだ海の塩気は、
鋼に染み込んでいない。
これから初めて、
海風に晒されることになる。
◆
その夜。
殿は机の前で、
西の地図をじっと見ていた。
従属させた西の大国。
そのさらに向こうの島。
「……わしはいつの間に」
ぽつりと呟く。
「殿の世の“守り役”になったのだろうな」
攻めているようで、
実は追い立てられている。
戦国の世が終わらぬ限り、
次々と現れる「別の秩序」を
叩き潰し続けなければならない。
その一つが、
たまたま西の海の向こうに
現れただけの話。
(あの島を、
丸ごと飲み込む必要はない)
(ただ、
牙を向けなくなる程度に)
(“殿の世”を
噛み砕けぬと分からせればいい)
殿の視線が、
地図の端から端へ滑っていく。
そこにはまだ、
描かれていない海の道が
いくつも隠れていた。
◆
海を渡る戦。
鬼娘の大太刀が、
初めて波の音を聞く戦。
まだ具体の形はない。
ただ一つ――
殿の中で、
線だけは引かれていた。
西の島が、
勝手に「別の天下」を
名乗れぬようにすること。
それが、
この討伐の唯一の目的だった。




