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幕の中に、

まだ匂いが残っていた。

濃い。

さくらが去ってから、

そう時間は経っていない。

にもかかわらず、

幕を揺らす風は

ことごとく桃のような女の匂いを運んでくる。

(鬼娘、か)

狸は、

香炉の火を指先でつつきながら

鼻の奥に残るその匂いを

じわりと感じていた。

香を焚いても、

すぐには消えぬ。

狭い幕の中は

一時の間だけ

鬼の気配に占められていたのだ。

(わしが抱える中で、

 最も強い男が敵わぬ)

「狸に過ぎたるもの」。

傷一つ負わずに戦場を渡ってきた槍。

その胴に、

初めて深い太刀傷が刻まれた。

血相を変えて運び込まれたとき、

狸は思ったものだ。

(あの男が「引け」と言うなら、

 それ以上の理は要らぬな)

負けたから引くのではない。

斬られたから退くのでもない。

――「今は、ここで刃を合わす時ではない」

そう判断した武の頂点。

その言葉と傷は、

狸にとって何より雄弁だった。

(戦国で最も強い男が敵わぬ)

槍の男だけではない。

寺を焼こうとする軍勢を、

北の反乱を、

逆臣を。

鬼娘の大太刀は、

何度も戦場の形を変えてきた。

それを今、

自在に動かしているのが

「殿」と呼ばれる、

かつての「猿」だ。

狸は、

机の端に置いた駒に目を落とす。

殿の名が刻まれた駒。

その向こうに、

亡き主君の影が、ちらつく。

(あの男に従うしかないな)

心の中で、

静かに結論を置く。

従う、とはいえ

頭を垂れて仕えるという意味ではない。

狸にとっての「従う」は、

刃を今はそちらに向けぬ、ということ。

(猿の世が、

 どこまで続くか)

(鬼娘が、

 いつまで鬼でいられるか)

(猿の子供が、

 自分の名で旗を掲げる日が来るか)

それらを

じっと見定めるあいだは

自分の牙を

鞘の中で研ぎながら、

静かに息を潜めておく。

それが、

狸という生き物の戦い方だった。

幕の中の匂いが、

少しずつ薄れていく。

桃の匂いも、

血の気配も、

鬼の影も。

代わりに残るのは、

古い木と紙と、

冷えた墨の匂い。

狸は、

ようやく香炉の灰を指でつまみ

かすかに笑った。

「……あの鬼を使いこなす男に」

「この老狸が、

 正面から噛みつけるはずもないか」

そう呟いて、

一つだけ駒を進める。

牙を隠したまま。

腹の底を見せぬまま。

それでも、

選んだ手ははっきりしていた。

――今は、猿に従う。

鬼娘の匂いが消えた幕の中で、

狸の決意だけが

静かに濃くなっていった。


西の海の向こうが、

騒がしくなり始めていた。



かつて従属させた西の大勢力。

そのさらに西――

大きな島が一つ。


そこでは今、

一人の男が、

島をまるごと己の手に収めようとしていた。


城を落とし、

国人たちをねじ伏せ、

旗を一つに揃えようとしている。


(西の果てのこと)


最初にその報を聞いたとき、

殿はそう思った。


都でもなく、

街道でもなく、

すぐにこちらに牙を剥く場所でもない。


だからこそ、

まずは書簡を送った。


「島を一つに束ねること自体は構わぬ」


「だが、その刃を

 こちらに向ける気があるなら――

 今のうちにやめよ」


穏やかな文。

だが、その行間には

はっきりとした線が引かれていた。



返事は、来なかった。


無視。


返書どころか、

使者に対する丁重な挨拶さえない。


代わりに届いたのは、

別の筋からの噂だった。


――「西の島で、新たな“覇”を名乗る男がいる」


――「殿の世など、この海までは届かぬと」


殿は評定の間で、

その噂を静かに聞いていた。



地図の端。

西の海に浮かぶ島は、

これまでほとんど駒を置かれたことがなかった。


誰もが、

「遠い」と思っていた場所。


だが今は違う。


都から西へ。

都から南へ。

都から北へ。


殿の世は、

既に陸を伝って広がり始めている。


(ここで、

 “海の向こうだから”と目をつぶれば)


(そこに別の秩序が起きる)


(それは、

 いずれ必ず本土へ牙を向ける)


殿は、

そういう男だった。



「討伐するしか、ありますまい」


策士が、

最後に口を開いた。


「従属させた西の大国を抑えにし、

 兵糧の道を確保できます」


「島そのものを

 丸ごと奪う必要はなくとも」


「“海の向こう”に

 殿の名を知らしめることはできます」


別の重臣も頷く。


「ここで放置すれば、

 やがて西の海は

 『殿の世を認めぬ者たちの避難場所』になります」


「それは、

 いずれ大火となりましょう」



殿は、

長く黙していた。


さくらは、

その横顔を見ている。


寺を焼くと決めたとき。

将軍の城を攻めると決めたとき。

逆臣を討つと決めたとき。


そのどれとも違う、

静かな顔だった。


(遠い)


(でも、

 見過ごせない)


その二つの思いが

綱引きをしている顔。


やがて、

その綱が片方に傾いた。


殿は、

短く言った。


「……討伐するしかあるまい」


評定の間の空気が、

一段階重くなる。


「西の大国には先に筋を通す」


「“お前たちを責めるのではない”と」


「その上で、

 海を渡る兵を整えよ」


「陸の世から、

 海の世へ踏み出す時だ」


そう決まった。



評定が終わり、

さくらは廊下を歩いていた。


風に乗って、

遠くから潮の匂いがする。


(島)


(海の向こうの戦)


陸の戦は、

いくつも見てきた。


城、山、川、平野。

そこに大太刀を振るう場は

いくらでもあった。


だが海は違う。


(大太刀は、

 海の上ではどう振るうべきか)


さくらは、

自分の刃の重さを想像してみる。


船の上。

揺れる板。

狭い甲板。


(……少し、

 考え直す必要がありそうですね)


(振り下ろすばかりが

 剣ではありません)


鬼娘は、

自分の大太刀の柄にそっと触れた。


まだ海の塩気は、

鋼に染み込んでいない。


これから初めて、

海風に晒されることになる。



その夜。


殿は机の前で、

西の地図をじっと見ていた。


従属させた西の大国。

そのさらに向こうの島。


「……わしはいつの間に」


ぽつりと呟く。


「殿の世の“守り役”になったのだろうな」


攻めているようで、

実は追い立てられている。


戦国の世が終わらぬ限り、

次々と現れる「別の秩序」を

叩き潰し続けなければならない。


その一つが、

たまたま西の海の向こうに

現れただけの話。


(あの島を、

 丸ごと飲み込む必要はない)


(ただ、

 牙を向けなくなる程度に)


(“殿の世”を

 噛み砕けぬと分からせればいい)


殿の視線が、

地図の端から端へ滑っていく。


そこにはまだ、

描かれていない海の道が

いくつも隠れていた。



海を渡る戦。


鬼娘の大太刀が、

初めて波の音を聞く戦。


まだ具体の形はない。


ただ一つ――

殿の中で、

線だけは引かれていた。


西の島が、

勝手に「別の天下」を

名乗れぬようにすること。


それが、

この討伐の唯一の目的だった。

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