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「狸様のもとへ通せ」


男は、

背後の兵に命じた。


「この女は使者だ」


「首を狙う者は、

 わしが敵と見なす」


その言葉で、

さくらの周囲から緊張が少し引いた。


槍の穂先が下がる。

かわりに視線の重さだけが残る。


さくらは、

軽く頭を下げた。


「手を煩わせてしまいました」


男は、

肩をすくめる。


「初めての傷が、

 殿の鬼娘というのは悪くない」


「……痛いがな」


そう言って、

血のにじむ胴を押さえながら

笑ってみせた。



本陣の幕は、

分厚い布で重く垂れていた。


中に入ると、

空気が一段階冷える。


地図。

駒。

香の匂い。


その中央に、

狸がいた。


猫背気味に座り、

目を細めてさくらを見ている。


「遠路、ご苦労であったな」


声は穏やかだった。


「殿の鬼娘よ」



さくらは、

黙って膝をついた。


桃の匂いが、

幕の中にもわずかに広がる。


狸は、

鼻先をひくりとも動かさない。


(この方は、

 匂いで揺れるような人ではない)


さくらは、

心の中でそう言い聞かせる。


「まず一つ」


狸が先に口を開いた。


「わしの家来を傷つけたわけだが」


「命は取っておらぬと聞く」


「そなたの加減か」


「はい」


さくらは、

ゆっくりと頷いた。


「殿の命は、“戦を避けよ”でした」


「殺せば、

 それだけで避けられなくなると

 考えた次第です」


狸の目が、

ほんの少しだけ細まった。


「……なるほど」



「では、本題に入ろう」


狸は、

卓上の駒に指を置いた。


駒には、亡き主君の苗字が記されている。


「殿の御子息を掲げたこと」


「それが、

 今の殿のお気に召さぬと?」


さくらは、

自分の言葉を選んだ。


「“お気に召さぬ”というより」


「“殿のお名前を、

 楯にしてほしくない”と」


「そう仰っていました」


狸の指が、

駒を軽く弾く。


「楯か」


「……あの御方の名を、

 楯と呼ばれるとはな」


皮肉とも、寂しさともつかぬ声。



「殿の御子息は、

 殿の子です」


さくらは続ける。


「ですが、

 殿ではありません」


「殿の志を継ぐと仰るなら」


「自らの名で旗を掲げるべきだと」


「その志を、

 今の殿は継ごうとしておられます」


狸は、

しばし黙って聞いていた。


「……鬼娘よ」


「そなたは、

 今の殿を“殿”と呼ぶのか」


問いは、

意外な方向から来た。


さくらは即答する。


「はい」


「殿です」


「殿の世を生き残った者として」


「今の殿のもとで刃を振るうと決めました」



狸は、

小さく笑った。


「忠義深いことだ」


「殿への情まで、

 今の殿に重ねておるか?」


さくらは、

首を横に振る。


「殿への情は、

 殿へのものとして別にあります」


「今の殿には、

 今の殿への情があります」


「あの御方の影ではなく」


「別の人として、

 刃を預けています」


狸は、

その答えに満足したようには見えない。


だが、

失望もしていなかった。


ただ、

深く、長く息を吐いた。



「……あやつらしいな」


ぽつりと、

独り言のように言う。


「あの御方なら、

 確かにそう言うだろう」


「“息子を楯にするな”と」


駒を指で弄びながら、

狸の目が遠くを見る。


かつての殿。

盟友。

酒を酌み交わした夜。


(この方もまた、

 殿を悼む一人)


さくらは、

その横顔にほんの一瞬

寂しさを見た気がした。



「鬼娘」


狸は、

再びさくらに視線を戻す。


「わしがここで兵を退けば」


「殿は、

 殿の御子息をどうすると思う」


さくらは、

少し考えるように目を伏せた。


「……おそらくは」


「“殿の子”として遇されるでしょう」


「駒ではなく」


「人として」


狸の口元に、

かすかな笑みが浮かぶ。


「そうだな」


「今の殿は、

 そうする男だろう」



幕の外から、

足音が近づいた。


先ほどの槍の男だ。


包帯を巻かれ、

袈裟の傷の下に当て布をした胴。


痛みを押し殺しながら、

深く頭を垂れる。


「狸様」


「鬼娘の刃、

 この身で確かに見ました」


「正面から戦をすれば」


「わしの首と、

 多くの者の命が地に転がります」


「……引くべきと存じます」


その言葉は、

負けの進言ではない。


次の戦を見据えた、

武人の判断だった。


狸は、

その言を軽く受け止めるように頷いた。



「そうか」


「そなたがそう言うなら、

 そうなのだろう」


狸は、

駒を一つ持ち上げた。


亡き主君の苗字が記された駒。


それを、

卓の端にそっと置く。


「鬼娘よ」


「殿に伝えよ」


「“狸は、殿の御子息を

 楯にはせぬ”と」


「旗は、一度下げる」


「ただし――」


目が、細く笑った。


「殿の子が、

 自らの足で立ち、

 自らの名で旗を掲げる日が来たなら」


「そのときは、

 狸もまた応じると」


「その時が来るまで、

 わしは牙を研いでおこう」



さくらは、

深く頭を下げた。


(ここまでが、

 今の殿にとっての「勝ち」です)


(殿の子の旗は、

 一度畳まれる)


(狸殿の矛先も、

 ひとまずこちらから逸れる)


(でも――)


(いつか、

 またどこかで)


(この男の牙は必要になる)


幕の中の空気は、

決して和やかではなかった。


敵対を解いたわけではない。


ただ、

刃を抜く時期を

少し先に送っただけ。



陣を辞する頃。


槍の男が、

さくらに近づいた。


胴に巻かれた布の下で、

傷がじくじくと疼いている。


「鬼娘」


「ひとつ聞かせろ」


さくらは立ち止まる。


「何でしょう」


「あの一太刀」


「本気を出せば、

 わしを斬れたか」


さくらは、

少しだけ考えるふりをして


「……はい」


正直に答えた。


「斬ることも、

 斬らぬこともできました」


「今日は、

 斬らぬ方を選びました」


男は、

目を細めて笑った。


「では、この傷は」


「わしの命が、

 殿の世に留まった証だな」


「忘れんようにしよう」


そう言って、

軽く背を向ける。


その後ろ姿は、

敗者には見えなかった。



数日後。


殿のもとに

報せが届いた。


狸、兵を退く。

掲げていた旗を一度下ろし、

殿の御子息を自領に戻すと。


猿――今の殿は、

文を読んで静かに目を閉じた。


「……あやつらしい」


ぽつりと言う。


「正面から噛み合えば

 互いに血を流すだけだと」


「分かっていて

 それでも一度は牙を見せ」


「鬼を見て、

 時ではないと引く」


さくらは、

黙って頭を垂れていた。



「よくやった」


殿は、

こちらを見ずに言った。


「誰の首も狩らずに戻った鬼など、

 そうそうおらん」


「ありがとうございます」


さくらは答える。


(首は狩らず)


(傷だけを残して戻った)


(それでも、

 戦は確かに動いた)


桃の匂いが、

わずかに揺れた。


戦国の世は、

まだ遠くまで続いている。


その中で、

鬼娘の大太刀は


これからも

「殺す」と「生かす」のあいだを

何度も行き来することになるのだろう。

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