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「狸様のもとへ通せ」
男は、
背後の兵に命じた。
「この女は使者だ」
「首を狙う者は、
わしが敵と見なす」
その言葉で、
さくらの周囲から緊張が少し引いた。
槍の穂先が下がる。
かわりに視線の重さだけが残る。
さくらは、
軽く頭を下げた。
「手を煩わせてしまいました」
男は、
肩をすくめる。
「初めての傷が、
殿の鬼娘というのは悪くない」
「……痛いがな」
そう言って、
血のにじむ胴を押さえながら
笑ってみせた。
◆
本陣の幕は、
分厚い布で重く垂れていた。
中に入ると、
空気が一段階冷える。
地図。
駒。
香の匂い。
その中央に、
狸がいた。
猫背気味に座り、
目を細めてさくらを見ている。
「遠路、ご苦労であったな」
声は穏やかだった。
「殿の鬼娘よ」
◆
さくらは、
黙って膝をついた。
桃の匂いが、
幕の中にもわずかに広がる。
狸は、
鼻先をひくりとも動かさない。
(この方は、
匂いで揺れるような人ではない)
さくらは、
心の中でそう言い聞かせる。
「まず一つ」
狸が先に口を開いた。
「わしの家来を傷つけたわけだが」
「命は取っておらぬと聞く」
「そなたの加減か」
「はい」
さくらは、
ゆっくりと頷いた。
「殿の命は、“戦を避けよ”でした」
「殺せば、
それだけで避けられなくなると
考えた次第です」
狸の目が、
ほんの少しだけ細まった。
「……なるほど」
◆
「では、本題に入ろう」
狸は、
卓上の駒に指を置いた。
駒には、亡き主君の苗字が記されている。
「殿の御子息を掲げたこと」
「それが、
今の殿のお気に召さぬと?」
さくらは、
自分の言葉を選んだ。
「“お気に召さぬ”というより」
「“殿のお名前を、
楯にしてほしくない”と」
「そう仰っていました」
狸の指が、
駒を軽く弾く。
「楯か」
「……あの御方の名を、
楯と呼ばれるとはな」
皮肉とも、寂しさともつかぬ声。
◆
「殿の御子息は、
殿の子です」
さくらは続ける。
「ですが、
殿ではありません」
「殿の志を継ぐと仰るなら」
「自らの名で旗を掲げるべきだと」
「その志を、
今の殿は継ごうとしておられます」
狸は、
しばし黙って聞いていた。
「……鬼娘よ」
「そなたは、
今の殿を“殿”と呼ぶのか」
問いは、
意外な方向から来た。
さくらは即答する。
「はい」
「殿です」
「殿の世を生き残った者として」
「今の殿のもとで刃を振るうと決めました」
◆
狸は、
小さく笑った。
「忠義深いことだ」
「殿への情まで、
今の殿に重ねておるか?」
さくらは、
首を横に振る。
「殿への情は、
殿へのものとして別にあります」
「今の殿には、
今の殿への情があります」
「あの御方の影ではなく」
「別の人として、
刃を預けています」
狸は、
その答えに満足したようには見えない。
だが、
失望もしていなかった。
ただ、
深く、長く息を吐いた。
◆
「……あやつらしいな」
ぽつりと、
独り言のように言う。
「あの御方なら、
確かにそう言うだろう」
「“息子を楯にするな”と」
駒を指で弄びながら、
狸の目が遠くを見る。
かつての殿。
盟友。
酒を酌み交わした夜。
(この方もまた、
殿を悼む一人)
さくらは、
その横顔にほんの一瞬
寂しさを見た気がした。
◆
「鬼娘」
狸は、
再びさくらに視線を戻す。
「わしがここで兵を退けば」
「殿は、
殿の御子息をどうすると思う」
さくらは、
少し考えるように目を伏せた。
「……おそらくは」
「“殿の子”として遇されるでしょう」
「駒ではなく」
「人として」
狸の口元に、
かすかな笑みが浮かぶ。
「そうだな」
「今の殿は、
そうする男だろう」
◆
幕の外から、
足音が近づいた。
先ほどの槍の男だ。
包帯を巻かれ、
袈裟の傷の下に当て布をした胴。
痛みを押し殺しながら、
深く頭を垂れる。
「狸様」
「鬼娘の刃、
この身で確かに見ました」
「正面から戦をすれば」
「わしの首と、
多くの者の命が地に転がります」
「……引くべきと存じます」
その言葉は、
負けの進言ではない。
次の戦を見据えた、
武人の判断だった。
狸は、
その言を軽く受け止めるように頷いた。
◆
「そうか」
「そなたがそう言うなら、
そうなのだろう」
狸は、
駒を一つ持ち上げた。
亡き主君の苗字が記された駒。
それを、
卓の端にそっと置く。
「鬼娘よ」
「殿に伝えよ」
「“狸は、殿の御子息を
楯にはせぬ”と」
「旗は、一度下げる」
「ただし――」
目が、細く笑った。
「殿の子が、
自らの足で立ち、
自らの名で旗を掲げる日が来たなら」
「そのときは、
狸もまた応じると」
「その時が来るまで、
わしは牙を研いでおこう」
◆
さくらは、
深く頭を下げた。
(ここまでが、
今の殿にとっての「勝ち」です)
(殿の子の旗は、
一度畳まれる)
(狸殿の矛先も、
ひとまずこちらから逸れる)
(でも――)
(いつか、
またどこかで)
(この男の牙は必要になる)
幕の中の空気は、
決して和やかではなかった。
敵対を解いたわけではない。
ただ、
刃を抜く時期を
少し先に送っただけ。
◆
陣を辞する頃。
槍の男が、
さくらに近づいた。
胴に巻かれた布の下で、
傷がじくじくと疼いている。
「鬼娘」
「ひとつ聞かせろ」
さくらは立ち止まる。
「何でしょう」
「あの一太刀」
「本気を出せば、
わしを斬れたか」
さくらは、
少しだけ考えるふりをして
「……はい」
正直に答えた。
「斬ることも、
斬らぬこともできました」
「今日は、
斬らぬ方を選びました」
男は、
目を細めて笑った。
「では、この傷は」
「わしの命が、
殿の世に留まった証だな」
「忘れんようにしよう」
そう言って、
軽く背を向ける。
その後ろ姿は、
敗者には見えなかった。
◆
数日後。
殿のもとに
報せが届いた。
狸、兵を退く。
掲げていた旗を一度下ろし、
殿の御子息を自領に戻すと。
猿――今の殿は、
文を読んで静かに目を閉じた。
「……あやつらしい」
ぽつりと言う。
「正面から噛み合えば
互いに血を流すだけだと」
「分かっていて
それでも一度は牙を見せ」
「鬼を見て、
時ではないと引く」
さくらは、
黙って頭を垂れていた。
◆
「よくやった」
殿は、
こちらを見ずに言った。
「誰の首も狩らずに戻った鬼など、
そうそうおらん」
「ありがとうございます」
さくらは答える。
(首は狩らず)
(傷だけを残して戻った)
(それでも、
戦は確かに動いた)
桃の匂いが、
わずかに揺れた。
戦国の世は、
まだ遠くまで続いている。
その中で、
鬼娘の大太刀は
これからも
「殺す」と「生かす」のあいだを
何度も行き来することになるのだろう。




