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槍と大太刀が、
何度も空中で噛み合った。
◆
金属の音が、
短く、鋭く、幾度も弾ける。
男は、
槍の間合いを決して譲らなかった。
踏み込み。
半歩の退き。
馬の首をわずかに振って
槍の角度を変える。
(力に付き合うな)
(刃を受けるな)
(触れた瞬間に、
流し、逸らし、潜り抜けろ)
そのたびに、
穂先はさくらの肌すれすれを通る。
袖が裂ける。
髪が揺れる。
頬に、冷たい風が走る。
ただの一突きでも、
命を奪う軌道だった。
◆
さくらもまた、
ひたすら「受け止めない」剣を振るっていた。
大太刀を、
振り下ろさない。
振り抜かない。
叩きつけない。
刃を寝かせ、
峰を使い、
柄で押し、
ただ槍の芯をずらし続ける。
(殺さない)
(殺してはならない)
(でも――)
(“通す”必要はある)
腕に、
何度も重さが乗る。
槍の芯が太く、
しなりが強い。
(いい槍ですね)
(いい腕です)
心の中で、
まるで稽古相手に告げるように呟く。
◆
やがて、
互いの息が僅かに荒くなり始めた。
男の額に汗。
さくらの襟元に汗。
どちらも、
まだ一歩も引いていない。
その瞬間。
ほんの一刹那。
槍の穂先が、
少しだけ深く差し込んできた。
これまでより半歩踏み込んだ突き。
(――来た)
さくらの視界が、
すっと澄んだ。
◆
大太刀の柄を、
逆手に取るように握り替える。
刃をわずかに寝かせて、
穂先の真下をすくう。
槍の芯が、
かすかに浮いた。
男の目が、
驚きでわずかに開く。
(避けた――)
次の瞬間には、
さくらの身体が内側に入り込んでいた。
槍の間合いの「内側」。
男にとって最も触れられたくない距離。
大太刀が、
軽く振り上げられる。
質量のあるものとは思えない滑らかさで、
上から下へ。
斜めに。
すっと、
一本の線が引かれた。
◆
遅れて、
布の裂ける音がした。
鎧の隙間。
胴の肉。
さくらは、
刃をそこで止めた。
もっと深く振り抜けた。
骨ごと断ち切ることもできた。
だが、
そうはしなかった。
あくまで「袈裟」。
深くはあるが、
命綱を外さない角度と深さ。
男の身体が、
半歩遅れてよろめく。
槍が、
指の間からこぼれ落ちた。
◆
血が、一筋だけ。
布の上を伝って落ちる。
どっと、
周囲の空気が揺れた。
言葉も悲鳴もない。
言葉の前に、
息を飲む音だけが重なり合う。
(通した)
さくらは、
大太刀をすっと引き、
刃を振って血を払う。
鋼の線は、
まだ冴えている。
◆
男は、
片手を胴に当てた。
指先に触れる熱。
ぬるさ。
確かに深い。
だが、
内側まで抜かれてはいない。
(……命には、届いていない)
不思議と、
痛みより先にその感想が浮かんだ。
立っていられる。
足も動く。
ただ、
胴のど真ん中に
一本の線が刻まれた。
これから何十年経っても、
鏡を見れば
必ず目に入るであろう傷。
初めての傷。
「……やられたな」
男は、
低く笑った。
負けて笑う顔ではなかった。
悔しさと、
どこか晴れやかなものが混じった笑い。
◆
さくらは、
彼が倒れないことを確認してから
大太刀を肩に乗せた。
(手当てをすれば、
命には関わりません)
(ただ――)
(槍を構えるたびに、
この傷が疼くでしょう)
(“鬼娘の刃は、
二度目は致命になる”と)
身体に刻むための線。
殺さずに、
しかし確実に残すための線。
◆
陣中は、
誰一人として声を上げなかった。
「狸に過ぎたるもの」が
初めて血を流した。
それは、
矢が一本飛んだよりも、
城が一つ落ちたよりも、
この陣にとっては重い事実だった。
さくらは、
静かに口を開いた。
「――ひとまず、
槍の切れ味はよく分かりました」
声は、
驚くほど穏やかだった。
「これ以上は、
無用な血となりましょう」
「本来の用件を
お伝えしてもよろしいでしょうか」
まだ槍を持つ兵たちの前で、
鬼娘は一歩も退かず
だが誰の首も狩らぬまま、
「話の場」を作り上げていた。
男の胴から、
じわりと血が滲んでいた。
◆
「下がれ!」
ようやく、誰かが声を張り上げる。
槍を構えていた兵たちが、
慌てて男のもとへ駆け寄った。
さくらは動かない。
大太刀の切っ先を地に落とし、
ただ静かに男の様子を見ている。
「……手当てを」
そう言ったのは、当の男だった。
息は荒い。
額には汗。
しかし、声はまだ澄んでいる。
「命には障らん」
「ただ――」
指先で、
胴を走る火傷のような痛みをなぞる。
「二度と、
忘れられぬだろうな」
◆
周囲の兵たちの視線が、
さくらと男のあいだを行き来する。
「狸に過ぎたるもの」が、
初めて血を流した。
それでもまだ立っている。
鬼娘は、
いつでももう一度振れる距離にいるのに、
振らないでいる。
その事実が、
何より重かった。
◆
「……鬼娘」
男が、さくらを呼んだ。
さくらは、
わずかに顎を傾ける。
「何でしょう」
「ここでさらに一太刀、
振るうつもりはあるか」
「ありません」
即答だった。
「殿の命は、
“戦を避けよ”です」
「あなたの命を奪えば、
それだけで狸殿は退けなくなる」
「わたくしの役目は、
あなたを殺すことではなく」
「“傷を刻む”ことでした」
男は、
ふっと笑った。
「ならば」
ふらつく足で一歩進み出る。
周囲が慌てて支えようとするのを、
手で制した。
「この傷は、
狸様への言葉として受け取ろう」
「ここで鬼娘を斬れぬなら」
「正面から猿殿と戦など、
なおさら出来ぬ」
男の目は、
冴えていた。
負けを悟った武人の目ではない。
次の手を読む戦人の目だった。




