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105

山道を行くあいだ、

さくらは一人の男の姿を

何度も胸に描いていた。



「狸に過ぎたるもの」


そう呼ばれる男。


槍一本。


何度も戦場に出ながら、

傷一つ負わず戻ってくる。


そこに立っていただけで、

飛んできた蜻蛉が真っ二つになった――

そんな荒唐無稽な噂が

当たり前のように囁かれる槍の達人。


軍として見れば、狸の配下。

一人の武士として見れば、

戦国最強と噂される男。


(彼は、確実に出てくる)


さくらは、

馬の背で揺れながら静かに思う。


(狸殿の陣に鬼娘が乗り込むのです)


(出てこないはずがない)



今回、さくらに課された役目は

「戦を終わらせるための乱戦」ではない。


全軍を叩き潰すでもなく、

将の首を並べるでもなく。


(私は、誰の命も奪わなくていい)


(むしろ、奪ってはならない)


ただひとつだけ。


(彼の胴体に――

 一生消えない太刀傷を残す)


(初めての傷)


(それで十分ですね)



重いことを考えているはずなのに、

心は妙に澄んでいた。


・北の反乱のとき

・逆臣討ちのとき

・寺を焼いたとき


さくらの刃はいつも、

「殺すため」に抜かれてきた。


今回は違う。


「生かすため」に斬る。

「退かせるため」に傷つける。


(殺さぬ方が難しいです)


(でも)


(大太刀を振るう鬼娘が

 そういう斬り方をできると知れ渡ったなら)


(それこそ、狸殿にとっても

 悪くない話でしょう)



山を下り、

川を渡り、

平野に出る。


遠くに、

狸の陣の幟が見え始めた。


その少し手前で、

さくらは馬を降りた。


連れてきた手勢は、

片手で数えられるほど。


「ここからは、

 わたくし一人で参ります」


さくらの言葉に、

家臣たちは頷いた。


鬼娘が一人で歩く方が、

よほど「話」になると

皆分かっていた。



土煙の匂い。

炊き出しの味噌の匂い。

鉄と油の匂い。


その中に、

さくらの桃の匂いが

ゆっくりと混ざっていく。


(こちらが歩けば、

 陣は必ずざわめく)


(そのざわめきに、

 あの男も気づくでしょう)


やがて、

最初の兵が気づいた。


「……女か?」


「いや、あれは」


「黒髪、長身、刀――」


「鬼娘だ」


波紋のようにざわめきが広がる。


槍が半ば構えられ、

何人かが前に出ようとして


「やめい」


その声を、

別の鋭い声が制した。



人垣が割れる。


そこに、一人の男がいた。


鎧は簡素。

槍は細身で長い。


顔立ちは目立たない。

ただ、

その場の空気だけが異様に張っている。


立っているだけで、

風が刃物に触れたような感覚。


(……これですね)


さくらは、

心の中で小さく頷いた。


噂に聞く男。


「狸に過ぎたるもの」。



男は、

じっとさくらを見ていた。


目に好戦の色は薄い。

むしろ、興味の方が濃い。


「鬼娘」


短く呼ぶ。


「話をしに来たのか」


「それとも、

 噂を確かめに来たのか」


さくらは、

一歩前に進み出た。


「話をしに来ました」


「ただ、その前に――」


大太刀の鍔に、

指先を添える。


「少しだけ、

 槍の切れ味を拝見したく思います」


陣の空気が、

一気に高く張り詰めた。


男の口元に、

玩具を見つけた子供のような笑みが

ごく僅かに浮かぶ。


「……それは、

 こちらも同じことだ」


槍の穂先が、

ゆっくりと持ち上がる。


「殿の世を支えた鬼娘」


「どれほどの刃か」


「この手で触れてみたかった」


さくらは、

二歩だけ前に出た。


(殺さない)


(殺さない)


胸の内側で、

何度もその言葉を繰り返す。


(あなたの槍は、

 この先の世にも必要でしょう)


(ただひとつだけ)


(“二度と正面から

 殿の秩序に槍を向けない”と)


(身体に覚え込ませるだけです)


桃の匂いが、

戦場とは違う濃さで立ち上った。


陣の真ん中で、

鬼娘と「狸に過ぎたるもの」が

静かに向かい合う。


刃は、まだ交わっていない。


それでも――

誰もが悟っていた。


ここでつく一本の傷が、

狸の挑戦の行方を左右すると。


槍の男は、

最初の一合で悟った。


――重い。


穂先で受けただけなのに、

肩から肘まで、骨ごと鳴った気がした。


(これが、噂の剛力か)


(まともに受け止めれば、

 腕がもがれる)


しかし、それだけだった。


驚きはあれど、恐怖ではない。


(怪力に付き合わなければいいだけの話)



馬に飛び乗る。


地面に立つ鬼娘。

上から見下ろす槍。


間合い。

高さ。

伸び。


条件が有利なのはこちらだ。


(刀と槍)


(地上と馬上)


(どこかで、

 大太刀の軌道をかいくぐり)


(こちらの一突きを通せばいい)


鬼娘の首でも、

肩でも、

腿でも構わない。


一度、

槍の穂先を通してしまえば、

どれほどの怪力でも動きは鈍る。


そういう戦を、

何度もくぐってきた。



馬が駆ける。


土煙が上がる。

槍の穂先が、

大太刀の死角をなぞりながら伸びる。


が――

そのたびに、


大太刀が、小枝のように

ひょい、と跳ね上がる。


鈍重さがない。


(……軽い?)


いや、違う。


軽く振っているのに、

重さが乗っている。


刃の腹で受け、

峰でいなし、

柄で払う。


軌道が、

無駄なく、よじれる。



一度、

馬の首すれすれで大太刀が返ってきた。


(まずい)


わずかに手綱を引く。

馬がいななき、

後ろ足で跳ねる。


その下を、

風だけが通り抜けた。


(今のを、わざと外したな)


男は、

直感的にそう理解した。


当てようと思えば、

当たっていた。


馬の首か、

自分の腰か。


それを外した上で、

「次はないぞ」と

身体に刻み込む軌道。


(怪力だけの鬼ではない)


(卓越した剣術――)



今度は、

さくらが地を蹴った。


大太刀を振り上げるのではなく、

低く構えて走る。


刃が、

土をなでる高さ。


(槍の間合いに入る気か)


男は、

あえて突きを絞った。


最短の突き。

馬の動きを殺し、

槍だけを走らせる。


穂先と大太刀が交わる。


金属が鳴る、

その瞬間。


大太刀の刃が、

槍を押し返すのではなく、


わずかに滑った。


(……絡め取られた!?)


槍の柄が引き寄せられる。

男はすぐに手を離した。


離さなければ、

こちらの肩が飛んでいた。



槍を失った。


だが、

まだ負けではない。


馬の腹を蹴る。

距離を取る。


そのわずかなあいだに、

鬼娘は大太刀をくるりと回し


先ほど弾き飛ばした槍を

刃の先で持ち上げて

ぽとりと地面に落とした。


――「拾え」とでも言うように。


男の胸の奥に、

ふっと熱が灯る。


(剛力)


(大太刀)


(それを支える技)


(こちらもまた――)



新手の槍が投げられる。

後ろから駆けつけた兵が、

男の足元へと差し出した。


受け取って、

一度だけ深く息を吸う。


(剛力に付き合うな)


(槍の利を捨てるな)


(刀と槍)


(不利なのは、こちらではない)


それでも、

鬼娘の剣を前にすれば


「有利」などという言葉が

ただの飾りに思えてくる。


(同じことだ)


(不利でも、

 技で覆せばいい)


(あの女がそうしているように)


男は、

槍を低く構え直した。


地を削るような構え。

穂先が、

いつでも喉笛を穿てる高さ。


鬼娘もまた、

大太刀を肩に乗せるでもなく、

地に伏せるでもなく、


こちらと同じ高さに

ぴたりと合わせて構えた。


――技で勝負を決める高さ。


二人の間の空気が、

細く、鋭く張り詰める。


陣の周囲で、

兵たちの喉がごくりと鳴った。


誰もが知っていた。


ここから先は、

怪力でも

噂でもなく。


槍と刀、

技と技。


どちらが先に

一筋の線を通すかだけの

時間だということを。

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