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狸が動いた、という報せが入ったのは、
妹君との婚姻の話がようやく固まりつつある頃だった。
◆
評定の間。
地図の上に、山と川と、いくつもの旗。
その一角に、新たに小さな印が置かれた。
右下の方。かつて虎と呼ばれた男の旧領に近い場所。
「……狸が、亡き殿の御子息を一人、擁立いたしました」
策士の声は淡々としている。
「“正統なる後継”を掲げて、
兵を集めているとのこと」
殿は、腕を組んだまま地図を見下ろしていた。
狸――
かつて主君が「盟友」と呼んだ男。
虎が病に倒れたあと、その配下たちを取り込み、
じわじわと軍を肥らせてきた男。
忍耐強く、決して腹の底を見せぬ男。
(ここで来たか)
胸の奥で、殿は毒にも似た溜息をついた。
◆
「殿」
別の重臣が口を開く。
「兵力で言えば、
我らと狸、そう大きな差はございませぬ」
「今、打って出れば――」
殿は、その言葉を手で制した。
「全力を出せば、叩き潰せる」
自ら先に言う。
「それはわしも分かっておる」
「ただし」
指先が、地図の別の場所を軽く叩いた。
北。
西。
都に近い要所。
「こちらの被害も、想像を絶するはずだ」
「多方面に、未だに敵を抱えている状況で」
「ここで狸との大戦に全てを注げば」
「他の牙が一斉にこちらを噛む」
静かな声だが、
部屋の空気が一段階落ちた。
◆
「では、見過ごしますか」
誰かが問う。
殿は首を振った。
「見過ごせば、
“亡き殿の正統”が狸の手の中で育つ」
「それもまた、いずれ毒になる」
「狸は、殿の盟友だった」
「腹の底を最後まで見せなかった男だ」
「その男が、
今さらただの駒を掲げているとは思えぬ」
狸の顔を思い浮かべる。
笑っているのか笑っていないのか分からぬ目。
酒の席でも決して酔いつぶれない舌。
(あやつは、
殿がいなくなったこの世で)
(ようやく本気を出すつもりなのだろう)
◆
沈黙ののち、殿は言った。
「……やはり、さくらに一肌脱いでもらうしかあるまい」
その名が出た瞬間、
評定の間の空気がわずかに変わった。
桃の匂いが、
指先に蘇る者もいる。
「殿」
さくらは、
壇下から静かに頭を下げる。
◆
評定のあと。
殿・さくら・策士だけが残された小さな座敷。
火鉢の火がゆっくりと熾きている。
「狸と、大戦はできぬ」
殿は、
策士にもさくらにも隠し立てしなかった。
「勝てるが、
勝ったあとが保たぬ」
「わしの世は、
殿の世のあと始末から始まっておる」
「ここで自ら大火を放る真似はできん」
さくらは、
黙って聞いていた。
◆
「では、何を」
策士が尋ねる。
殿は地図を指差した。
狸の陣。
そのすぐ近く。
「狸の軍は、
今まさに膨らみつつある最中だ」
「殿の御子息を掲げる者も、
“あの狸なら勝ち馬だろう”と見て集まっている」
「だが、まだ
決して一枚岩ではない」
「そこへ――」
視線をさくらに向ける。
「鬼が歩いて行けば、どうなるか」
さくらは、
静かに目を細めた。
「……使者、でございますか」
「使者であり、見世物でもある」
殿は言い切る。
「狸は、
戦場で正面から鬼と刃を交えるような真似はせん」
「だが、その配下たちは違う」
「殿の御子息を掲げ、
血気にはやっている若い武将どもは」
「鬼娘の噂を、
半ば伝説として聞いている」
策士が、
口元に手を添える。
「“本物”を見せる、と」
殿は頷く。
「そうだ」
「さくら」
「おぬしには、
ごく少数の手勢だけを連れて」
「狸の陣へ乗り込んでもらう」
◆
さくらは、
表情を変えなかった。
「……斬り捨ててまいりますか」
「違う」
殿は首を振る。
「斬りすぎてはならん」
「見せてやればよい」
「殿の世を支えた鬼が」
「今はわしの刃として、
いまだ鈍っておらぬことを」
「その上で、
ひとつだけ伝えてこい」
殿の目が、
まっすぐさくらを捉える。
「“狸よ、殿の名を楯に取るな”」
「“殿の御子息を、
駆け引きの道具に使うな”と」
◆
策士が、
補うように言う。
「狸が本当に殿の息子を思うなら」
「ここで鬼を相手取るような
愚かな真似はいたしません」
「配下に“本物”を見せつけられれば、
なおさら」
「恐れと計算で、
矛を引くでしょう」
「狸はそういう男です」
殿は、
わずかに笑った。
「問題は、
狸の配下の中に」
「恐れより血気の方が勝る者が
どれほどいるか、だ」
視線はさくらに戻る。
「おぬしは、
その者たちの“鎮魂”も
まとめて引き受けることになる」
「刃を見せ、
血を流し」
「その上で、
それでもなお狸が引かぬなら――」
言葉を切り、
少し目を閉じた。
「そのときは大戦だ」
「わしも、
覚悟を決めねばならん」
◆
さくらは、
長く息を吐いた。
(狸)
(主君が“盟友”と呼んだ男)
(殿とは、また違う筋の通し方をする人)
狸のことを直接見たことは、
ほとんどない。
ただ、
遠くから評定に出入りする姿を
一度だけ見たことがある。
静かで、
重くて、
腹の底を見せない目。
(あの男と)
(殿の間に立って)
(刃を半分抜いたまま
戻ってこなければならない)
鬼にとって、
最も難しい役回りかもしれない。
それでも、
断るという選択肢はなかった。
◆
「承知しました」
さくらは言った。
「狸殿の陣へ赴き」
「場を乱し、
刃を見せ」
「殿の言葉を、
その耳に入れてまいります」
「それでなお矛を引かぬなら」
「そのときは――」
桃の匂いが、
すっと濃くなる。
「鬼として、
相応の礼を尽くします」
殿は頷いた。
「頼む」
「わしには、
狸を丸ごと敵に回す余裕はない」
「殿の息子を掲げていようと、
いまわしの敵になるのなら」
「その矛先だけは、
今のうちに鈍らせておきたい」
◆
翌朝。
さくらは、ごく少数の手勢と共に
狸の陣を目指して馬を出した。
旗は掲げぬ。
白い小さな布だけを、
槍の穂先に結びつけて。
(使者の白)
(鬼の桃)
二つの匂いが、
山風の中で静かに混じり合っていく。
一方その頃――
狸の陣でもまた、
「殿の鬼娘が来るらしい」
そんな噂が、
じわじわと広がり始めていた。




