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狸が動いた、という報せが入ったのは、

妹君との婚姻の話がようやく固まりつつある頃だった。



評定の間。


地図の上に、山と川と、いくつもの旗。


その一角に、新たに小さな印が置かれた。

右下の方。かつて虎と呼ばれた男の旧領に近い場所。


「……狸が、亡き殿の御子息を一人、擁立いたしました」


策士の声は淡々としている。


「“正統なる後継”を掲げて、

 兵を集めているとのこと」


殿は、腕を組んだまま地図を見下ろしていた。


狸――

かつて主君が「盟友」と呼んだ男。


虎が病に倒れたあと、その配下たちを取り込み、

じわじわと軍を肥らせてきた男。


忍耐強く、決して腹の底を見せぬ男。


(ここで来たか)


胸の奥で、殿は毒にも似た溜息をついた。



「殿」


別の重臣が口を開く。


「兵力で言えば、

 我らと狸、そう大きな差はございませぬ」


「今、打って出れば――」


殿は、その言葉を手で制した。


「全力を出せば、叩き潰せる」


自ら先に言う。


「それはわしも分かっておる」


「ただし」


指先が、地図の別の場所を軽く叩いた。


北。

西。

都に近い要所。


「こちらの被害も、想像を絶するはずだ」


「多方面に、未だに敵を抱えている状況で」


「ここで狸との大戦に全てを注げば」


「他の牙が一斉にこちらを噛む」


静かな声だが、

部屋の空気が一段階落ちた。



「では、見過ごしますか」


誰かが問う。


殿は首を振った。


「見過ごせば、

 “亡き殿の正統”が狸の手の中で育つ」


「それもまた、いずれ毒になる」


「狸は、殿の盟友だった」


「腹の底を最後まで見せなかった男だ」


「その男が、

 今さらただの駒を掲げているとは思えぬ」


狸の顔を思い浮かべる。


笑っているのか笑っていないのか分からぬ目。

酒の席でも決して酔いつぶれない舌。


(あやつは、

 殿がいなくなったこの世で)


(ようやく本気を出すつもりなのだろう)



沈黙ののち、殿は言った。


「……やはり、さくらに一肌脱いでもらうしかあるまい」


その名が出た瞬間、

評定の間の空気がわずかに変わった。


桃の匂いが、

指先に蘇る者もいる。


「殿」


さくらは、

壇下から静かに頭を下げる。



評定のあと。


殿・さくら・策士だけが残された小さな座敷。


火鉢の火がゆっくりと熾きている。


「狸と、大戦はできぬ」


殿は、

策士にもさくらにも隠し立てしなかった。


「勝てるが、

 勝ったあとが保たぬ」


「わしの世は、

 殿の世のあと始末から始まっておる」


「ここで自ら大火を放る真似はできん」


さくらは、

黙って聞いていた。



「では、何を」


策士が尋ねる。


殿は地図を指差した。


狸の陣。

そのすぐ近く。


「狸の軍は、

 今まさに膨らみつつある最中だ」


「殿の御子息を掲げる者も、

 “あの狸なら勝ち馬だろう”と見て集まっている」


「だが、まだ

 決して一枚岩ではない」


「そこへ――」


視線をさくらに向ける。


「鬼が歩いて行けば、どうなるか」


さくらは、

静かに目を細めた。


「……使者、でございますか」


「使者であり、見世物でもある」


殿は言い切る。


「狸は、

 戦場で正面から鬼と刃を交えるような真似はせん」


「だが、その配下たちは違う」


「殿の御子息を掲げ、

 血気にはやっている若い武将どもは」


「鬼娘の噂を、

 半ば伝説として聞いている」


策士が、

口元に手を添える。


「“本物”を見せる、と」


殿は頷く。


「そうだ」


「さくら」


「おぬしには、

 ごく少数の手勢だけを連れて」


「狸の陣へ乗り込んでもらう」



さくらは、

表情を変えなかった。


「……斬り捨ててまいりますか」


「違う」


殿は首を振る。


「斬りすぎてはならん」


「見せてやればよい」


「殿の世を支えた鬼が」


「今はわしの刃として、

 いまだ鈍っておらぬことを」


「その上で、

 ひとつだけ伝えてこい」


殿の目が、

まっすぐさくらを捉える。


「“狸よ、殿の名を楯に取るな”」


「“殿の御子息を、

 駆け引きの道具に使うな”と」



策士が、

補うように言う。


「狸が本当に殿の息子を思うなら」


「ここで鬼を相手取るような

 愚かな真似はいたしません」


「配下に“本物”を見せつけられれば、

 なおさら」


「恐れと計算で、

 矛を引くでしょう」


「狸はそういう男です」


殿は、

わずかに笑った。


「問題は、

 狸の配下の中に」


「恐れより血気の方が勝る者が

 どれほどいるか、だ」


視線はさくらに戻る。


「おぬしは、

 その者たちの“鎮魂”も

 まとめて引き受けることになる」


「刃を見せ、

 血を流し」


「その上で、

 それでもなお狸が引かぬなら――」


言葉を切り、

少し目を閉じた。


「そのときは大戦だ」


「わしも、

 覚悟を決めねばならん」



さくらは、

長く息を吐いた。


(狸)


(主君が“盟友”と呼んだ男)


(殿とは、また違う筋の通し方をする人)


狸のことを直接見たことは、

ほとんどない。


ただ、

遠くから評定に出入りする姿を

一度だけ見たことがある。


静かで、

重くて、

腹の底を見せない目。


(あの男と)


(殿の間に立って)


(刃を半分抜いたまま

 戻ってこなければならない)


鬼にとって、

最も難しい役回りかもしれない。


それでも、

断るという選択肢はなかった。



「承知しました」


さくらは言った。


「狸殿の陣へ赴き」


「場を乱し、

 刃を見せ」


「殿の言葉を、

 その耳に入れてまいります」


「それでなお矛を引かぬなら」


「そのときは――」


桃の匂いが、

すっと濃くなる。


「鬼として、

 相応の礼を尽くします」


殿は頷いた。


「頼む」


「わしには、

 狸を丸ごと敵に回す余裕はない」


「殿の息子を掲げていようと、

 いまわしの敵になるのなら」


「その矛先だけは、

 今のうちに鈍らせておきたい」



翌朝。


さくらは、ごく少数の手勢と共に

狸の陣を目指して馬を出した。


旗は掲げぬ。

白い小さな布だけを、

槍の穂先に結びつけて。


(使者の白)


(鬼の桃)


二つの匂いが、

山風の中で静かに混じり合っていく。


一方その頃――

狸の陣でもまた、


「殿の鬼娘が来るらしい」


そんな噂が、

じわじわと広がり始めていた。

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