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殿は、
妻の横顔を見ながら、
湯気の向こうに別の夜を見ていた。
◆
(そうだった)
(あの女は、いつもこうして
わしの足りぬところを支えてくれた)
西の地を与えられ、
初めて「国主」と呼ばれた頃。
珍しい酒。
見知らぬ女。
勝ち戦。
若い血が騒ぎ、
好色に明け暮れていた時期があった。
妻は、
何も言わなかった。
代わりに、
主君に手紙を出した。
――「猿殿が、少し浮かれておられます」
その結果、
山城に呼び戻され、
畳の上で正座させられた。
「……お主のことだ、
戦場で命を粗末にするならまだしも」
「女で身を崩すなど、つまらんぞ」
扇で軽く頭を叩かれ、
そのあとで一言だけ添えられた。
「妻を大事にせい」
それは、
呆れるほどくだらなくて、
どうしようもなく温かい叱責だった。
◆
(あれは、いい思い出だな)
殿は、
心の中で苦笑する。
(あんなことのために、
わざわざ手紙を書いてこられた)
城が燃える前。
寺を焼く前。
天下の形を塗り替える前。
たった一人の家臣の
女癖の悪さを気にかけてくれた主君。
(……殿)
呼びかければ、
もう返事はない。
だからこそ、
今の殿は自分で決めるしかなかった。
◆
妹君を娶る。
殿は、
そう心に定めた。
政のため。
主君の血筋を守るため。
そして――
自分のわがままのため。
(それくらいの贅沢は、
主君も笑って許してくれるだろう)
(許してくれねば、
夢の中ででも扇で叩かれる)
そう思うことで、
ようやく胸の奥のざらつきが
少しだけ和らいだ。
◆
やがて、
末娘が妙齢になれば。
(あの娘は、母に似ている)
一人目の婿との間の三人娘の末っ子。
まだ幼いが、
目つきも、笑い方も、
どこか母親にそっくりだった。
(あの娘もいずれ、
誰かの妻になる)
(ならば――)
(主君の血と、
一族の縁を絶やさぬために)
将来、
我が妻として迎える道を
どこかで用意しておくべきかもしれぬ。
戦国の世らしい、
冷たく計算された思案。
それなのに、
その裏側には
(あの家の女たちを、
これ以上戦に弄ばせたくない)
という、
どうにも言葉にしづらい
意地のようなものが絡みついていた。
◆
翌日。
殿はまず、策士とさくらを呼んだ。
小さな座敷。
障子を閉め切り、
火鉢ひとつ。
「妹君を娶る」
殿は、
回りくどい言い方はしなかった。
策士は、
予想していたように目を細める。
「政としては、
最も収まりの良いところにございます」
「ただし」
さくらの視線が、
静かに殿を見ていた。
殿は、その視線を正面から受ける。
「さくら」
「……何もおかしなことではないと、
頭では分かっています」
さくらは言った。
「亡き主君の志を継ぐ殿が」
「亡き主君の妹君を娶る」
「世は、そう見るでしょう」
(それでも)
胸の中で続ける言葉は飲み込んだ。
主君と妹君が城の廊下で並んで歩く姿。
その少し後ろを、
自分が大太刀を背負って歩いていた日の光景。
それが、
ふっと重なりそうになるのを
必死に押しとどめる。
(殿が殿である限り)
(これは、殿の婚姻だ)
(主君の影ではない)
さくらは、
静かに頭を下げた。
「妹君のお心の方も」
「よくお汲み取りくださいませ」
それは、
鬼娘としてではなく、
亡き主君の刃としての願いだった。
◆
その日の夕刻。
妹君の幕の前で、
殿は足を止めた。
さくらは少し離れたところで控え、
幕の中に声だけが通る。
「妹君」
沈黙ののち、
落ち着いた声が返る。
「……お入りください」
殿は中に入り、
静かに膝をついた。
妹君は、
きちんと着物を整え、
座していた。
目の赤みはもう引いている。
代わりに、
湖面のように静かな光が宿っていた。
◆
「率直に申します」
殿は、
先に頭を下げた。
「妹君」
「あなたを、
この身の妻として迎えたい」
空気がわずかに揺れた。
妹君は、
すぐには答えない。
(主君の妹)
(主君の配下だったこの男)
(今は、主君の後を継いだ“殿”)
二人のあいだにある名と、
二人のあいだにない名とを
ゆっくりと並べていく。
「……二度、婿を失いました」
妹君は、
静かに口を開いた。
「一人は、
殿に討たれ」
「もう一人は」
わずかに視線を落とす。
「殿の世に逆らって、
滅びました」
「今度は、
ご自身が婿になると?」
皮肉にも聞こえる言葉。
しかし、声にはとげがなかった。
◆
殿は、
そのままの言葉を受け止めた。
「その二人を討った責は、
わしにあります」
「主君の命に従ったとしても」
「今の殿として
決断を下したとしても」
「その重さは消えない」
「だからこそ」
ゆっくり顔を上げる。
「あなたをこれ以上
戦の駒として流したくない」
「この世がどう変わろうと」
「せめて、この手の届くところでは
安んじていてほしい」
◆
妹君は、
じっと殿を見ていた。
そこに、
亡き兄の影を探そうとはしない。
探せば、
きっとどこかで似ているところが見つかる。
だがそれをした瞬間、
兄の居場所が一つ減る気がした。
「殿の妻は」
妹君は問う。
「何と仰せでしたか」
殿は、
少し目を伏せた。
「嫌だ、と」
隠さない。
「だが」
「それだけで世の筋が立つとも思わぬ、と」
「一つ条件を出された」
妹君は、
興味深そうに首をかしげる。
「条件」
「“兄上の影としてわたくしを見ぬなら”」
殿は、
妻の言葉をそのまま借りた。
「妹君を妹君として迎えると約したなら」
「そのときは
殿の決めたことに従うと」
妹君の口元に、
ごく微かな笑みが浮かぶ。
「……あの方らしい」
兄の配下でありながら、
兄にも引けを取らぬ強さを持つ女。
あの妻の顔が脳裏に過った。
◆
「わたくしは」
妹君は、
スッと背筋を伸ばした。
「兄上の妹です」
「二人の婿を亡くした女です」
「三人娘の母です」
「そして」
視線を殿に戻す。
「殿が拾い上げた、
ただの女でもあります」
「この四つのうち」
「どの顔を見て
わたくしを娶ろうとなさるのか」
殿は、
少し考えるように目を閉じた。
「……全部だと言いたいところだが」
「それでは、
また影を重ねることになるな」
目を開く。
「今ここで、
わしが最も強く見ているのは」
「崖際で、
鬼娘に抱えられながら」
「涙を堪えていたあなたの顔だ」
妹君のまぶたが
わずかに震えた。
「あれは、
誰の妹でも」
「誰かの妻でもない」
「あなた自身の顔だった」
◆
沈黙が落ちた。
外から、
風の音だけが聞こえる。
やがて妹君は、
小さく息を吐いた。
「……ずるい方ですね」
「そんなことを言われてしまっては」
「断りづらくなります」
殿は、
苦笑した。
「断られたなら、
諦めるつもりでおりました」
「政の筋は
別の形で補えます」
「ただ」
「あなたの口から
“生きてここにいてもよい”と
言っていただけるなら」
「わしは、それを
この先の支えにしたかった」
妹君は、
その言葉をしばらく味わうように黙し、
やがて、
静かに頭を下げた。
「……兄上に怒られそうですが」
「三人娘の母として」
「亡き婿たちの妻として」
「そして一人の女として」
「殿の妻になることを
お受けいたします」
◆
その返事を聞いた瞬間。
殿の胸の奥で、
長く伸びていた糸が
ようやくひとつ結び目を持った。
主君。
妹君。
妻。
そして自分。
それぞれの場所が
少しずつずれながら、
それでも、
ひとつの輪の中に
収まろうとしている。
(……殿)
心の中で、
かつての主君に呼びかける。
(勝手をいたします)
(扇で叩くなら、
夢の中で頼みますぞ)
どこからともなく、
あの豪快な笑い声が
聞こえたような気がした。
◆
その少し後。
城の片隅で、
末娘が庭を駆け回っていた。
母に似た顔。
まだ幼い。
彼女は、
自分が将来どんな縁に結ばれるのかなど
知るはずもない。
ただ、
庭の隅に咲いた小さな花を見つけて
無邪気に笑っていた。
殿は、
遠くからその姿を一瞥し、
すぐに視線を外した。
(今考えることではない)
(今はただ、
この一つの婚姻から
世の筋を整えていくほかない)
桃の匂いが、
廊下の向こうから微かに流れてきた。
さくらが、
新たな殿の動きを見届けようと
静かに歩いてくる。
戦国の世の、
次の一手が
また音もなく
並べられようとしていた。




