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103

殿は、

妻の横顔を見ながら、

湯気の向こうに別の夜を見ていた。



(そうだった)


(あの女は、いつもこうして

 わしの足りぬところを支えてくれた)


西の地を与えられ、

初めて「国主」と呼ばれた頃。


珍しい酒。

見知らぬ女。

勝ち戦。


若い血が騒ぎ、

好色に明け暮れていた時期があった。


妻は、

何も言わなかった。


代わりに、

主君に手紙を出した。


――「猿殿が、少し浮かれておられます」


その結果、

山城に呼び戻され、

畳の上で正座させられた。


「……お主のことだ、

 戦場で命を粗末にするならまだしも」


「女で身を崩すなど、つまらんぞ」


扇で軽く頭を叩かれ、

そのあとで一言だけ添えられた。


「妻を大事にせい」


それは、

呆れるほどくだらなくて、

どうしようもなく温かい叱責だった。



(あれは、いい思い出だな)


殿は、

心の中で苦笑する。


(あんなことのために、

 わざわざ手紙を書いてこられた)


城が燃える前。

寺を焼く前。

天下の形を塗り替える前。


たった一人の家臣の

女癖の悪さを気にかけてくれた主君。


(……殿)


呼びかければ、

もう返事はない。


だからこそ、

今の殿は自分で決めるしかなかった。



妹君を娶る。


殿は、

そう心に定めた。


政のため。

主君の血筋を守るため。

そして――

自分のわがままのため。


(それくらいの贅沢は、

 主君も笑って許してくれるだろう)


(許してくれねば、

 夢の中ででも扇で叩かれる)


そう思うことで、

ようやく胸の奥のざらつきが

少しだけ和らいだ。



やがて、

末娘が妙齢になれば。


(あの娘は、母に似ている)


一人目の婿との間の三人娘の末っ子。

まだ幼いが、

目つきも、笑い方も、

どこか母親にそっくりだった。


(あの娘もいずれ、

 誰かの妻になる)


(ならば――)


(主君の血と、

 一族の縁を絶やさぬために)


将来、

我が妻として迎える道を

どこかで用意しておくべきかもしれぬ。


戦国の世らしい、

冷たく計算された思案。


それなのに、

その裏側には


(あの家の女たちを、

 これ以上戦に弄ばせたくない)


という、

どうにも言葉にしづらい

意地のようなものが絡みついていた。



翌日。


殿はまず、策士とさくらを呼んだ。


小さな座敷。

障子を閉め切り、

火鉢ひとつ。


「妹君を娶る」


殿は、

回りくどい言い方はしなかった。


策士は、

予想していたように目を細める。


「政としては、

 最も収まりの良いところにございます」


「ただし」


さくらの視線が、

静かに殿を見ていた。


殿は、その視線を正面から受ける。


「さくら」


「……何もおかしなことではないと、

 頭では分かっています」


さくらは言った。


「亡き主君の志を継ぐ殿が」


「亡き主君の妹君を娶る」


「世は、そう見るでしょう」


(それでも)


胸の中で続ける言葉は飲み込んだ。


主君と妹君が城の廊下で並んで歩く姿。

その少し後ろを、

自分が大太刀を背負って歩いていた日の光景。


それが、

ふっと重なりそうになるのを

必死に押しとどめる。


(殿が殿である限り)


(これは、殿の婚姻だ)


(主君の影ではない)


さくらは、

静かに頭を下げた。


「妹君のお心の方も」


「よくお汲み取りくださいませ」


それは、

鬼娘としてではなく、

亡き主君の刃としての願いだった。



その日の夕刻。


妹君の幕の前で、

殿は足を止めた。


さくらは少し離れたところで控え、

幕の中に声だけが通る。


「妹君」


沈黙ののち、

落ち着いた声が返る。


「……お入りください」


殿は中に入り、

静かに膝をついた。


妹君は、

きちんと着物を整え、

座していた。


目の赤みはもう引いている。

代わりに、

湖面のように静かな光が宿っていた。



「率直に申します」


殿は、

先に頭を下げた。


「妹君」


「あなたを、

 この身の妻として迎えたい」


空気がわずかに揺れた。


妹君は、

すぐには答えない。


(主君の妹)


(主君の配下だったこの男)


(今は、主君の後を継いだ“殿”)


二人のあいだにある名と、

二人のあいだにない名とを

ゆっくりと並べていく。


「……二度、婿を失いました」


妹君は、

静かに口を開いた。


「一人は、

 殿に討たれ」


「もう一人は」


わずかに視線を落とす。


「殿の世に逆らって、

 滅びました」


「今度は、

 ご自身が婿になると?」


皮肉にも聞こえる言葉。

しかし、声にはとげがなかった。



殿は、

そのままの言葉を受け止めた。


「その二人を討った責は、

 わしにあります」


「主君の命に従ったとしても」


「今の殿として

 決断を下したとしても」


「その重さは消えない」


「だからこそ」


ゆっくり顔を上げる。


「あなたをこれ以上

 戦の駒として流したくない」


「この世がどう変わろうと」


「せめて、この手の届くところでは

 安んじていてほしい」



妹君は、

じっと殿を見ていた。


そこに、

亡き兄の影を探そうとはしない。


探せば、

きっとどこかで似ているところが見つかる。


だがそれをした瞬間、

兄の居場所が一つ減る気がした。


「殿の妻は」


妹君は問う。


「何と仰せでしたか」


殿は、

少し目を伏せた。


「嫌だ、と」


隠さない。


「だが」


「それだけで世の筋が立つとも思わぬ、と」


「一つ条件を出された」


妹君は、

興味深そうに首をかしげる。


「条件」


「“兄上の影としてわたくしを見ぬなら”」


殿は、

妻の言葉をそのまま借りた。


「妹君を妹君として迎えると約したなら」


「そのときは

 殿の決めたことに従うと」


妹君の口元に、

ごく微かな笑みが浮かぶ。


「……あの方らしい」


兄の配下でありながら、

兄にも引けを取らぬ強さを持つ女。


あの妻の顔が脳裏に過った。



「わたくしは」


妹君は、

スッと背筋を伸ばした。


「兄上の妹です」


「二人の婿を亡くした女です」


「三人娘の母です」


「そして」


視線を殿に戻す。


「殿が拾い上げた、

 ただの女でもあります」


「この四つのうち」


「どの顔を見て

 わたくしを娶ろうとなさるのか」


殿は、

少し考えるように目を閉じた。


「……全部だと言いたいところだが」


「それでは、

 また影を重ねることになるな」


目を開く。


「今ここで、

 わしが最も強く見ているのは」


「崖際で、

 鬼娘に抱えられながら」


「涙を堪えていたあなたの顔だ」


妹君のまぶたが

わずかに震えた。


「あれは、

 誰の妹でも」


「誰かの妻でもない」


「あなた自身の顔だった」



沈黙が落ちた。


外から、

風の音だけが聞こえる。


やがて妹君は、

小さく息を吐いた。


「……ずるい方ですね」


「そんなことを言われてしまっては」


「断りづらくなります」


殿は、

苦笑した。


「断られたなら、

 諦めるつもりでおりました」


「政の筋は

 別の形で補えます」


「ただ」


「あなたの口から

 “生きてここにいてもよい”と

 言っていただけるなら」


「わしは、それを

 この先の支えにしたかった」


妹君は、

その言葉をしばらく味わうように黙し、


やがて、

静かに頭を下げた。


「……兄上に怒られそうですが」


「三人娘の母として」


「亡き婿たちの妻として」


「そして一人の女として」


「殿の妻になることを

 お受けいたします」



その返事を聞いた瞬間。


殿の胸の奥で、

長く伸びていた糸が

ようやくひとつ結び目を持った。


主君。

妹君。

妻。

そして自分。


それぞれの場所が

少しずつずれながら、


それでも、

ひとつの輪の中に

収まろうとしている。


(……殿)


心の中で、

かつての主君に呼びかける。


(勝手をいたします)


(扇で叩くなら、

 夢の中で頼みますぞ)


どこからともなく、

あの豪快な笑い声が

聞こえたような気がした。



その少し後。


城の片隅で、

末娘が庭を駆け回っていた。


母に似た顔。

まだ幼い。


彼女は、

自分が将来どんな縁に結ばれるのかなど

知るはずもない。


ただ、

庭の隅に咲いた小さな花を見つけて

無邪気に笑っていた。


殿は、

遠くからその姿を一瞥し、

すぐに視線を外した。


(今考えることではない)


(今はただ、

 この一つの婚姻から

 世の筋を整えていくほかない)


桃の匂いが、

廊下の向こうから微かに流れてきた。


さくらが、

新たな殿の動きを見届けようと

静かに歩いてくる。


戦国の世の、

次の一手が


また音もなく

並べられようとしていた。

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