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朝になった。
殿の机の上には、
昨夜と同じ文が置かれたままだった。
◆
そこへ、策士が入ってきた。
いつものように、
襟をきちんと整え、
軽く頭を下げる。
「お顔の色が優れませぬな、殿」
「酒は、召しておられませんでしたが」
殿は、
文に指を置いたまま笑った。
「酒を飲んだ方が、
かえって楽だったかもしれぬ」
「……政の話だ」
策士の目が、
一瞬だけ文に落ちる。
妹君について
書き付けられた報告書。
血筋。
婚姻。
今後の扱い。
「殿の御縁を
どう結ぶか、でございますな」
すぐに本質を言う。
◆
「わしにはすでに妻がおる」
殿は、
あえてそこから始めた。
「長年支えてくれた女だ」
「だが、
亡き主君の妹君を
このまま“預かり物”のままにしておくのも」
「いずれ禍根になろう」
策士は、
ふむ、と軽く顎に手を当てた。
「殿」
「政の上だけで申せば――」
いつもの癖で、
まず先に冷たい方の結論を出す。
「妹君を娶るのが
一番穏やかにございます」
「殿自らが庇護を与えれば」
「亡き主君の縁者を
誰も勝手に持ち出せませぬ」
「西も東も、
それを見て“殿こそ後継”と納得するでしょう」
殿は、
それが分かっているからこそ
顔をしかめるのだった。
「政の上だけで言えば、な」
◆
策士は、
殿の顔をじっと見た。
「情の上では
また別のお話」
「……でございましょうな」
殿は目をそらした。
「わしは男色ではない」
「だが、
殿への情は、
忠義だけとは言い切れぬ」
「殿によく似た女を、
そばに置いておきたいと願うのは――」
自分で言いながら、
口をつぐんだ。
策士は笑いもせず、
ただ頷いた。
「戦国の男が、
戦の外で何を願おうと」
「それを咎める筋は、
わしにはございませぬ」
「問題は、
誰を傷つけるか、だけ」
◆
「長年の奥方」
策士は、
さらりと言った。
「一人目の婿であった国の女たち」
「三人娘」
「末の娘は、
まだ幼うございましょう」
一つひとつ
指で数えられていく。
殿は、
黙って聞いていた。
(もう全部、考えた)
(だからこそ昨夜、
灯りを消せなかった)
策士は続ける。
「殿が何もなさらずとも」
「周りは“殿が娶るだろう”と見る」
「見て、噂を立てる」
「奥方も耳に入れる」
「娘たちも、いずれ知る」
「そのとき」
「“言わずにいた殿”と」
「“言ってなお選んだ殿”と」
「どちらが、
まだしもましと申せましょうか」
殿は、
少しだけ笑った。
「おぬしは、
人の傷口に塩を塗るのが
うまいな」
「職業でございますゆえ」
策士も笑った。
◆
その日の夕方。
殿は、
自分の屋敷の奥へ足を向けた。
長年の妻のいる方角。
いつもなら、
帰りが遅くなれば
先に寝所へ行く。
今日は違う。
囲炉裏のある部屋で、
女が湯気の立つ茶を用意していた。
「あら」
彼女は、
驚きもせず笑った。
「今日は早いのですね」
殿は、
火のそばに腰を下ろした。
しばらく、
何も言わない時間が流れる。
茶の香り。
炭のはぜる音。
(この女の前で
語らずにすませる話ではない)
そう思って来たはずなのに、
言葉が喉で止まった。
◆
先に口を開いたのは、
妻の方だった。
「妹君を、
どうなさるおつもりです」
殿は、
目を瞬いた。
「……噂は、早いな」
「噂など、
火の粉みたいなものです」
手元の茶碗に湯を注ぎながら、
妻は静かに言う。
「どこに飛ぶか分かりませんが」
「この家の中には、
だいたい先に落ちてきます」
殿は、
苦笑するしかなかった。
◆
「正直に申せ」
妻は、
殿の顔を見た。
若い頃と比べて、
少し皺が増えた。
それでも、
目の強さは変わっていない。
「殿は、
妹君をお好きなのでしょう」
「……殿に、似ておられるから」
核心だった。
殿は、
茶碗に伸ばしかけた手を
途中で止めた。
「好き、か」
言葉を反芻する。
「殿の影を追ってきたこの歳になっても」
「まだ、
そういう言葉で語らねばならんか」
妻は、
ふっと笑った。
「戦のことも、
領地のことも、
政のことも」
「立派なお話は
いくらでも聞いてきました」
「でも」
「女から見れば、
最後は“好きかどうか”です」
「それは、
殿もご存知でしょう」
◆
黙っていても
分かってしまう相手というものがある。
殿にとって、
この女はそういう相手だった。
「……好きだ」
やっと、その言葉を出した。
「殿に似ておる」
「気丈で、
よう耐える」
「殿の志を
別の形で背負っておるような気がする」
「誰のものにも
ならずともよいと、
頭では分かっておるが」
「そばに置いておきたい」
妻は、
真っ直ぐにその言葉を聞いた。
責める目でも、
泣く目でもない。
ただ、
少しだけ悲しそうに笑っていた。
「そうでしょうねえ」
「殿のお人柄なら、
そう仰ると思いました」
◆
「お前が、嫌だと言うなら」
殿は、
そこだけははっきりと言った。
「やめる」
「政の筋だけで申せば、
娶るのが一番だ」
「だが、
わしは“人を拾う”と言いながら」
「お前を捨ててまで
縁を重ねるつもりはない」
妻は、
少し考えるように目を伏せた。
火の粉が、
ぱち、と弾ける。
「……殿」
顔を上げたとき、
その瞳には
静かな決意が宿っていた。
「嫌です」
「正直に申します」
「嫌で嫌で、たまりません」
「殿に似た女を
屋敷に入れるなど」
「気が休まりません」
殿は、
苦笑とも溜息ともつかぬ息を吐いた。
「そうだろうな」
「ですが」
妻は続けた。
「それだけで
世の筋が立つとも、思いません」
◆
「殿は、
殿の世を背負っています」
「殿の背に
どれだけのものが乗っているか」
「貧しい頃から見てきました」
「妹君を娶ることで
守れるものがあるなら」
「わたし一人の“嫌だ”で
それを崩したくはありません」
殿は、
黙って聞いていた。
胸の内で、
何かがずきりと痛んだ。
妻は微笑んだ。
「ただ、一つだけ」
「条件を付けさせてください」
「……条件?」
「はい」
妻は、
茶碗に手を添えたまま、
殿を見据えた。
「妹君を“殿の影”としては
見ないと、約束してください」
「妹君は妹君」
「殿の妹であり、
殿の配下であり、
殿の妻になるかもしれない“一人の人”です」
「殿が、
殿に似ているからといって」
「死んだ主君の代わりに
影を重ねるのなら」
「そのときは…
あなたをひっぱたいてあげますわ」
◆
その言葉には、
怒りも泣き声もなかった。
ただ、
冗談の余地のない真剣さだけがあった。
殿は、
自分が昨夜まで
まさにその「影」を追っていたことを
痛いほど自覚していた。
(殿によく似た女を
そばに置きたい)
(殿の声に似た声で
笑いかけてほしい)
(殿がもう二度と座れない座に
あの女を座らせたい)
それらを、
ひとつひとつ
自分で握りつぶすような感覚。
「……約束しよう」
殿は、
ゆっくりと頷いた。
「妹君は、
妹君として扱う」
「殿の影ではなく」
「殿が拾った“人”の一人として」
「わしの妻として迎えるなら、
そうすると決めよう」
妻は、
ほっと僅かに息を吐いた。
「それなら」
「わたしは、
殿の決めたことに従います」
「嫌なものは嫌ですが」
「殿の背が折れる方が、
もっと嫌ですから」
◆
その夜、
殿は灯を落とすとき
ようやく昨夜とは違う静けさを感じた。
夢は、まだ夢のまま。
妹君の返事も、
世の目も、
何も決まってはいない。
ただ一つだけ。
(“殿の影”としてではなく)
(一人の人として迎える)
その線だけは、
心の中で少しだけ
まっすぐになっていた。




