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夜だった。
評定も軍議も終わり、
帳場の灯りだけが、まだ細く残っている。
猿――いや、今の殿は、
机の上の文をぼんやりと眺めていた。
◆
妹君を、嫁に取る。
その言葉が
頭のどこかで
淡く灯っている。
(…何という話だ)
自分で自分に呆れもする。
主君への忠誠に似た、強い情愛。
あの背中を追いかけて
ここまで来た。
男色の趣味などない。
ただ、あの人に恋い焦がれたことは何度もある。
敵陣を前に笑うとき。
寺を焼くと決めたとき。
己の死を覚悟しながらも
一歩も退かなかった姿。
(殿)
胸の奥で呼べば、
今でも答えが返ってきそうだ。
◆
妹君は、
顔立ちも、声も、
ふとした仕草もよく似ている。
気丈で、
よく笑い、
よく堪える。
(あれを嫁に取れれば)
それは、
主君ともう一度縁を結ぶような
おかしな夢に近かった。
忠誠と、情愛と、
未練と。
ごちゃまぜのまま
ひとつの形にしてしまいたいという欲。
◆
自分には、
すでに妻がいる。
長年、
貧しい頃から支えてくれた女だ。
誰よりも身分の低かった自分を
誰よりも先に「殿」と呼んでくれた。
尻を叩き、
時には怒鳴り、
それでも飯を炊いて
待っていてくれた女。
(あの女の前で、
妹君を迎える顔をできるのか)
戦国の世。
複数の妻を娶ることなど
珍しくはない。
珍しくはないが――
「当たり前」で済ませて良い話なのかどうか。
◆
障子の向こうで、
人の気配が動いた。
「まだお休みになりませんか」
長年の妻の声だった。
「……もう少しだけな」
そう答えながら、
猿は視線を上げない。
彼女は、それ以上踏み込まなかった。
戸を開けもせず、
ただ足音だけが遠ざかる。
(気づいておるな)
(あの女は、いつも一番先に気づく)
妹君が幕の中で泣いた夜。
妻もまた、
どこか別の場所で
静かに目を拭っていた気がした。
◆
ちらりと、
別の顔も浮かぶ。
一人目の婿とのあいだの三人娘。
その末っ子。
まだ幼い。
だが、母によく似ている。
頬の線も、
怒ったときの目も。
(母親は二度夫を失った)
一人目の婿は、
殿の命で。
二人目の婿は、
殿の後を継いだ自分の決断で。
どちらの戦も、
理はあった。
国のため。
天下のため。
殿の志のため。
(理はあっても)
(残った女と子の寂しさは
理では埋まらぬ)
◆
妹君を嫁に取る。
それは、
彼女を守る形でもある。
殿の妹。
北の城の元・主君の妻。
このままでは、
どこかで「扱いに困る人」になる。
政略の駒として差し出され続けた女を、
今度は自分の庇護の下に置ける。
そう考えれば、
筋も立つ。
(……都合の良い筋だ)
自分で自分に吐き捨てる。
守るため。
償うため。
殿への忠義のため。
そう言葉を重ねていけばいくほど、
「欲」が浮き彫りになる。
(殿によく似た女を
自分の屋敷に囲い込んでおきたい)
その一念を
どう取り繕っても、
根っこは変わらない。
◆
(…どうしたものかのぉ)
ようやく、
心の声がこぼれた。
机の上の灯が
小さく揺れる。
主君が、生きていたなら。
どんな顔で笑っただろう。
「好きにせい」と
豪放に言うか。
「馬鹿者」と
扇で小突くか。
どちらに転んでも、
笑い話になったかもしれない。
今はもう、
叱ってくれる主君はいない。
自分で決めるしかない。
◆
ただ一つ、
猿は心の中で線を引いた。
(どれほど欲しても)
(あの方が首を縦に振らぬなら)
(決して無理には奪わぬ)
政として、
情として、
あの女自身の口から出る言葉として。
三つが揃わぬ限り、
この夢は口に出すべきではない。
その代わり――
(もしも)
(あの方が「ここにいてもよい」と
小さくでも言ってくださるなら)
(そのときは、
この老いぼれの夢を
一つだけ叶えさせていただこう)
主君への忠誠とも、
女への求婚ともつかぬ
奇妙な祈りが
灯の揺れと共に
胸の奥に沈んでいった。




