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夜だった。


評定も軍議も終わり、

帳場の灯りだけが、まだ細く残っている。


猿――いや、今の殿は、

机の上の文をぼんやりと眺めていた。



妹君を、嫁に取る。


その言葉が

頭のどこかで

淡く灯っている。


(…何という話だ)


自分で自分に呆れもする。


主君への忠誠に似た、強い情愛。

あの背中を追いかけて

ここまで来た。


男色の趣味などない。

ただ、あの人に恋い焦がれたことは何度もある。


敵陣を前に笑うとき。

寺を焼くと決めたとき。

己の死を覚悟しながらも

一歩も退かなかった姿。


(殿)


胸の奥で呼べば、

今でも答えが返ってきそうだ。



妹君は、

顔立ちも、声も、

ふとした仕草もよく似ている。


気丈で、

よく笑い、

よく堪える。


(あれを嫁に取れれば)


それは、

主君ともう一度縁を結ぶような

おかしな夢に近かった。


忠誠と、情愛と、

未練と。


ごちゃまぜのまま

ひとつの形にしてしまいたいという欲。



自分には、

すでに妻がいる。


長年、

貧しい頃から支えてくれた女だ。


誰よりも身分の低かった自分を

誰よりも先に「殿」と呼んでくれた。


尻を叩き、

時には怒鳴り、

それでも飯を炊いて

待っていてくれた女。


(あの女の前で、

 妹君を迎える顔をできるのか)


戦国の世。

複数の妻を娶ることなど

珍しくはない。


珍しくはないが――

「当たり前」で済ませて良い話なのかどうか。



障子の向こうで、

人の気配が動いた。


「まだお休みになりませんか」


長年の妻の声だった。


「……もう少しだけな」


そう答えながら、

猿は視線を上げない。


彼女は、それ以上踏み込まなかった。

戸を開けもせず、

ただ足音だけが遠ざかる。


(気づいておるな)


(あの女は、いつも一番先に気づく)


妹君が幕の中で泣いた夜。

妻もまた、

どこか別の場所で

静かに目を拭っていた気がした。



ちらりと、

別の顔も浮かぶ。


一人目の婿とのあいだの三人娘。

その末っ子。


まだ幼い。

だが、母によく似ている。


頬の線も、

怒ったときの目も。


(母親は二度夫を失った)


一人目の婿は、

殿の命で。


二人目の婿は、

殿の後を継いだ自分の決断で。


どちらの戦も、

理はあった。


国のため。

天下のため。

殿の志のため。


(理はあっても)


(残った女と子の寂しさは

 理では埋まらぬ)



妹君を嫁に取る。


それは、

彼女を守る形でもある。


殿の妹。

北の城の元・主君の妻。


このままでは、

どこかで「扱いに困る人」になる。


政略の駒として差し出され続けた女を、

今度は自分の庇護の下に置ける。


そう考えれば、

筋も立つ。


(……都合の良い筋だ)


自分で自分に吐き捨てる。


守るため。

償うため。

殿への忠義のため。


そう言葉を重ねていけばいくほど、

「欲」が浮き彫りになる。


(殿によく似た女を

 自分の屋敷に囲い込んでおきたい)


その一念を

どう取り繕っても、

根っこは変わらない。



(…どうしたものかのぉ)


ようやく、

心の声がこぼれた。


机の上の灯が

小さく揺れる。


主君が、生きていたなら。

どんな顔で笑っただろう。


「好きにせい」と

豪放に言うか。


「馬鹿者」と

扇で小突くか。


どちらに転んでも、

笑い話になったかもしれない。


今はもう、

叱ってくれる主君はいない。


自分で決めるしかない。



ただ一つ、

猿は心の中で線を引いた。


(どれほど欲しても)


(あの方が首を縦に振らぬなら)


(決して無理には奪わぬ)


政として、

情として、

あの女自身の口から出る言葉として。


三つが揃わぬ限り、

この夢は口に出すべきではない。


その代わり――


(もしも)


(あの方が「ここにいてもよい」と

 小さくでも言ってくださるなら)


(そのときは、

 この老いぼれの夢を

 一つだけ叶えさせていただこう)


主君への忠誠とも、

女への求婚ともつかぬ

奇妙な祈りが


灯の揺れと共に

胸の奥に沈んでいった。

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