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広間の柱にもたれかかりながら、
重臣筆頭の男はひとつ息を吐いた。
「…武士として、絶対に生き恥は晒さん。」
鎧の紐をきゅ、と締め直す。
城の奥からは、女たちの退避の足音が遠ざかっていく。
南側の方角から、鬨の声と太鼓の音が重く波のように押し寄せていた。
「城を枕に討ち死に…こうなる未来は、何度か考えたな。」
北の名門の旗が降ろされた日。
婿を討たれた妹君を迎えに行った日。
そして、亡き主君の妹を妻に迎えた夜。
(どこかで、こうなると知っていたのかもしれぬ。)
猿が西で国を従えたと聞いたとき。
鬼娘が龍を馬ごと吹き飛ばしたと聞いたとき。
評定で、殿亡き後の道筋を淀みなく並べ立てる姿を見たとき。
(あれを止めるには、
わし一人の傷ついた矜持では足りなんだ。)
廊下の向こう、
城門のほうで怒号が一段階高くなる。
「…猿め!!」
男は、柱から身体を離した。
かつて同じ座敷で、
酒を酌み交わした相手の顔が浮かぶ。
腰の刀を抜き、
鞘を投げ捨てる。
「……あっぱれなり!!」
その言葉には、
悔しさも、
嫉妬も、
怒りも全部混じっていた。
しかし最後に残ったのは、
戦国の世を、自分とは別の筋で駆け抜けていく男への
純粋な「武将としての敬意」だけだった。
「正しき秩序」が描かれた旗が、
炎に照らされて揺れる。
男はその下に立ち、
門へ向かって歩き出した。
城を枕に。
己の旗と共に。
生き恥だけは、
確かに晒さぬために。
城は、
燃え始めていた。
◆
南側。
門前には、すでに梯子が掛けられ、
盾の代わりに板を持った兵たちが押し寄せていた。
重臣筆頭の男は、
その先頭に立つ。
炎に照らされて、
「正しき秩序」の旗が赤く揺れる。
「開けっ!」
門内側の楔が抜かれ、
ぎぃ、と重い音を立てて扉が開いた。
敵を入れるためではない。
自分から打って出るため。
「前へ!」
叫ぶと同時に、
男は真っ先に外へ躍り出た。
矢が飛ぶ。
鉄砲の音が響く。
一太刀、二太刀。
誰を斬ったのかも、もう分からない。
(生き恥は晒さん)
(ここまでだ)
胸の中で、
静かにそれだけ決める。
最後に浮かんだのは、
白小袖を抱えた鬼娘と――
その腕に預けられた妻の横顔だった。
(攫われる、か)
(それもまた、よし)
刃を振り抜いたあと、
彼は二度と振り返らなかった。
◆
同じ頃、裏手の崖。
さくらは、
岩肌に指を噛ませながら
一歩ずつ降りていた。
妹君を抱えた腕に、
じわじわと痺れが溜まっていく。
上から微かに届く
太鼓と怒号。
(間に合わなかったかもしれません)
(でも――)
「大丈夫ですか」
耳元で問えば、
腕の中の妹君が小さく頷いた。
「ええ」
「鬼に攫われておりますから」
冗談めいた口調。
その細い指が、
さくらの肩をしっかり掴んでいる。
◆
崖下に、
闇に紛れた影が三つ現れた。
猿の軍の斥候だ。
「合図を」
さくらは短く言う。
ひとりが小さな笛を鳴らす。
鳥の声に似た、高い音。
すぐに、
少し離れた藪の向こうから
同じ音が返ってきた。
味方の線の中に入った合図。
(ここまで来れば)
(もう、鬼ではなく
ただの女として抱えていてもよいはずですが)
さくらは、
それでも抱き上げたまま足を進めた。
妹君が地に足をつけた瞬間、
「城へ戻る」と言い出す未来が
頭をよぎったからだ。
「もう少しだけ、このままで」
そう言うと、
妹君はあきれたように笑った。
「……本当に、乱暴な方」
◆
軍の本陣。
夜営の中に小さな灯が並ぶ。
殿の幕の前で、
さくらはようやく妹君を下ろした。
跪いて報告する。
「殿」
「亡き主君の妹君、
お連れしました」
殿は、
ゆっくりと立ち上がった。
目の前の妹君に、
深く頭を下げる。
「……遅くなりました」
「迎えに上がるまで
どれほどの時がかかったことか」
妹君は、
首を横に振った。
「兄上の配下であられた方に
こうして頭を下げられるのは
落ち着きませんね」
「ですが、
今はその礼をありがたく受け取ります」
そのやり取りを見ながら、
さくらの胸の奥に
ようやく張り詰めていたものが緩んだ。
(間に合った)
(生きて、ここに立っておられる)
◆
しばらくして、
北の城が落ちたとの報が入る。
重臣筆頭の男は、
門前で討ち死にしたと。
殿は報告を受けたあと、
しばし無言だった。
そして、
ひとことだけ添える。
「武士としては、
筋を通したのだろう」
「わしの秩序に牙を向いた者としては許せぬが」
「亡き主君の古参としては、
恥ずかしくない終わり方を選んだ」
さくらは、
その言葉に救われるような
苦くなるような気持ちを覚えた。
(両方取ると言いましたが)
(結局、
妹君だけを連れ出し)
(夫殿の首は、
この手ではねなかった)
(約束を果たせてはいない)
それでも――
殿のその一言が、
その矛盾をほんの少しだけ
柔らかくしてくれた。
◆
夜。
妹君のために用意された小さな幕の外で、
さくらは番をしていた。
幕の内側から、
かすかな嗚咽が漏れてくる。
城を枕に死ぬはずだった女が、
生きる側に引き戻された夜。
夫のためにも、
兄のためにも、
誰のためにもならぬような涙。
(これは、
私の勝手のせいです)
(生きさせると決めたのは、
殿と、私)
(あの方ご自身の筋は、
私がへし折った)
そう思いながらも、
幕を開けることはしなかった。
中の涙は、
中だけのものだ。
◆
やがて、
嗚咽は静かになった。
代わりに、
低い声がひとつ聞こえた。
「……さくら殿」
幕越しの呼びかけ。
さくらは立ち上がり、
そっと布を押し上げる。
中の妹君は、
目を赤くしながらも
きちんと座っていた。
「ひとつだけ、
お礼を」
さくらは首を振る。
「お礼を言われることではありません」
「私はただ、
殿の命を果たしただけです」
妹君は笑った。
「兄上も、
きっとひどいことを頼みますね」
「人を拾っておいて」
「筋の通らぬ生き方を
平然と望む」
その言葉に、
さくらは返す言葉を失う。
(本当に、その通りです)
◆
「……それでも」
妹君は、
涙の跡を拭いながら続けた。
「鬼に攫われたと言えば、
夫に対しても
自分に対しても
少しは言い訳が立ちます」
「だから、
あの崖で抱えられたときに決めました」
「これは、
わたくしの意志ではなく」
「鬼娘の乱暴な所業だったのだと」
さくらは、
深く頭を垂れた。
「乱暴で、申し訳ありません」
「ただ――」
顔を上げる。
「その乱暴がなければ、
殿はきっと
あなたを許されなかったと思います」
「死に場所を選ぶことを」
妹君はしばらく黙っていたが、
やがて小さく頷いた。
「……そうですね」
「兄上も、きっと」
「“死ぬな”とおっしゃったでしょう」
◆
幕を出ると、
夜風がひやりと頬を撫でた。
遠くで、
北の城の炎がまだ赤く揺れている。
さくらは、
空を見上げた。
(殿)
(妹君は、生きています)
(旗を掲げた男は、
城と共に倒れました)
(あなたの世は、
まだ揺れ続けています)
桃の匂いが、
風の中で薄くほどけていく。
それでも――
その匂いの芯には、
一本だけ変わらぬ線があった。
鬼娘として振るう刃が、
この先も
誰かの「生きる筋」を
乱暴にねじ曲げていくのだろうという、
どうしようもない予感と共に。




