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さくらは、そのまま妹君を抱えたまま
闇の廊下を駆けた。
◆
城の内側は、
まだ静けさを保っていた。
外では太鼓が鳴り、
縄張りに兵が走っているのだろう。
だが奥まった女部屋までは、
まだ騒ぎは届かない。
(今のうちです)
(門が軋み始める前に)
(火が入る前に)
さくらは、
庭に面した障子を蹴破ることはせず、
そっと開き、
低く身を滑り出させた。
妹君を抱えた腕の中で、
白小袖がふわりと揺れる。
「重うございませんか」
「岩より軽いです」
即答だった。
◆
裏庭へ出る。
石灯籠。
苔むした飛び石。
井戸。
かつて名門の城だった頃から
ほとんど変わっていない。
(崖は、この先)
さくらは迷わない。
ただ一手誤れば
妹君を落とすことになる。
足の裏の感触と、
夜目と、
鼻だけを頼りに進む。
桃の匂いが
いつもより強く立ち上るのを自覚しながら、
(今だけは、
この匂いに気づかれた方がいい)
(こちらの居場所が、
夫殿にも伝わる)
妙な逆算をしていた。
◆
案の定、
庭の端に差しかかる頃には
城の内側の空気が変わり始めていた。
走る足音。
怒鳴り声。
「女部屋の奥だ!」
「桃の匂いがする!」
さくらは、
思わず苦笑する。
(便利でもありますね)
(隠しきれないというのは)
◆
崖に続く小門の前まで来たとき、
さくらは一度だけ足を止めた。
そこに、
ひとりの男が立っていた。
甲冑をつけ、
刀を抜いた重臣筆頭の男。
妹君の夫。
「……やはり、ここか」
彼は、
さくらを見て言った。
桃の匂い。
背中の大太刀。
腕に抱えられた白小袖。
すべてが、
ひとつの輪に収まった。
◆
「来ると思っていました」
妹君が、
さくらの腕の中で呟く。
男は妻を見た。
死支度をした白小袖ではない。
かすかに乱れた襟。
鬼娘の腕に預けられた身体。
目に映ったのは、
「死ぬ覚悟をした女」ではなく、
「生きる側に引き出されつつある女」だった。
「……行くのか」
短い問い。
妹君は、
ほんの少しだけ笑った。
「攫われるのです」
「わたくしの意思ではございません」
「鬼娘に掴まれてしまいましたので」
男の喉が、
わずかに震えた。
◆
「どいてください」
さくらの声は低かった。
「殿の命です」
「妹君を連れて戻ります」
男は、
刀を構えたまま微動だにしない。
「ここを通せば」
「この城は落ちる」
事実だった。
鬼娘が妹君を抱えて崖を降りるなら、
裏手の門は開きっぱなしになる。
そこから炎も矢も
入りたい放題だろう。
「夫として、
妻を楯にするつもりはなかった」
男は、
絞り出すように言った。
「だが、
ここで通せば」
「わしの掲げた旗は、
この瞬間に折れる」
◆
さくらは、
一歩も退かなかった。
「旗は、もう折れています」
淡々とした声。
「殿は軍を出しました」
「降伏の矢文を退けた時点で、
この城の“秩序への挑戦”は
終わっています」
「残っているのは」
妹君を、
少しだけ抱き直す。
「誰が死ぬかと」
「誰が生きるかだけです」
◆
男の目が、
さくらを真っ直ぐに捉えた。
かつて同じ軍議の席に座った時と同じ目だ。
「わしを、
ここで殺すか」
「妹君を連れて行くか」
「両方は取れまい」
「鬼娘よ」
「どちらを選ぶ」
問いというより、
試すような響き。
さくらは、
即答した。
「両方取ります」
男が、
わずかに目を細めた。
「……欲張りな」
◆
さくらは、
妹君を片腕に預け直すと
もう片方の手で
大太刀の柄をゆっくり押し上げた。
抜くには抜いた。
だが、構えは低い。
「殿は、
あなたの首ひとつで済むと仰いました」
「私は」
息を整える。
「殿の命を
そのままは守れません」
「妹君を連れ出し」
「あなたの首を、
“今ここでは”挙げません」
男の眉が動く。
「今ここでは?」
「城が落ちたあと」
さくらは、
はっきりと言った。
「あなたがなお、
秩序への挑戦を名乗るなら」
「そのときは、
殿の前でこの首を差し出していただきます」
「戦場ではなく、
評定の場で」
◆
沈黙が落ちた。
外では、
太鼓の音が一段階高くなる。
南側で
梯子がかかり始めた合図。
(時間がない)
(でも)
(ここを力ずくで斬り抜ければ)
(妹君の目に、
夫の死にざまが焼きついてしまう)
さくらは、
それだけは避けたかった。
鬼娘としてではなく、
一人の女として。
◆
男は、
やがて刀を下ろした。
金属がわずかに鳴る。
「……評定の場で、か」
「殿の前で
首を差し出せと?」
さくらは頷く。
「そのとき、
殿が許すかどうかは分かりません」
「鬼娘の刃が
そこでもう一度必要なのか」
「殿の言葉ひとつで
決まります」
「ですが少なくとも」
妹君を抱え直しながら続ける。
「ここであなたを斬るよりは
筋が通る」
◆
妹君が、
夫を見つめていた。
その視線は、
責めず、
縋らず、
ただ静かに問いかけていた。
(どうなさいますか)
(あなたは、
どの筋を選びますか)
男は、
妻のその目から目を逸らさなかった。
しばらくののち、
苦笑いのようなものを浮かべる。
「鬼娘に、
道を選べと言われるとはな」
「殿の世も、
ずいぶん変わったものだ」
刀を鞘に納めた。
「行け」
短く、
それだけ。
◆
さくらは、
深く頭を下げた。
「必ず」
「生きたままお連れします」
妹君が、
夫に向かって口を開く。
「……生きて」
それだけだった。
夫は、
何も答えなかった。
ただ背を向け、
広間の方へ走り去る。
「正しき秩序」の旗の下へ。
◆
小門が開く。
冷たい山風が
一気に吹き込んできた。
崖の縁。
闇の底。
さくらは、
妹君を抱き直し、
「目を閉じていてください」
とだけ告げて
足を踏み出した。
鬼娘の影が、
白小袖を抱えたまま
闇の崖を滑り降りていく。
上では、
太鼓と怒号が重なり始めていた。
下では、
まだ誰も知らない場所で
一人の女が、
「死ぬはずだった夜」から
引き戻されていた。




