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さくらは、そのまま妹君を抱えたまま

闇の廊下を駆けた。



城の内側は、

まだ静けさを保っていた。


外では太鼓が鳴り、

縄張りに兵が走っているのだろう。


だが奥まった女部屋までは、

まだ騒ぎは届かない。


(今のうちです)


(門が軋み始める前に)


(火が入る前に)


さくらは、

庭に面した障子を蹴破ることはせず、


そっと開き、

低く身を滑り出させた。


妹君を抱えた腕の中で、

白小袖がふわりと揺れる。


「重うございませんか」


「岩より軽いです」


即答だった。



裏庭へ出る。


石灯籠。

苔むした飛び石。

井戸。


かつて名門の城だった頃から

ほとんど変わっていない。


(崖は、この先)


さくらは迷わない。


ただ一手誤れば

妹君を落とすことになる。


足の裏の感触と、

夜目と、

鼻だけを頼りに進む。


桃の匂いが

いつもより強く立ち上るのを自覚しながら、


(今だけは、

 この匂いに気づかれた方がいい)


(こちらの居場所が、

 夫殿にも伝わる)


妙な逆算をしていた。



案の定、

庭の端に差しかかる頃には

城の内側の空気が変わり始めていた。


走る足音。

怒鳴り声。


「女部屋の奥だ!」


「桃の匂いがする!」


さくらは、

思わず苦笑する。


(便利でもありますね)


(隠しきれないというのは)



崖に続く小門の前まで来たとき、

さくらは一度だけ足を止めた。


そこに、

ひとりの男が立っていた。


甲冑をつけ、

刀を抜いた重臣筆頭の男。


妹君の夫。


「……やはり、ここか」


彼は、

さくらを見て言った。


桃の匂い。

背中の大太刀。

腕に抱えられた白小袖。


すべてが、

ひとつの輪に収まった。



「来ると思っていました」


妹君が、

さくらの腕の中で呟く。


男は妻を見た。


死支度をした白小袖ではない。

かすかに乱れた襟。

鬼娘の腕に預けられた身体。


目に映ったのは、

「死ぬ覚悟をした女」ではなく、


「生きる側に引き出されつつある女」だった。


「……行くのか」


短い問い。


妹君は、

ほんの少しだけ笑った。


「攫われるのです」


「わたくしの意思ではございません」


「鬼娘に掴まれてしまいましたので」


男の喉が、

わずかに震えた。



「どいてください」


さくらの声は低かった。


「殿の命です」


「妹君を連れて戻ります」


男は、

刀を構えたまま微動だにしない。


「ここを通せば」


「この城は落ちる」


事実だった。


鬼娘が妹君を抱えて崖を降りるなら、

裏手の門は開きっぱなしになる。


そこから炎も矢も

入りたい放題だろう。


「夫として、

 妻を楯にするつもりはなかった」


男は、

絞り出すように言った。


「だが、

 ここで通せば」


「わしの掲げた旗は、

 この瞬間に折れる」



さくらは、

一歩も退かなかった。


「旗は、もう折れています」


淡々とした声。


「殿は軍を出しました」


「降伏の矢文を退けた時点で、

 この城の“秩序への挑戦”は

 終わっています」


「残っているのは」


妹君を、

少しだけ抱き直す。


「誰が死ぬかと」


「誰が生きるかだけです」



男の目が、

さくらを真っ直ぐに捉えた。


かつて同じ軍議の席に座った時と同じ目だ。


「わしを、

 ここで殺すか」


「妹君を連れて行くか」


「両方は取れまい」


「鬼娘よ」


「どちらを選ぶ」


問いというより、

試すような響き。


さくらは、

即答した。


「両方取ります」


男が、

わずかに目を細めた。


「……欲張りな」



さくらは、

妹君を片腕に預け直すと


もう片方の手で

大太刀の柄をゆっくり押し上げた。


抜くには抜いた。

だが、構えは低い。


「殿は、

 あなたの首ひとつで済むと仰いました」


「私は」


息を整える。


「殿の命を

 そのままは守れません」


「妹君を連れ出し」


「あなたの首を、

 “今ここでは”挙げません」


男の眉が動く。


「今ここでは?」


「城が落ちたあと」


さくらは、

はっきりと言った。


「あなたがなお、

 秩序への挑戦を名乗るなら」


「そのときは、

 殿の前でこの首を差し出していただきます」


「戦場ではなく、

 評定の場で」



沈黙が落ちた。


外では、

太鼓の音が一段階高くなる。


南側で

梯子がかかり始めた合図。


(時間がない)


(でも)


(ここを力ずくで斬り抜ければ)


(妹君の目に、

 夫の死にざまが焼きついてしまう)


さくらは、

それだけは避けたかった。


鬼娘としてではなく、

一人の女として。



男は、

やがて刀を下ろした。


金属がわずかに鳴る。


「……評定の場で、か」


「殿の前で

 首を差し出せと?」


さくらは頷く。


「そのとき、

 殿が許すかどうかは分かりません」


「鬼娘の刃が

 そこでもう一度必要なのか」


「殿の言葉ひとつで

 決まります」


「ですが少なくとも」


妹君を抱え直しながら続ける。


「ここであなたを斬るよりは

 筋が通る」



妹君が、

夫を見つめていた。


その視線は、

責めず、

縋らず、


ただ静かに問いかけていた。


(どうなさいますか)


(あなたは、

 どの筋を選びますか)


男は、

妻のその目から目を逸らさなかった。


しばらくののち、

苦笑いのようなものを浮かべる。


「鬼娘に、

 道を選べと言われるとはな」


「殿の世も、

 ずいぶん変わったものだ」


刀を鞘に納めた。


「行け」


短く、

それだけ。



さくらは、

深く頭を下げた。


「必ず」


「生きたままお連れします」


妹君が、

夫に向かって口を開く。


「……生きて」


それだけだった。


夫は、

何も答えなかった。


ただ背を向け、

広間の方へ走り去る。


「正しき秩序」の旗の下へ。



小門が開く。


冷たい山風が

一気に吹き込んできた。


崖の縁。

闇の底。


さくらは、

妹君を抱き直し、


「目を閉じていてください」


とだけ告げて

足を踏み出した。


鬼娘の影が、

白小袖を抱えたまま

闇の崖を滑り降りていく。


上では、

太鼓と怒号が重なり始めていた。


下では、

まだ誰も知らない場所で


一人の女が、

「死ぬはずだった夜」から

引き戻されていた。

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