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城の内側は、

思ったより静かだった。



石垣を越えたさくらは、

身を低くして闇に溶けた。


裏手の庭。

夜露を含んだ苔。

風にわずかに揺れる木々。


足音ひとつ立てず、

屋敷の縁へと近づく。


(見取り図は頭に入っています)


(昔、北の名門を討ったあと

 何度か通された)


(あの方の部屋は――)


妹君の部屋の位置は、

変わっていないはずだ。


殿の妹という身は、

かつても今も

城の中で特別な場所に置かれる。



縁側の障子は、

半分だけ開いていた。


灯りは落とされている。

中は影ばかり。


さくらは、

桃の匂いをできるだけ抑えながら

そっと近づいた。


「……入ります」


声は、ごく小さく。


返事はない。


だが、

刀を抜く気配もしない。


さくらは、

静かに足を踏み入れた。



部屋の中央に、

妹君が座していた。


白小袖。

きちんと整えられた黒髪。

膝の上に揃えられた手。


顔だけこちらを向いている。


闇の中でも、

瞳はよく見えた。


驚きも恐れも浮かべていない。

ただ、

一つの覚悟を決めた人間の目。


「……さくら殿」


声は、

少しだけ懐かしげだった。


「お久しゅうございます」


さくらは、

一瞬言葉を失った。


(本当に、

 死ぬ支度をしておられる)


(この静けさは)


(戦場に出る前の兵の静けさではない)


(もう、自分の終い方を選んだ人の静けさ)



「妹君」


さくらは膝をつき、

距離を詰めた。


「迎えに参りました」


単刀直入に言う。


「城を出ていただきます」


妹君の口元に、

ごく薄い笑みが浮かんだ。


「まあ」


「鬼娘が、

 人ひとりを攫いに来てくださるとは」


「身に余る光栄でございます」


口調は冗談めいているのに、

目は冗談を言っていない。



「わたくしは、

 ここで死ぬつもりなのですよ」


妹君は、

はっきりと言った。


「兄上の妹として」


「この城の主の妻として」


「攻め手があなた方であろうと、

 他の誰であろうと」


「武士の娘としての終い方は

 変わりません」


さくらは、

首を振った。


「変えていただきます」


「殿の命です」


「“何としても救え”と」


妹君の瞳が、

ほんの少しだけ揺れた。



「兄上はもうおりません」


妹君は、

視線を床に落とす。


「兄上の名のもとに死ぬことは、

 できなくなりました」


「今、

 わたくしが共に死ぬと誓ったのは――」


言葉を切り、

息を整える。


「今の夫です」


「ここで旗を上げた

 あの人の妻として」


「この城で終わるのが筋だと

 私は思っています」


さくらは、

黙って聞いていた。


(分かります)


(そういう方だということは、

 よく分かっています)


(でも――)



「その筋を、

 殿はお許しになりませんでした」


さくらは、

静かに告げた。


「“夫の首ひとつで済む”と

 仰いました」


「北の秩序は壊さねばならぬが、

 妹君の命まで

 その秩序に巻き込む気はないと」


妹君は、

ゆっくりとさくらを見た。


「新しい殿は、

 優しいのですね」


皮肉ではなく、

ただ事実を言うように。


さくらは、

短く首を振る。


「優しい方ではありません」


「寺を燃やし、

 西を削り、

 現の秩序を壊す方です」


「だからこそ――」


言葉を選び、

ひとつずつ置く。


「“ここであなたが死ぬことを

 許さない”と言われたのです」


「死で筋を通す生き方を、

 殿は好まれません」


「生きて、

 筋をねじ曲げ、

 なお通すことを望まれます」



妹君は、

少しだけ目を細めた。


「……さくら殿も」


「昔より口がよく回るようになりましたね」


さくらは、

苦笑した。


「猿殿の側におりますと、

 どうしても」


それでも、

譲る気は毛頭なかった。


「申し訳ありませんが」


「ここで“死にます”と言われても」


「鬼として、

 引き下がるわけには参りません」


「あなたを生かして連れ出すまで」


「何度でも、

 ここに来ます」



外で、

かすかな太鼓の音がした。


始まったわけではない。

ただ、

軍が動き始めた合図。


時間は、

あまり残されていない。


妹君は、

その音を聞きながら

ふっと目を伏せた。


「……わたくしの死は、

 誰のためにもならぬと?」


小さな声だった。


さくらは、

迷わず答えた。


「殿のためには、なりません」


「殿はあなたに

 “生きていてほしい”と仰いました」


「兄君も、

 きっとそうでしょう」


「夫のためだと言われるなら――」


少しだけ言葉を詰まらせ、

それでも続ける。


「その夫が掲げた旗は」


「殿の秩序に

 牙を向けたものです」


「その背で死ぬことは、

 兄君と殿、どちらのためにもなりません」



妹君は、

長く息を吐いた。


「……ひどいことを仰る」


「兄上の妹としての筋も」


「夫の妻としての筋も」


「どちらも立たぬと?」


「どちらを選んでも、

 誰かの筋を折ることになると?」


さくらは、

頷いた。


「はい」


「だからこそ」


「あなたが自分のために生きてくださることを

 殿は望まれたのだと思います」


「兄君のためでもなく」


「夫のためでもなく」


「あなた自身のために」



沈黙が落ちた。


障子の隙間から、

冷えた風が忍び込む。


さくらの桃の匂いと、

白小袖に焚きしめられた香の匂いが

淡く混じる。


やがて妹君は、

ゆっくりと立ち上がった。


足元には、

いつでも首を差し出せるように

きれいに置かれた小さな座布団。


それを、

そっと足で横にずらす。


「……さくら殿」


振り向いた目に、

少しだけ苦笑が浮かんでいた。


「あなたにここまで言われてなお

 “ここで死にます”と申し上げれば」


「それこそ武士の娘として

 見苦しいでしょうか」


さくらは、

かすかに肩を落とした。


「見苦しいとは申しません」


「ただ、

 非常に困ります」


妹君の喉から、

小さな笑いが漏れた。



「分かりました」


妹君は言った。


「では――

 今日は、あなたの勝ちということに」


「城を出ましょう」


「夫を見捨てることになるのは、

 一生忘れません」


「兄上と殿に、

 顔向けできぬ思いも消えないでしょう」


「それでも、

 あなたが“生きよ”と言うなら」


「一度だけ、

 自分のために生きてみます」


さくらは、

深く頭を下げた。


「有難うございます」


「必ず、

 ここからお連れします」



そのとき、

外で大きな太鼓が鳴った。


いよいよ、

戦が動き出す合図。


「時間がないわね」


妹君が呟く。


さくらは、

妹君に近づき、

その身体をひょいと抱き上げた。


「きゃ……」


小さな声が漏れる。


「歩いていては

 間に合いません」


「鬼に攫われたと思ってくだされば

 よろしいかと」


「それなら、

 夫にも兄君にも

 言い訳が立つでしょう」


妹君は、

さくらの肩に掴まりながら

小さく笑った。


「乱暴な理屈ですね」


「鬼娘らしい」



次の瞬間。


縁側の闇の中に、

さくらの影が消えた。


抱き上げられた妹君の白小袖が

ひらりと翻り、

障子の隙間から

冷たい夜風が一気に流れ込む。


外では、

北の城を揺らす太鼓の響き。


内では、

ひとりの女が

「死ぬための座布団」から

無理やり遠ざけられていた。


それが後に、

北の戦の「もう一本の筋」として

語られることになるとは、


今はまだ

誰も知らない。

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