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城の内側は、
思ったより静かだった。
◆
石垣を越えたさくらは、
身を低くして闇に溶けた。
裏手の庭。
夜露を含んだ苔。
風にわずかに揺れる木々。
足音ひとつ立てず、
屋敷の縁へと近づく。
(見取り図は頭に入っています)
(昔、北の名門を討ったあと
何度か通された)
(あの方の部屋は――)
妹君の部屋の位置は、
変わっていないはずだ。
殿の妹という身は、
かつても今も
城の中で特別な場所に置かれる。
◆
縁側の障子は、
半分だけ開いていた。
灯りは落とされている。
中は影ばかり。
さくらは、
桃の匂いをできるだけ抑えながら
そっと近づいた。
「……入ります」
声は、ごく小さく。
返事はない。
だが、
刀を抜く気配もしない。
さくらは、
静かに足を踏み入れた。
◆
部屋の中央に、
妹君が座していた。
白小袖。
きちんと整えられた黒髪。
膝の上に揃えられた手。
顔だけこちらを向いている。
闇の中でも、
瞳はよく見えた。
驚きも恐れも浮かべていない。
ただ、
一つの覚悟を決めた人間の目。
「……さくら殿」
声は、
少しだけ懐かしげだった。
「お久しゅうございます」
さくらは、
一瞬言葉を失った。
(本当に、
死ぬ支度をしておられる)
(この静けさは)
(戦場に出る前の兵の静けさではない)
(もう、自分の終い方を選んだ人の静けさ)
◆
「妹君」
さくらは膝をつき、
距離を詰めた。
「迎えに参りました」
単刀直入に言う。
「城を出ていただきます」
妹君の口元に、
ごく薄い笑みが浮かんだ。
「まあ」
「鬼娘が、
人ひとりを攫いに来てくださるとは」
「身に余る光栄でございます」
口調は冗談めいているのに、
目は冗談を言っていない。
◆
「わたくしは、
ここで死ぬつもりなのですよ」
妹君は、
はっきりと言った。
「兄上の妹として」
「この城の主の妻として」
「攻め手があなた方であろうと、
他の誰であろうと」
「武士の娘としての終い方は
変わりません」
さくらは、
首を振った。
「変えていただきます」
「殿の命です」
「“何としても救え”と」
妹君の瞳が、
ほんの少しだけ揺れた。
◆
「兄上はもうおりません」
妹君は、
視線を床に落とす。
「兄上の名のもとに死ぬことは、
できなくなりました」
「今、
わたくしが共に死ぬと誓ったのは――」
言葉を切り、
息を整える。
「今の夫です」
「ここで旗を上げた
あの人の妻として」
「この城で終わるのが筋だと
私は思っています」
さくらは、
黙って聞いていた。
(分かります)
(そういう方だということは、
よく分かっています)
(でも――)
◆
「その筋を、
殿はお許しになりませんでした」
さくらは、
静かに告げた。
「“夫の首ひとつで済む”と
仰いました」
「北の秩序は壊さねばならぬが、
妹君の命まで
その秩序に巻き込む気はないと」
妹君は、
ゆっくりとさくらを見た。
「新しい殿は、
優しいのですね」
皮肉ではなく、
ただ事実を言うように。
さくらは、
短く首を振る。
「優しい方ではありません」
「寺を燃やし、
西を削り、
現の秩序を壊す方です」
「だからこそ――」
言葉を選び、
ひとつずつ置く。
「“ここであなたが死ぬことを
許さない”と言われたのです」
「死で筋を通す生き方を、
殿は好まれません」
「生きて、
筋をねじ曲げ、
なお通すことを望まれます」
◆
妹君は、
少しだけ目を細めた。
「……さくら殿も」
「昔より口がよく回るようになりましたね」
さくらは、
苦笑した。
「猿殿の側におりますと、
どうしても」
それでも、
譲る気は毛頭なかった。
「申し訳ありませんが」
「ここで“死にます”と言われても」
「鬼として、
引き下がるわけには参りません」
「あなたを生かして連れ出すまで」
「何度でも、
ここに来ます」
◆
外で、
かすかな太鼓の音がした。
始まったわけではない。
ただ、
軍が動き始めた合図。
時間は、
あまり残されていない。
妹君は、
その音を聞きながら
ふっと目を伏せた。
「……わたくしの死は、
誰のためにもならぬと?」
小さな声だった。
さくらは、
迷わず答えた。
「殿のためには、なりません」
「殿はあなたに
“生きていてほしい”と仰いました」
「兄君も、
きっとそうでしょう」
「夫のためだと言われるなら――」
少しだけ言葉を詰まらせ、
それでも続ける。
「その夫が掲げた旗は」
「殿の秩序に
牙を向けたものです」
「その背で死ぬことは、
兄君と殿、どちらのためにもなりません」
◆
妹君は、
長く息を吐いた。
「……ひどいことを仰る」
「兄上の妹としての筋も」
「夫の妻としての筋も」
「どちらも立たぬと?」
「どちらを選んでも、
誰かの筋を折ることになると?」
さくらは、
頷いた。
「はい」
「だからこそ」
「あなたが自分のために生きてくださることを
殿は望まれたのだと思います」
「兄君のためでもなく」
「夫のためでもなく」
「あなた自身のために」
◆
沈黙が落ちた。
障子の隙間から、
冷えた風が忍び込む。
さくらの桃の匂いと、
白小袖に焚きしめられた香の匂いが
淡く混じる。
やがて妹君は、
ゆっくりと立ち上がった。
足元には、
いつでも首を差し出せるように
きれいに置かれた小さな座布団。
それを、
そっと足で横にずらす。
「……さくら殿」
振り向いた目に、
少しだけ苦笑が浮かんでいた。
「あなたにここまで言われてなお
“ここで死にます”と申し上げれば」
「それこそ武士の娘として
見苦しいでしょうか」
さくらは、
かすかに肩を落とした。
「見苦しいとは申しません」
「ただ、
非常に困ります」
妹君の喉から、
小さな笑いが漏れた。
◆
「分かりました」
妹君は言った。
「では――
今日は、あなたの勝ちということに」
「城を出ましょう」
「夫を見捨てることになるのは、
一生忘れません」
「兄上と殿に、
顔向けできぬ思いも消えないでしょう」
「それでも、
あなたが“生きよ”と言うなら」
「一度だけ、
自分のために生きてみます」
さくらは、
深く頭を下げた。
「有難うございます」
「必ず、
ここからお連れします」
◆
そのとき、
外で大きな太鼓が鳴った。
いよいよ、
戦が動き出す合図。
「時間がないわね」
妹君が呟く。
さくらは、
妹君に近づき、
その身体をひょいと抱き上げた。
「きゃ……」
小さな声が漏れる。
「歩いていては
間に合いません」
「鬼に攫われたと思ってくだされば
よろしいかと」
「それなら、
夫にも兄君にも
言い訳が立つでしょう」
妹君は、
さくらの肩に掴まりながら
小さく笑った。
「乱暴な理屈ですね」
「鬼娘らしい」
◆
次の瞬間。
縁側の闇の中に、
さくらの影が消えた。
抱き上げられた妹君の白小袖が
ひらりと翻り、
障子の隙間から
冷たい夜風が一気に流れ込む。
外では、
北の城を揺らす太鼓の響き。
内では、
ひとりの女が
「死ぬための座布団」から
無理やり遠ざけられていた。
それが後に、
北の戦の「もう一本の筋」として
語られることになるとは、
今はまだ
誰も知らない。




