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1.桃の匂いの女

この国の戦も地図も、最初に狂い始めたのは、山裾の小さな道場で一人の女が息を止めた瞬間だった。


――その道場は、山裾の竹林の中にあった。

湿った土の匂い、汗と鉄の香り。

男たちの息遣いが、稽古のたび柱を震わせていた。


その一角に、

胸を締め潰すほどさらしを巻いたさくらが立っていた。


声は低く、動きは鋭い。

名も名乗らず、「ひと月だけ試したい」とだけ告げた。


最初は誰も疑わなかった。

あるいは、疑っても目を逸らしたかったのかもしれない。

強すぎたからだ。

形が整いすぎたからだ。


だが、ある日。


締め切った稽古場の中で、

空気が微かに変わった。


竹刀を交えていた壮年の剣士が、

ふと眉間を寄せて動きを止めた。


――桃の皮ごと潰したような、淡い香り。


古傷を湿らせる雨に気づくように、

道場の者は次々とその異変を敏感に察した。


「……お前」


誰かが言いかけて、飲み込んだ。


その場にいた全員がうすうす悟り、

しかし誰も言葉にできなかった。

刀を握るその力が、真実を揺らがせていたから。


だが、さくらは自分でそれを悟った。


――いくら締め付けても、

消えないものがある。


帰り道、竹林を裂く風が胸を撫でた。

さらしは汗で張り付き、息が浅かった。


(……無駄だ)


その瞬間、

きつく巻いていた布を解いた。


胸が解放され、空気が一気に入る。

息を吸い込むだけで咳が出るほど、身体は限界だった。


その日から、

彼女は隠すことをやめた。


女である証が匂いとして世界に滲むなら、

それは呪いであり、旗印であると飲み込んだ。


さらしを捨てたその夜、

彼女は一度だけ、月明かりの下で呟いた。


「……この身で、切り開く」


決意とか覚悟というより、

疲れ切った者の淡い諦念に近い響きだった。


だが、

その諦念は、やがて力に変わってゆく。



――若武者は、その日を待っていた。


噂は、風より速く広がる。

“女でありながら怪物の腕力を持つ者がいる”と。


笑い話だろう、と最初は思った。

だが、道場の者たちは妙な沈黙でその名を語った。


…試したくなった。


自分は、この地方で名を上げた腕だ。

槍も刀も、人より重い石を持ち上げてきた手だ。

女に遅れを取る訳がない。

そう――戦国の男の、単純な虚勢。


その日、稽古場の真ん中にさくらが立った。


背が高い。

細い。

どう見ても、筋骨隆々ではない。


(噂ほどではない)


深く息を吸い、若武者は竹刀を構えた。


一撃で膝をつかせよう、

そう考えながら踏み込んだ瞬間――


視界が、跳ねた。


身体が宙に浮く。

胸の奥で空気が裏返り、

どこか遠いところで衝撃音が鳴った。


(……え?)


我に返ったとき、背中が床板に沈んでいた。


さくらは、ほとんど動いていない。

ただ腕を伸ばしただけだった。

痩せた肩と細い腕から、どんな力が出るのか理解できなかった。


若武者は立とうとした。

膝が笑った。


(……嘘だ)


屠られた、というより

“存在を否定された”ような感覚。


周囲の同輩たちの視線が刺さる。

その中には同情も侮蔑もなく、

ただ動揺した沈黙だけがあった。


さくらは言葉をかけない。

見下しもしない。

ただ立っている。


その姿の向こうに、

桃の香りが薄く揺れた気がした。


若武者はそこで悟った。


あの噂は、

笑い話ではなく、誰も語りたがらない真実だったのだ。


そして胸の奥に、

抉るような屈辱と、

奇妙な畏怖が芽生えた。


---


酒場の夜は、湿った笑いと油煙で満ちている。

若武者はその隅で、杯を傾けながら声を荒らげた。


「聞いたか! あれは……あれは化け物だ!」


椀を叩く。

注ぎ手の女が眉をひそめる。


「女の身で、男を吹き飛ばすなど……ありえん。

いや――俺が吹き飛ばされたんだ!」


周囲が笑う。

酒が回り、彼自身も笑ってしまう。


その語りは、やがて尾ひれをつけはじめた。


「竹刀なんて握ってなかった!

素手だ、素手で俺を地面に落とした!」


「俺の槍が折れたんだぞ! いや刀だったか……

いや全部折られたんだ!」


事実は徐々に霞み、

しかし彼の怯えだけは本物だった。


杯を干し、椀を握りしめ。

その瞳だけが笑っていない。


(関わりたくない……二度と)


それは嘘でない。

だが、人間とは奇妙なもので――

語ることで、自分の中から切り離そうとする。


「あれが……“さくら”だ。

近づいたら終わりだぞ」


その言葉は、酒場の誰かの耳に残る。

噂は種を得て、

翌日には別の町へ飛んでいく。


彼は逃げた。

だが、逃げれば逃げるほど――

彼自身の語りがさくらを広めていく。


皮肉だ。


その夜、

酒を追い出すように空を仰いだ彼の胸の奥には、

まだ消えない震えと、

自分でも正体のわからない熱が残っていた。

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