4.婚約
マリウスは思い立ったその日から、エリーセの両親への説得を始めた。
エリーセと結婚させてほしい、と。
最初は渋っていた両親だったが、数日に渡るマリウスの粘り強い交渉で英雄がそこまで娘のことを気に入ってくれているなら、と承諾した。
やはり、英雄という肩書きは強い。
マリウスがエリーセの記憶を取り戻した人物であるというのも大きかったのだろう。
あとはエリーセ本人の気持ち次第ということになった。
両親の説得後、マリウスとエリーセが会う機会が設けられた。
十歳までの記憶から十八歳の記憶まで戻ったエリーセだったが、完全にとまではいかなかった。
エリーセの両親が彼女の記憶を慎重に確認したところ、事故のことは全く覚えておらず、それに加えて事故までの半年の記憶も消えたままだった。
ちょうど、終戦間もない頃の記憶までしかないようだった。
しかし、それは今までのエリーセと比べれば些細な問題だ。
実際の年齢に戻ったエリーセは朝目覚めた時に自分の状況を説明され把握している。
ここ数日は前日までの自分が次の日の自分のためにメモを残しているという。
エリーセは本来、聡く強い人間のようだ。
短時間で大変な自分の状況を受け入れることができているのだから。
そんな彼女が受け止めきれず記憶を無くして子供に戻ってしまうほど、兄の死は大きな悲しみだったのだろう。
だから、今のエリーセに対しても兄のヘルハルトの死は伏せている。
賢明な判断だろう。
とにかく、今のエリーセは少女となっていた彼女に比べてできることが格段に増えていた。
「はじめまして、エリーセ・リーフェットと申します。本日はお越しいただきありがとうございます」
客間に通され待っていたマリウスの元に訪れたエリーセは淑女らしい洗練された所作で挨拶した。
あの丘で出会った少女と目の前にいるエリーセは顔かたちは同じはずなのに、全くの別人のようにも思えた。
服装や髪型が違うということもあるが、それだけではない。
大人な落ち着いた雰囲気が感じられた。
「はじめまして、マリウス・ホルデイクと言います。俺と会う機会を作ってくれてありがとうございます。ご両親から話は聞かれていると思いますが、貴方に結婚を申し込みにきました。貴方のことをエリーセと呼んでもいいですか?」
丁寧な挨拶をしたエリーセに対して、マリウスも立ち上がり紳士としての挨拶を返した。
最後に親しみやすいような言葉を添えて。
こういった会話は得意だ。
子供に対しての会話は勝手を掴むまでに時間がかかったが、大人に対しての会話は今までに培ってきたものがある。
落ち着いてはいたが不安も浮かんでいたようなエリーセの表情が少し和らいだようだった。
それから、マリウスはエリーセと簡単な自己紹介から始めた。
会話の中で感じたエリーセの印象は本音と建前を使い分け、相手に配慮できるような大人な人だった。
間違ってもあの丘で初めて会った時のように、意地悪なことを言いそうにはない。
それでも、心に染み込むような笑顔と話している時の心地良さは変わらなかった。
エリーセは両親から結婚の話を聞かされている。
そして実際にどうするか決めるのはエリーセ自身でいいと、そういう話になっているとのことだ。
マリウスもエリーセの同意は必須だと考えている。
だから、後はマリウスとエリーセの間の問題だ。
自己紹介を終えたマリウスは再び結婚の話を切り出した。
「それで、結婚についての話をもう少ししても良いかな。君は俺に会うのは初めてだと思うけど、実は何度か会ったことがあるんだ。そこで君の良さを知って、ぜひ結婚したいと思ったんだよ」
堅くなりすぎないように気やすさも交えながら、結婚したいと思った経緯を説明する。
両親にマリウスのこともある程度聞いているはずだから、エリーセにとっても悪い話ではないと分かるだろう。
なんせ自分のことを好意的に思っている相手が英雄なのだから。
マリウスは内心ではエリーセは喜び、良い返事が貰えることを期待していた。
だが、にこやかに答える彼女の口から出てきた言葉はマリウスの望んでいたものではなかった。
「せっかくの大変有り難いお話ですが、お断りさせていただきたいと考えています。今の私はこんな状況ですし、ご迷惑をおかけするわけにはいきませんし」
「迷惑だなんて。そんなことは決してないし、君は気にしなくても大丈夫だ」
「いえ、そういう訳にはいきません」
マリウスが大丈夫だ、気にしなくていいと何度言っても、結婚なんて申し訳ないと一辺倒なエリーセに取り付く島もなかった。
これ以上、何を言ったところでエリーセの答えが変わることはないと思ったマリウスは、ざんねんです……と告げると部屋を後にした。
部屋の外ではエリーセの両親が様子を伺っており、マリウスに気の毒そうな顔を向けた。
「あの子は少し頑固なところがありまして……」
マリウスを少しでも慰めようと思い、そう声をかけたエリーセの父親だったが、マリウスの表情を見て言葉を止めた。
あれだけはっきりとフラれたというのに、マリウスには少しも落ち込んだ様子は見られなかった。
「また明日来ます」
「え……明日?」
戸惑うエリーセの父親に、マリウスはそう言い残すと屋敷を後にした。
今日のエリーセには断られてしまったが、明日のエリーセにはどうか分からない。
またやり直せばいい。
そんな前向きな気持ちでいっぱいだったマリウスは、結婚を断られたということに気を落とすこともなかった。
次の日、マリウスは再び屋敷へ訪れた。
手には贈り物を持って。
考えてみれば、マリウスは女性に対して結婚を申し込む時の作法や正攻法を知らなかった。
基本的なことを本などで調べ、小道具も用意した。
マリウスは昨日と同じように自己紹介をした後、結婚の話を切り出す。
「いきなりのことで戸惑うと思うけれど、俺と結婚してくれませんか?」
その言葉と同時に、マリウスは用意していた箱の中身をエリーセに見せた。
その中には大きな宝石のついた指輪が入れられていた。
プロポーズのための指輪だ。
こうするのが常識だとマリウスの読んだ本には書いてあった。
「……受け取れません」
しかし、その指輪を見たエリーセの反応はあまり良くないどころか昨日よりも悪かった。
そして、その日もフラれた。
さらに次の日。
マリウスは前日に情報収集として、酒場を飲み歩いた。
実際に成功経験のある者に相談するのが確実だろうと思ったからだ。
そこで有益な情報を得られた。
初めて会った人間から結婚を申し込まれてもすぐに承諾などできない。
婚約ならまだチャンスがあるかもしれないということだった。
早速マリウスは結婚ではなく、婚約の申し込みとしてエリーセに話を切り出した。
今までの中では一番良い反応だった。
しかし、その日も成果は得られなかった。
マリウスはそれからも何度も何度もエリーセに会いに行き、婚約を申し入れた。
情報収集も同時進行で続けていた。
ある時、しっかりと相手に好きだと伝えることが大切という意見を耳にした。
何日も成果の出ない日々が続いたある日、マリウスはそれを実行してみようと思い立った。
「俺は君のことが好きです。だから、婚約してくれませんか?」
「……」
エリーセはマリウスの言葉を聞き、笑顔のまま少しの間沈黙した。
彼女は何も言葉を発していない。
表情だって悪い者ではない。
だが、マリウスは今回も駄目だとすぐに悟った。
「……ありがとうございます。ですが、婚約をお受けすることはできません」
何度も聞いたエリーセの断りの言葉。
しかし、今日の返事はいつものものとはどこか違っているような気がした。
言葉は同じなのにいつもよりも否定の意味が強いような、何となくそんな感じがした。
この方法はエリーセに対しては間違いのようだ。
今度は言わないようにしてやり直そう。
マリウスはエリーセの態度に少しの違和感はあったが、そう思うだけで深く気にすることはなかった。
そんな一進一退を繰り返し、エリーセの屋敷に通い始めて半月が経とうとしていた。
エリーセの両親も何度断られても諦めないマリウスの熱意に、次第に協力的になってきていた。
エリーセにそれとなくマリウスとの婚約を勧めるような言葉を掛けているようだった。
それもあってか、その日のエリーセの様子はこれまでとは少し違っていた。
前日までの彼女自身のメモなどで、今までマリウスがエリーセの元に通い続けていることを知っていたのかもしれない。
エリーセは初めて、彼女の方からマリウスに問いを投げかけた。
「私は今日のことも明日には忘れてしまうのですよ。どうして、そんな私と一緒にいたいなんて思うのですか?」
マリウスは思ってもいなかったこれまでと違うエリーセの問いに、すぐに正しい答えが浮かばなかった。
そのため、つい本音が口から溢れてしまっていた。
「忘れられたいから」
「え?」
エリーセは真意の分からない答えに驚きを声にした。
その声を聞いたマリウスはハッとして自分の失言に気づいた。
そこから何とか取り繕おうとマリウスが絞り出した言い訳は真実と建前を合わせたようなものになっていた。
「たまたま英雄と言われるようになった俺のことを皆が覚えている。俺を“英雄の男”としか見ていない。本当はそんな器じゃないのに。英雄と知らない君は俺をただの一人の男として見てくれる。接してくれた。だから、君といたいんだ」
エリーセは英雄としてのマリウスを知らない。
彼を色眼鏡で見ないのは本当のことだ。
それが心地よいと思っていることも。
だが、一番の理由は言わなかった。
彼女の記憶が残らないことこそが、理想的だということは。
「それって……」
マリウスの虚実を含んだ言葉を聞いたエリーセの反応は今までにないものだった。
驚きと納得、同情が混ざったような一言では言い表せないような表情。
そんな彼女に対して、マリウスに今までにない不安が態度に現れていたのかもしれない。
エリーセは安心させるようにふっと優しくマリウスに笑いかけると、仕方ないというように頷いた。
「分かりました。では、一年だけ。まずは私と一年の婚約をお願いします。あなたが私と暮らしてみてどうか、それで判断していただいても遅くはないでしょう。一年後、もう一度よく考えて下さい。あなたがやっぱり私と一緒になるのは難しいとそう思ったなら、その時点で婚約を解消して下さい。その条件であれば婚約をお受け致します」
きっとエリーセはマリウスが彼女に恋愛感情としての好意を抱いていないとわかったのだろう。
それでも諦めずエリーセを求める可哀想なマリウスに同情して慈悲を与え、諦めさせるために婚約を受け入れた。
そう感じた。
だが、たとえそうだったとしても一歩前進だ。
マリウスは彼女が忘れることについては何の憂もない。
むしろ、長所の一つとすら思っている。
だから、エリーセが心配したり、気に病むことなど何もない。
一年後も婚約を解消する日は訪れないだろう。
マリウスはそんなことを考えつつも彼女の提案を受け入れた。
そしてここから、マリウスとエリーセの一年の婚約期間が始まった。