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3.少女の事情

 

 少女は名をエリーセというようだ。

 彼女の兄、ヘルハルトは遠方で働いていて三日後に帰ってくる。


 そう話す少女は本当に嬉しそうで、とても演技や嘘をついているようには見えなかった。

 だが、マリウスの知るヘルハルトとエリーセの兄のヘルハルトが同じ人物であるならばそれはあり得ない。

 彼はすでに亡くなっているのだから。


 一体どういうことなのだろうか。

 彼女と彼女の家には何かあるのではないか。

 マリウスの中にそんな疑問が湧いた。

 しかし、マリウスはすぐに深く考えるのをやめた。

 どんな事情があってもいい。

 彼女と話すことは楽しい。その事実さえあればいい。

 単純に彼女との会話ができるだけでいいと、そう思っていたから。


 それからも、マリウスは少女の元を訪れた。

 “はじめまして”を重ねていく。

 万一、失敗した行動や失言をしたとしても、次の日になればまた新しく始め直すことが出来る。

 以前に反応が良かった行動や言葉を選択すれば間違いはない。

 少女と話す時にはそんな風に気負いすることなく、他人との会話ではいつも感じている失敗できないというプレッシャーなく、ただ単純に会話を楽しむことができていた。

 花が咲いたように笑う少女の空気も相まって、とても心地よい空間だった。


 少女とのはじめましてを繰り返していたある日、いつも通り花咲く丘にやってきたマリウスだったが、そこに少女の姿はなかった。

 代わりに、いつも少女の様子を少し離れたところから見ていた人物がそこにはいた。

 マリウスは以前からその人物の存在には気づいていたが、直接顔を合わせるのは初めてだった。


「英雄様。お嬢様といつもお話いただいてありがとうございます。私はリーフェット家使用人のノーラと申します。お嬢様についてお話させていただきたいことがありますので、お屋敷までお越しいただけませんか?」


 初めて話しかけられ、突然にそんな招待を受けたことにマリウスは内心ではひどく驚きながらも、培ってきたいつも通りの態度で対応した。

 そして、少女の屋敷へと行く事にした。


 道中、聞けばノーラはマリウスのことを毎日エリーセに会いに来る人物と認識していたが、英雄ということも分かっていたので様子を見守っていたらしい。

 普通に考えれば、少女に毎日会いに行く成人男性など注意人物以外の何者でもないが、マリウスは英雄ということで見逃され、逆に感謝さえされていたようだ。

 マリウスはこの時ほど、自分が英雄という肩書きを持っていて良かったと思うことはなかった。


 連れられてきた少女の住む屋敷はあの丘からほど近く、中流貴族の規模の屋敷だった。

 そして、そこで待っていたのは泣きそうな嬉しそうな表情をした夫婦だった。


「お呼び立てしてしまって申し訳ありません。ですが、どうしてもあなたにお礼を伝えたく、お話したいことがあり、こちらに来ていただきました。まずは、娘を気にかけてくださってありがとうございました」


 そう言って夫婦はマリウスに対して深々と頭を下げた。

 その夫婦はあの少女の両親だと自己紹介し、少女のことについて話し出した。


 あの少女、エリーセは半年前に馬車の転落事故に遭ったのだという。

 その時、エリーセの兄でマリウスの友人のヘルハルトも同じ馬車に乗っており、結果的に彼女を庇って亡くなった。

 エリーセも一命を取り留めたものの頭を強く打っており、目覚めるまでに1週間かかった。

 そして、目覚めた後も事故の後遺症により事故までの記憶がなくなり、その後は回復してからも一日しか記憶がもたなくなってしまった。


 しかし、周囲の人間はエリーセの状態にすぐに気づくことができなかった。

 事故で記憶が曖昧になっているのだろうと思ってしまっていた。

 そんなエリーセに、彼女の兄のことを聞かれるたびに亡くなったことを色々な人が教えた。

 毎日、毎日。何度も、何度も。

 同じことを聞かれる違和感に気づいた時には遅く、その軽率な行為をひどく後悔した。

 何故なら、朝目覚めた彼女は兄が亡くなったことを知らないエリーセで、その死を聞かされることもまた初めてだったから。

 普通の人間であれば、一人の死を知った初めての深い悲しみを受けるのは一度だけだ。

 だが、エリーセは一度受けるだけでも耐えきれないような悲しみを何度も何度も受けることになった。


 そして十日目の朝、エリーセはついにその悲しみに耐えきれなくなった。

 その朝目覚めた彼女はさらに記憶を失っていた。

 今年、十八歳になった彼女は自分のことを十歳の少女だと言い、それ以降の記憶を無くしてしまっていた。

 両親や周囲の人間はそのことに酷く心を痛めた。

 エリーセの心が壊れてしまったのだろうか。

 心がこれ以上傷つかないように、彼女自身が記憶を封じ込めてしまったのだろうか。

 その時は分からなかった。


 どちらにしても、これ以上エリーセを傷つけるわけにはいかない。

 エリーセの家族はヘルハルトが亡くなったことを時間をかけて少しずつゆっくりとその悲しみを受け入れて消化していった。

 時間がその悲しみを薄めていってくれた。

 しかし、一日しか記憶がもたないエリーセには時間薬というものは存在しない。

 だから、エリーセには兄が死んだということは知らせずに、三日後に帰ってくるという嘘を毎日、つき続けているのだという。


「そんな事情があったとは、思いもしませんでした。どれだけお辛かったことか……」

「ええ……」


 エリーセの両親は思い出すのは辛いというように時折、言葉を詰まらせながらそこまで話した。

 いきなり聞かされたそんな事情に、マリウスは内心酷く驚き、無難な言葉を返すことで精一杯だった。


 確かに、エリーセと度々会う中で、彼女の記憶が一日すると無くなっているということには薄々気づいていた。

 しかし、彼女の年齢が肉体と精神で乖離していたことを、説明されて初めて納得した。

 彼女が見た目よりも幼い言動で、純粋な反応をするのは擦れた大人ではないからだ。

 だが、彼女と話していて心地良いと感じたのは子供と話しているからという理由だけではないように感じていた。

 ともあれ、マリウスはエリーセが思っていた以上に大変な状況であったようだ。


「俺と話すことが彼女にとって少しでも助けになっていたなら、良かったです」


 マリウスは、この夫婦が自分をこの屋敷に読んで礼を伝えたのは、きっと大変な事情の娘の話し相手になったことを感謝してのことだろうと思った。

 しかし、夫婦はそのマリウスの言葉にかぶりを振った。


「いいえ、少しどころではありません。あなたがどれだけエリーセを助け、救っていただいたことか。あの子は、あなたのおかげで自分を取り戻したのです」


 そう声にしたエリーセの父は、マリウスに強く熱のこもった視線を向けながら話を続けた。

 エリーセの両親がマリウスにここまで感謝する理由。

 それは今日、エリーセの八年分の記憶が戻り、十八歳のエリーセとなって目が覚めたからだった。


 この半年間、晴れた日はほとんど毎日あの丘に行っていたエリーセ。

 穏やかだが変わらない日常の中で記憶が再び失われることもなければ、戻ることもなかった。

 だがそこに、マリウスが現れた。

 エリーセはマリウスと出会い関わることが良い刺激となり、心が回復していった。

 エリーセにとってマリウスは毎日、初対面の人物でしかない。

 しかし、マリウスのエリーセとの接し方は日々良いものに改善されていったために、日に日にエリーセの中でのマリウスの存在は大きなものになっていた。

 丘から帰ってきたエリーセがその日、兄のことを話すよりもマリウスのことを話す方が多くなっていった。

 そして、突然に以前の彼女へと戻ったのだ。

 マリウスの存在があったからだと考えるのは当然だろう。


「ですから、あなたのおかげなのです。本当にありがとうございました」


「いえ、そんな……」


 夫婦は目に涙を浮かべながら、マリウスに何度も礼を言った。

 マリウスはそんな彼女の両親に、驚きと謙遜を交えながらそんなことはないと恐縮して返答した。

 自分のおかげなどではなく、家族や周囲の方の支えがあったからだろうと。

 人格者の英雄ならそう言うように。


 だが、そう口にした言葉には紛れもない本心を含んでいた。

 決して自分のおかげなどではなく、感謝されるのなど烏滸がましいという思いだ。

 マリウスがエリーセと会話し、関わっていたことは記憶を失う彼女のことを考えてという気持ちは全くなかったから。

 ただ、自分のためだけに会いにいっていた。

 彼女と会話することが、マリウスにとって心休まるものだったから。

 エリーセのことなど考えたこともなかった。


 しかし、話を聞いたマリウスは初めてエリーセ自身について、彼女との会話について思考を巡らせた。

 エリーセと話す時は、何度でも理想の会話をやり直せる。

 エリーセは記憶が一日しかもたない。

 つまり、マリウスの言ったことを次の日には覚えていない。

 マリウスがどんな失言をしたとしても忘れてしまう。

 それはマリウスが何も気にすることなく本音で話せると言うことと同義だ。


 なんて……なんて、魅力的で理想的な人物なのだろうか。

 マリウスは話を聞いて、エリーセのことをそう思わずにはいられなかった。

 そんなことを考えるなんて、あまりにも不謹慎だし、人として非情すぎる。

 マリウスもそんな自分を自覚し、罪悪感も自分自身に嫌悪感すらも抱いている。


 それでも、それ以上に彼女が欲しいと思うことをやめられなかった。



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