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10.忘れられたい

 

 部屋に入ってきたエリーセを前にマリウスは固まっていた。

 扉に鍵はかけていなかった。

 それでもまさかエリーセが自ら扉を開けて入ってくるとは微塵も思っていなかった。

 しかし、勝手に入ってきた彼女をマリウスは追い返すことはできない。

 眠って忘れる。

 今日のことは全部なかったことにできる。

 それはマリウスが言ったこと、そのままだった。

 だから、反論などできるはずもなかった。


 マリウスは彼女が自ら扉を開いてまでここにきた理由を考える。

 怒っているのだろうか。当然だ。

 あんな事を言われたのだから、彼女には怒る権利がある。

 そう思って、マリウスからエリーセに切り出した。


「怒っているんだろう。好きなだけ殴っても罵倒してくれてもいい。そうしてくれ」


「いいえ、怒っていませんよ。そんなことしません。あなたが心配でここに来たんです」


「……どうして」


 エリーセの顔を見ることなんてできなくて、俯いて発したマリウスの言葉を彼女は否定した。

 優しい声で心配だと言う彼女にマリウスは顔を上げた。

 微笑みを向けてくれているエリーセを前に、絞り出すようにそう言うことしかできなかった。


「明日になれば今日あったことを私は忘れてしまいます。でも、あなたは覚えている。記憶に、心に残り続ける。だから、ちゃんと今日のうちに仲直りしておきたいと思ったんです」


「仲直りだなんて……俺が一方的に君に酷い事をした。それだけだ。俺は君に心配なんてしてもらって良いような人間じゃない。最低な人間なんだ。今日だって、その前だってずっと……」


「そうなんですか?でも私は知らないので、あなたがそんな人だとは思いません。知った上でどう思うか考えようと思います。だから、全部教えてくれませんか?」


 そう言うと、エリーセはマリウスの手を引いてベッドの端に座らせた。

 その隣にエリーセも腰掛ける。

 マリウスはされるがまま従った。

 エリーセにはそうさせるような力があった。

 そして、話すことを促すようにまっすぐにマリウスを見つめる。

 彼女の瞳を前に、マリウスは今までのことをポツリポツリと話し始めた。


 初めてエリーセと出会った日のこと。

 あの花咲く丘でエリーセに出会い、失言と失態を犯したこと。

 再びあの丘を訪れた時、マリウスとの記憶がないエリーセと出会い、一度目の失敗をうまくやり直せたこと。

 それがとても嬉しかったこと。

 そこから、何度もエリーセに会いに行って、ついには婚約を申し込んだこと。

 彼女と話している時、万一失言しても次の日には忘れてくれるという安心感があること。


 ……自分の言葉を人に覚えられていることが、恐怖だということ。

 ずっと、忘れられたいと思っていた。


 マリウスは今まで誰にも明かしたことのない心の内をエリーセに話した。

 とても勇気のいることだった。

 それでも、エリーセには伝えなければと、そう思った。

 決して聞き取りやすいとは言えない辿々しいマリウスの話を、エリーセは優しく頷きながらじっと隣で聞いてくれていた。


「それは……今までとても辛かったですね。人と話していても心が休まることがないなんて。だから、私と話したいと思ってくれたんですね」


「そうだよ……いや、そうだった。最初はそんな考えしかなかった。でも、今は違う。今は君に忘れてほしくないと厚かましくも思ってしまったんだ。君のことがどうしようもないほどに、好きになってしまったから」


 こんな最低で自分勝手な人間にエリーセを縛り付けているなんて駄目だと、彼女の両親に婚約を解消したいと手紙を書こうとした。

 でも、手が震えて一文字も書くことができなかった。

 エリーセと離れるのが嫌だと、体が拒絶していた。


「君のことが好きで、好きで好きで……今まで本当にごめん」


 そう言葉にすると、マリウスはもう気持ちを抑えることができなかった。

 嗚咽が漏れ、瞳からは涙が溢れ出す。

 ごめん……ごめん……と声にならない言葉を繰り返しながら、彼女に縋り付くように泣き続けた。


 マリウスはエリーセとの日々を言葉にしていく中で、自分がどれほど彼女に最低なことをしていたのか自覚した。

 そして、自分がどれほど彼女のことを好きになっていたかを自覚した。


「……いいですよ。許してあげます」


 泣き続けて嗚咽が弱まってきた時、エリーセはマリウスの頭を撫でながらそっと溢した。

 マリウスはその呟きを聞き逃さなかった。

 そして、今になって頭にずっと感じていた心地よさが、彼女が頭を撫でてくれていたことによるものだと気づいた。

 その暖かさから少し離れがたくもあったが、マリウスは姿勢を正し、エリーセに向き直った。


「許すって……俺は君にずっと最低なことをしてきたんだ。俺に許されるような価値なんてない。それに、俺は元々最低で弱い人間だから、きっとこれからも同じことを繰り返すに違いない。だから、君が俺を許す必要は……」


「いいえ、許します。だって、あんなに謝ってくれたんですから。今までのことも、これからのことも一生分全部。だから、そんなに自分を責め続けないで。自分自身を許してあげて。自分のことを最低だなんて思わないで」


 エリーセは自分を卑下するマリウスの言葉を遮るように再び許すと言うと、諭すようにマリウスを見つめた。

 その瞳は、悲しそうに揺れていた。

 本当に許してもらっても良いのだろうか。

 不安げにエリーセを見つめ返すマリウスに気づいたのか、彼女ははにかんだ笑みを浮かべて言葉を続けた。


「それに、あなたがどんなに私のことを好きでいてくれているか、分かりましたから。そんなあなたを私ももう、好きになってしまったから」


 エリーセの血色の良い頬が、さらに少しだけ赤みを増した。

 そして再び、マリウスの手を取った。

 まるで、ずっと一緒にいたいと言うように。


「ありがとう……」


 そんなエリーセを前にたった一言、そう伝えることしかできなかった。

 また、涙が溢れ出したから。

 けれど、先ほどとは違うあたたかい涙だ。

 幸せが溢れ出して、瞳から流れ出した。


 それから二人は取り止めのない話をした。

 好きなもの嫌いなもの、行ったことのある場所、行ってみたい場所

 エリーセのことを今までは深く知ろうとはしていなかったから、マリウスにとっては初めて聞くことばかりだ。


「マリウス様の好きなものは何ですか?」


「俺の好きなものは……」


 自分ばかりが聞かれていたエリーセは何気なく聞いたのだろう。

 だが、マリウスは言葉に詰まった。

 “好き”というものが分かったのはついこの間のことだ。

 そして、はっきり自分が好きだと言えるのはエリーセだけだから。


「実は、今まで好きなものがなかったんだ。“好き”というものもよく分からなかった。俺は何が好きなんだろうか。君以外にはまだ好きなものはないと思う」


 マリウスは何となく答えた言葉だったが、それを聞いたエリーセは驚いたように目を開き、そしてさらに頬を赤らめて嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます。でも、私以外にも好きなものを見つけて行けたら楽しいと思いますよ。好きは生まれるものですから、きっといつの間にか好きになっているものができていますよ。まずは、私の好きなものを一緒に好きになってみませんか?そうなってくれたら、もっと嬉しいです」


「うん。そうだといいな」


 どこか既視感のある提案に、マリウスはふっとさらに表情を緩めた。

 そして、あの時よりもその提案が心に響いた。

 そうなれる気がした。


 そんな会話をし、夜がふけていった。

 マリウスの隣に座るエリーセはニコニコと話を聞いていたが、眠そうに目を擦った。

 彼女がいつも寝ている時間はとっくに過ぎている。


「遅くなってしまったね。そろそろ寝ようか」


 名残惜しい気持ちでいっぱいだったが、彼女に無理はさせたくない。

 マリウスはそう切り出して、エリーセを部屋まで送ろうと思った。

 しかし、腰掛けていたベッドから立ちあがろうとしていたマリウスの服を、エリーセがぎゅっと掴んだ。


「忘れたくないな……」


 俯いたエリーセの口からポツリと、そんな言葉が溢れた。

 その言葉は、彼女の内心を現しているようでマリウスはハッとした。

 エリーセは明るく振る舞っていてマリウスに対してもはっきりと言えるくらい強い人だが、マリウスよりも年下で、ましてや一日しか記憶がもたないという大変な事情まで抱えている。

 不安になるのは当たり前だ。

 そんなことに今まで気がつけなかった自分を殴りたくなったが、今は後悔よりも先にすることがある。

 マリウスは目一杯泣いたことで、心も頭もすっきりとしていて普段の落ち着きを取り戻していた。

 エリーセを安心させたい、喜ばせたい。

 その想いで、彼女にかける言葉を探した。


 そして、マリウスはエリーセの手をそっと取り、彼女の正面に屈み込んだ。


「顔を上げてくれないか?」


 エリーセの顔を覗き込み、優しく問いかける。

 ゆっくりと頭を上げたエリーセと目が合ってから、マリウスは笑いかけた。


「忘れたっていい。むしろ、忘れられたい。そうしたら、何度だって君に初めての好きが生まれるだろう。そんなこと、他にはない贅沢な幸せだ。毎日ずっと、君に好きになってもらえるように努力するよ」


「そんなこと……」


 エリーセはマリウスが気を遣ってそう言っていると思ったのだろう。

 だが、そのまっすぐなマリウスの目を見て、エリーセは言葉を止めた。

 マリウスが本心からそう言っているのだと、気づいたようだった。


「忘れられたい。本当にそう思っている。そして、君に毎日好きになってもらえる男でありたいとも、そう思っている」


 そう伝えると、目の前のエリーセの顔からは不安も悲しさも消えていた。

 そして、嬉しそうな笑みを浮かべていた。


「忘れられたいなんて言ってくれえる人は、世界中探してもあなたしかいないと思います。そんな人に好きになってもらえて、私は幸せ者ですね。そんなあなたを毎日好きになったら、もっともっと幸せになれそうです。きっと、明日も明後日も、その先もずっとあなたを好きにならせて下さいね」


「うん、約束するよ」


「それは楽しみです。お願いしますね……」


 エリーセは限界を迎えていたのか、安心して気が緩んだのか、目を閉じるとそのまま穏やかな寝息を立て始めた。


 次にエリーセが目を覚ました時には、今のやり取りを忘れているだろう。

 でも、それでいい。

 何度だって、彼女に好きになって貰えば良いのだから。


 彼女といっぱい色々なことをしよう。

 毎日、毎日違うことをしよう。

 彼女が忘れてしまうとしても、たくさんの思い出を作っていこう。

 そして、彼女に好きになってもらえるような男になろう。

 そんな男であり続けよう。

 彼女が何度自分を好きになってくれたことを忘れたって良い。

 自分の中に好きだという気持ちが溢れてしまうくらいに、こんなにもあるから。


 マリウスは自分のことが嫌いだった。

 けれど、エリーセに忘れられてもいい、忘れられたいと本気で思える自分のことだけはほんの少しだけ好きになれた気がした。



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