9.眠ると忘れるから
植物園に行った次の日、マリウスは浮かれた気分で食堂でエリーセエオ待っていた。
食堂の扉が開きエリーセが入ってくると彼女が席に着くのが待ちきれず、近づいて声をかけた。
「おはよう、エリーセ!よく眠れたかい?」
「……おはようございます」
エリーセはいつもよりどこか緊張したような、警戒したような態度でやっと挨拶を返した。
マリウスの親しい間柄の距離に一歩引いたように思えた。
どうしたのだろうか。
昨日はあんなにも心を許してくれていたのに……マリウスはそう考えたところでハッとした。
エリーセには昨日の記憶はないのだと。
自分は初めて会う男でしかないのだと。
そんな大前提のことが、浮かれすぎて頭から抜け落ちていた。
今日のエリーセはマリウスと初対面だ。
知らない男に急に近づいて来られたら、不安になるのも当然だ。
一日しか記憶の持たない彼女を迎え入れた時からきちんと考え意識していたことで、昨日までは考えずとも彼女が不安にならないように接していた。
しかし、今日はそんな当たり前のことさえできなかった。
誰かを好きになると、人はこんなにも愚かになるものなのか。
マリウスは自分の変化に驚き、今日の態度を反省した。
そして、エリーセが少しでも安心できるように、マリウスは素直に心を打ち明けた。
「俺は君の婚約者のマリウス・ホルデイクといいます。婚約は形式的なものだと思っているかもしれないけれど、俺は心から君のことを好きだと思っています。つい、気持ちが抑えられず近づきすぎて
怖がらせてごめん。君を不安にするようなことはしないから、一緒に朝食を取ることを許してくれないかな」
マリウスはいつも失言をした時は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
今だって、その気持ちはある。
それでも、彼女に真摯に向き合うことを選んだ。
マリウスの言葉を聞いたエリーセは顔を赤くした。
マリウスの本心からの言葉が伝わったようだ。
エリーセは躊躇いながらも、そっとマリウスの手を取った。
「私もいきなりのことで驚いてしまって……でも、好きだと言ってくださったこととても嬉しいです」
そう言って、花の綻ぶような笑顔を見せた。
しかし、次の日の朝。
食堂に現れたエリーセはマリウスを見ても社交的な笑顔を見せるだけだった。
昨日のことは忘れているのだから当然の反応だ。
マリウスは今まで通りに初対面の挨拶をし、反応の良い会話をしつつ朝食を終えた。
表面上はこれまでと何ら変わらない日常。
だが、マリウスの心の中は天と地ほども違っていた。
エリーセと別れ、自室に入ったと同時にマリウスは項垂れた。
エリーセの前では何とか取り繕っていたが、その内心は深く気持ちが沈んでいた。
好きな人と気持ちを通じ合わせたのに、次の日にはそれがなかったことになる。
自分だけがその時のことを覚えている。
それがこんなにも辛く、苦しいことだったなんて。
マリウスはエリーセと安易に婚約し、一緒に過ごすことを決めたことを後悔した。
生半可な覚悟で決めていいことではなかった。
自分がエリーセを好きになるなんて、考えてもいなかった。
好きという感情が、こんなにも重くて大切で苦しいものだなんて知らなかった。
だから、仕方のないことではあるのだけれど。
それでも、どんなに辛かったとしても一度婚約者になった以上、簡単に婚約破棄することなどできない。
複雑な事情を抱える彼女を、自分勝手に振り回すことなどできない。
ましてや、それが好きになった人なのだから、尚更その人にそんな仕打ちができるはずがない。
マリウスは鬱々とした気持ちで一日中自室に引きこもり、そんな風に考えを巡らせていた。
窓の外が暗くなる。夕食の時間だ。
マリウスはこんなにもエリーセと顔を合わせたくないと思ったのは初めてのことだとため息をついた。
夕食は別々に取ることもできた。
でも、今まではどんなに忙しくても、朝食と夕食だけはエリーセと一緒に取って会話を楽しんでいた。
そうすることがきっとエリーセにとっても一番良い選択なのだろうと思う。
だから、マリウスは自分の気持ちを押し殺して夕食の席についた。
食べながら、今日もエリーセと会話をする。
彼女との会話で話題に困ることはない。
何度同じ話をしても彼女に取っては初めて聞く話なのだから、受けの良かった話をすれば、夕食の間くらいの話題が尽きることはない。
……そのはずだったのに、食堂には沈黙が流れていた。
マリウスはその沈黙の中、ただ黙々と食事を口に運んでいた。
「あの……」
その沈黙を破り、エリーセはフォークを置くと躊躇いがちにマリウスに話しかけてきた。
声をかけられたマリウスは顔を上げてエリーセを見る。
彼女の食器はあまり料理が減っていない。
嫌いなものが入っていて食べられないということはあり得ない。
毎日が初めてで料理に飽きることのないエリーセには、いつも彼女の大好物を出している。
間違いのないメニューのはずだ。
とすると、体調が悪くて食が進まないのだろうか……
そんなことをマリウスが考えていると、エリーセが続きを口にした。
「あの……マリウス様はどうして私と婚約してくださったのですか?私のこと、好きでも何でもないでしょうに……」
悲しそうな顔でそんな言葉を述べるエリーセに、マリウスは信じられない気持ちでいっぱいだった。
「俺が君のことを好きじゃないって……?君はどうしてそんなことを言うんだ!俺は昨日もその前も、君に心から好きだと伝えた。それを忘れているのは君じゃないか!!」
気づけば、マリウスは立ち上がり、そう叫んでいた、
エリーセのことが好きで好きでこんなにも苦しいのに、その好きの気持ちさえ彼女に否定されるなんて。
反射的にそう思ってしまったマリウスは理性を忘れた。
そして、マリウスの目の前のエリーセは酷く青ざめて身を固くしていた。
「ご……ごめんなさい」
目に涙を浮かべたエリーセは声を震わせた。
その声を聞いて、その表情を見て、マリウスは我に返った。
何てことをしてしまったのだろうと。
彼女に対して一番言ってはいけないことを言ってしまった。
どうにかして、弁解しないといけない。
……だが、マリウスはその次の言葉を探すことなく、彼女から目を逸らして逃げるようにその場を立ち去った。
マリウスはそのまま自室に駆け込むと、ベッドに潜って頭からシーツを被った。
眠ってしまおう。
早く朝になってくれ。
そうしたら、エリーセは全部忘れてくれるから。
全部なかったことになるから。
彼女を一人放置して、傷つけた彼女から逃げて、こんなことを考えている自分は最低な人間だと自覚している。
あんな言葉を言ったことも最低だった。
今までの人生の中で一番の酷い失言だった。
エリーセだって忘れたくて忘れたわけではない。
前日までに好きだと伝えていたとしても、それは今日の彼女には知り得ないことだ。
それに、今日のマリウスは表面上は取り繕っていても、内心は酷く荒れていた。
エリーセはそれを感じ取ってしまったのかもしれない。
夕食でのマリウスの態度も良いとは言えないものだった。
エリーセが誤解してしまったのも、マリウスの自業自得だろう。
エリーセは一日で記憶が消えてしまう。
それをわかっていて、彼女と婚約した。
それが自分にとって都合の良いことだと思ったから。
それなのに、自分にとって彼女の記憶がなくなったからといって彼女を責める。
最低だ。最低な人間だ。
でも、明日になれば彼女は忘れてくれる。
明日になれば全部なかったことになる。
俺が最低だったことも……
マリウスはそう考えた。そう思い込もうとした。
しかし、先ほどのエリーセの表情が、震える声が、マリウスの目に耳に残って消えない。
たとえエリーセが忘れてしまったとしても、マリウスが忘れることは決してできないと思った。
ばっとベッドから飛び起きて、机に向かった。
紙とペンを取り出す。
手紙を書くためだ。
エリーセの両親に宛てて。
エリーセと婚約を解消する準備として。
もう、エリーセとは一緒にいられない。いてはいけない。
今日のことが彼女の中でなかったことになったとしても、自分が最低であることは変わらない。
また何度も、彼女に最低なことを言って傷つけるかもしれない。
エリーセは次の日になれば忘れているが、彼女がその度に傷つくことは変わらない。
たとえ忘れてしまうとしても、彼女を傷つけたくないから。
彼女には幸せでいて欲しいから。
ペン先にインクをつける。
しかし、手が震えて最初の一文字さえ書き始めることができない。
ペン先から溢れたインクが紙を汚す。
マリウスは何枚も何枚もインクで汚れた紙を握りつぶした。
そんなことをどれだけ繰り返した時だろう。
まだ一文字も手紙を書き進められない中、部屋の扉が叩かれた。
使用人だろうか。
もう、今日は誰にも会いたくないと無視していると再び扉が叩かれ、今度は声まで掛けられた。
「マリウス様……大丈夫ですか?急に出て行かれてしまったので心配しています。入ってもよろしいですか?」
不安そうで、それでいてどこか力強さもあるような声は、聞き間違えることはない。
エリーセの声だった。
あんなことを言われた彼女がマリウスの部屋に来るなんて思ってもいなかった。
しかも、マリウスのことを心配までして。
「……大丈夫だ。なんの問題もない。君が俺のことを心配してくれるなら、そのまま部屋に帰って眠ってくれないか?君は眠れば今日のことを全て忘れてくれるだろう?全部なかったことにして欲しいんだ。頼むよ……」
また、最低なことを言った。
彼女には本音で話せるだと?
これは本音なんかじゃない。
言ってはいけない言葉を節度なしに吐き出しているだけの暴言でしかない。
でも、止められない。
俺は最低で……弱い人間だから。
マリウスは自己嫌悪に陥りつつも、それ以上の言葉を続けることはできなかった。
「……分かりました。今日のことは、眠って全て忘れます」
少しの沈黙の後、彼女からそんな言葉が聞こえた。
エリーセにそんな酷いことを言わせてしまった。
罪悪感を抱きながらも、マリウスは謝ることも彼女に声を掛けることもできなかった。
ただじっと、エリーセが扉から離れ、彼女の部屋へと帰るのを待った。
しかしーーーエリーセは自らその扉を開いた。
「ですが、眠る前にマリウス様のお話を聞かせてくれませんか?何を話しても大丈夫ですよ。今の私は最強ですから。許可を得ていないマリウス様のお部屋に勝手に入るなんてはしたないこともできます。だって、明日には全部忘れてなかったことになるんですから」
そう言ってマリウスの部屋に入ってきたエリーセは得意そうに笑っていた。




