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8.好きということ

 

 翌朝、いつもと同じように目覚めたエリーセが食堂へとやってきた。

 マリウスもいつも通りに準備を終え、席に着いて待っていた。

 はじめまして、の挨拶を終える。

 何度も繰り返しているベストな会話はいくつもある。

 だが今日は、そのどの会話もするつもりがなかった。


 エリーセに自分の気持ちを伝えよう。

 そう思わずにはいられなかった。

 “好き”という感情が生まれてしまえば、自覚してしまえば、それを抑えることなどできなかった。

 生まれてしまうものは止めることができない。

 いつかヘルハルトが言っていた言葉を身をもって体感した。


「エリーセ、君に伝えたいことがあるんだけど、聞いてくれるかい?」


 マリウスは食事を終えたタイミングでそう切り出した。

 硬くなりすぎないように意識したつもりではあったが、緊張を全て隠すことはできていなかったかもしれない。

 エリーセは頷き、姿勢を正して話を聞こうとしてくれた。


「君と俺は婚約している。この屋敷で一緒に暮らし始めてから半年になる」


「はい。そのようですね」


「君との生活の中で、君にとっては初めてのことでも俺は何度か経験したことも当然出てくる。でも、これは俺にとっても初めてのことでとても緊張している」


 エリーセは自分の気持ちを素直に口にしたマリウスに意外そうに少し目を開いたが、口を挟むことなくマリウスの次の言葉を待った。

 やっぱり、そんなエリーセだから、気持ちを伝えたくなったのだとマリウスは再認識し、深く呼吸をするとエリーセを真っ直ぐに見つめた。


「君のことが好きだ。いきなりこんなことを言われて戸惑うかもしれない。でも、胸の内から生まれた子の気持ちを留めて置くことができないんだ」


 マリウスの心臓は飛び出してしまいそうなほどに鼓動が速くなっている。

 エリーセはその言葉を聞いてどんな反応をするのか全く想像できず、目を逸らしたい気持ちもあった。

 けれど、マリウスはじっとエリーセを真っ直ぐに見たまま彼女の返答を待った。

 エリーセは思ってもいなかったことのようで目を丸くしてマリウスの告白に驚いてはいたようだったが、嫌がっているような様子はなかった。


「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」


 そう言って、少し照れたようにはにかんだ。

 そんな彼女の反応に、マリウスは天にも昇るような気持ちだった。

 “好き”というものがこんなにも尊いものだったなんて。

 好きだと伝えることがこんなにも掛け替えのない気持ちになることだなんて知らなかった。


 マリウスは一度、そんな気持ちもないのにエリーセに好きだと言ったことがあった。

 天と地ほども違う。

 その時の自分の浅はかな行動を後悔した。

 でも、今はこの胸のうちにしっかりとその大切な気持ちがある。

 その気持ちを言葉にすることこそが重要なのだと、この時やっと分かった。


 その日は一日予定が空いていたので、マリウスは朝食の後もエリーセと過ごすことを提案した。

 いつもは予定があってもなくても、エリーセと過ごすのは朝食の時と夕食の時だけだった。

 エリーセの負担になりすぎないようにという面もあるが、マリウス自身がそれで十分だと思っていたからだ。

 だが、好きという気持ちを自覚したマリウスは一秒でも多くの時間をエリーセと過ごしたいと思わずにはいられなかった。


「近くに植物園があるんだ。今日はそこに一緒に行かないか?」


「はい、ぜひ。とても楽しそうです」


 エリーセは考える素振りも見せず、快諾してくれた。

 マリウスはエリーセは花が好きだったと思い、そう提案したが間違ってはなかったようだ。

 エリーセにも外出の準備をしてもらい、屋敷を共に出る。

 思えば、この屋敷に来てから彼女とこうやって出かけるのは初めてのことだった。

 植物園までの道の馬車のなかでの会話は途切れることはない。

 今までで反応の良かった話題の選択肢は多くある。

 それでも、マリウスは今まで一度もしたことのない話ばかりをしていた。

 エリーセのことをもっと知りたい。彼女ともっと話したい。

 そんな気持ちが溢れて止まらなかった。


 植物園についてからも、花を愛でる彼女の邪魔にならない程度の会話を続けた。

 一緒の花を見て、一緒に笑った。

 マリウスは特段、花に興味はなかったが、エリーセと一緒のことができて、彼女が楽しそうにしているのが嬉しかった。


 そんな風に二人で一日過ごしていて、エリーセはマリウスに対しての緊張がほとんど和らいできたようだった。

 この花は初めて見ました。

 とても良い香りがしますね。

 次はあちらを見に行きましょうか。

 そんな風にエリーセは声を弾ませて、マリウスに笑いかける。

 いつもはマリウスからあれこれと話し、提案することが多い。

 今日のようにエリーセから話しかけてくれることが新鮮だった。


 マリウスはエリーセの提案にもちろんだと頷いた。

 だが、その場をすぐには動かなかった。

 どうしたのだろうと、少し不思議そうにするエリーセを前にマリウスは遠慮がちに口を開いた。


「……手を繋いでもいいか?」


「はい」


 マリウスは勇気を出して、その言葉を口にした。

 今まで、正しい選択になるように、そう思って言葉を口にしてきた。

 だが、この言葉は何の考えもない、ただのマリウスの気持ちから出た言葉だった。

 そんなマリウスに、エリーセは迷わずに応えてくれた。

 彼女の小さい手を決して壊さないように優しく握った。

 自分の手とは全く違う、柔らかく華奢な手。

 手を繋いでいるだけなのに、優しい暖かさが感じられる。

 幸せとはこういうことなのかもしれない。

 自分の手の中に収まってしまうような可愛らしい手。

 繋いでいるのが申し訳なってくる。

 だが、離したくない。

 できることなら、ずっと繋いでいたい。そう思っていた。


 マリウスはエリーセの表情を盗み見る。

 頬を僅かに赤らめた彼女は、マリウスの視線に気づいていたようだった。


「エリーセ」


「はい」


 ただ名前を呼ぶ。

 それだけのことなのに、胸が温かくなる。

 彼女に対しての気持ちが溢れて止まらなかった。


「君のことが好きだよ。俺は今、とても幸せだ」


 そう伝えた時、マリウスの手は少し震えていたと思う。

 やはり、何も考えずにただ自分の気持ちを伝えるのはまだ怖いから。

 手を繋いでいるエリーセには気づかれていたかもしれない。

 でも、彼女はそれを指摘するようなことはなく、マリウスの手をそっと両手で包んだ。


「ありがとうございます。気持ちを伝えてくれて。私もマリウス様のことを好きになり始めています」


 エリーセは朝に伝えた時よりも嬉しそうな表情で笑いかけてくれた。

 その表情に、マリウスの心は踊り出しそうな気分だった。

 誰かを好きになること。

 それがこんなにも温かいものだなんて。

 好きな人に好きだと言ってもらえることがこんなにも幸せなことだなんて知らなかった。


「ありがとう、エリーセ。ああ、本当に幸せだ」


 マリウスはエリーセの両手を優しく包み返した。

 幸せを噛み締めるように。


 ……だが、この時のマリウスは浮かれすぎていて気づいていなかった。

 笑顔の裏でエリーセが暗い表情を隠していたことに。



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