7.好きはうまれるもの、愛は育むもの
マリウスは日が昇ると同時に目を覚ます。
手早く着替えを済ませ、屋敷の周りを走り軽く剣を振る。
水を浴びて汗を流すと、身支度をしてエリーセが起きてくるのを食堂で待つ。
これがマリウスの朝の日課だ。
その後もエリーセが起きてきてからもマリウスのルーティン は決まっている。
毎朝、毎日同じことが繰り返されているが、マリウスはエリーセガ扉を開いて少し不安げだがそれでも優しい笑顔を向けてくれるのを心待ちにして席についている。
そんな変わりない平穏な日常だ。
……いや、正確には変わっていないわけではない。
行動は変わらないのだが、マリウスの中では少しの変化があった。
扉の先から姿を現すエリーセに対して、以前まではただ単に彼女との会話を楽しみにしていた。
彼女との会話は心安らぐものだから。
だが今は会話だけではなく、エリーセ自身に対して心が惹かれていた。
いつから、そうなったのだろうか。
思い返せばそんな風にエリーセのことを感じるようになり始めたのは、あの予想外の出来事があった日からだ。
誰にも話したことのない過去の話をした。
自分が英雄について思い悩んでいたことを話した。
あの日のことも例外なく、エリーセは忘れているだろう。
彼女が忘れることを前提で話したのだから当然のことだ。
だから、眠って目覚めた次の日のエリーセはマリウスの過去を知らない。マリウスの考えも知らない。
それでも、どうしてだかマリウスはエリーセのことをz以前よりももっと意識するようになった。
行動は変わらない。
毎日毎日同じ会話、同じやり取りだ。
だが、マリウスの心の中の動きは大きく変わっていた。
エリーセに話しかけると心が高まり、たとえ毎回同じ返答だとしてもその声を聞けるだけでとても嬉しかった。
以前まではただの日常の一部だと思っていたが、マリウスはエリーセを一人の特別な人間として接し始めていた。
そして、そんな日々を過ごすうちにマリウスの中に今まで一度もえ抱いたことのないような温かい感情が生まれていた。
この感情は一体何なのだろうか……
そんな疑問を抱いた時、マリウスの頭には昔とある人物に言われた言葉が浮かんできたのだった。
***
マリウスは十五の歳になる時、貴族の子息・子女が通う学園に通うこととなった。
その学園には遠方から来ている者も多く、そんな学生達のために寮が設けられていた。
低学年のうちは部屋数の関係もあるのだろうが、共同生活を学ぶためにということで二人一部屋とされることが基本だった。
マリウスも入学時点で入寮し、そこで一緒の部屋となったのがヘルハルトという自由奔放な男だった。
彼は休みはほとんど街へ繰り出し、休みでない日も夜に寮を抜け出して遊び歩いていた。
ほとんどは女性関係での外出のようだ。
マリウスは周囲の人間とトラブルなく穏便に過ごしたいと思っているだけで、実のところ他人に関心がほとんどなかった。
だから、そんなヘルハルトのことも良いとも悪いとも思ってはおらず、部屋にいないので気を使う時間が少なくて済むことには有り難いと思う程度だった。
面倒ごとっはできることなら避けたいので、マリウスはヘルハルトが寮を抜け出している時に見回りがあってもうまく誤魔化していた。
別にヘルハルトのためではなかったが、彼はマリウスにそのことを感謝して毎回欠かさず心からの礼をしていた。
ヘルハルトは女性関係は激しいが、それ以外はまともでよく出来た人間だった。
彼が悪口を言っているところを聞いたことがない。
いつも笑っているような人物だった。
話す機会は同質の割にはそれほど多くなかったが、何を言っても笑って許してくれそうなヘルハルトと話すことは、他の人間と話すよりも楽だった。
そのひは、いつも夜遅くに帰ってくることの多いヘルハルトが珍しく夕方に帰ってきた。
真っ赤に腫れた頬と一緒に。
恐らく、女の子に引っ叩かれたのだろう。
そんな風に帰ってくるヘルハルトを見るのは初めてではなかった。
ヘルハルトは時々、女の子にフラれる。
そしてその度に分かりやすく落ち込むのに、また次の相手を見つけて付き合う。
その活力には感心する。
今まではそんな風にしか思うことはなかった。
いつもならヘルハルトの行動を特に気にすることなく、無難に心配するような言葉をかけて終えるのだが、何故かその日は違った。
マリウスはヘルハルトに対して疑問を口にした。
「どうしてそんなに多くの女性と交流を持つんだ?最初から付き合わなければこんなことも起こらないのに。面倒じゃないのか?」
マリウスはヘルハルトに興味を持っていなかったので、そんな話題を振ることは今までなかった。
ヘルハルトもそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
腫れた頬を冷やしながらベッドに横になっていたヘルハルトは驚いたようにバッと体を起こし目を見開いてマリウスを見たが、すぐに表情を緩めた。
そして、楽しそうな声音で歌うように答えた。
「好きは生まれるものだからだよ。自分で止めることなんてできないさ」
「好きが生まれる……?」
マリウスはそんな表現を初めて聞いた。
好きと生まれるが結びつく言葉とは思っていなかった。
……そもそも、マリウスには“好き”ということもどういうことなのか分からなかったのだが。
マリウスは小さい頃から、他人が望むような行動や言動を求めることに必死だった。
自分が言いたいことを言ってしまえば、あの空気が凍るような空間が出来上がってしまう。
だから、マリウスはずっと自分の考えを封じ込めてきた。
その弊害がそんなところに現れていた。
マリウスの反応に、ヘルハルトは何かを察したのかもしれない。
表情をさらに緩め、マリウスに優しく笑いかけた。
「それに、愛は育むものなんだ。何度もあって一緒に過ごしていくことが大事なんだ。そうするといつの間にか心の中に愛が育まれているんだ」
「愛を育む……」
どちらにしてもマリウスの中にはないような考えであったし、持っていない感情でもあった。
相手がヘルハルトでなかったら、分かったふりをして無難に返して考えることさえなかっただろう。
それでも、考えたところでやはり分からない感覚なのだけれど。
ヘルハルトは自分で言う通り、“好き”も“愛”も彼の中に多く持っている。
時々トラブルもあるが、その一つ一つの好きや愛に対して心から向き合っているので、彼自身、誰からも好かれるような人物ではあった。
マリウスも周りに人が多いタイプではあったが、ヘルハルトと根本の部分で大きな違いを感じていた。
マリウスは考えても返すべき言葉が分からず、それ以上の言葉が出てこなかった。
しかし、ヘルハルトは気にした様子なく楽しそうに言葉を続けた。
「そう、愛は育むものなんだよ。だから、最初は思い入れがなかったとしても、いつか愛が芽生えていることがあるかもしれない。そしてそこから好きが生まれることもね」
そう言ってヘルハルトはマリウスに小さな鉢植えを差し出した。
「これは俺の故郷の花なんだ。マリウスにあげるよ。しっかり世話をしたら花が咲く頃には愛着が湧くんじゃないか?そしたらこれが好きな花になるかもしれない。この花は俺も好きな花なんだ。だから、もしそうなってくれたらすごく嬉しい」
「うん……」
マリウスはヘルハルトから手渡された鉢植えを素直に受け取った。
マリウスもそうなったらいいなと心のどこかで思ったからかもしれない。
ただあまり部屋に帰って来ないヘルハルトに体よく花の世話を押し付けられた感じでもあったが、マリウスは嫌な感じはしなかった。
それから、マリウスは毎日花の世話を欠かさずした。
水をやるのが習慣になり、葉に元気がなければ肥料をあげた方がいいのだろうかと部屋にいない時まで花のことを考える時もあった。
そして、数ヶ月して蕾が出てきたと思うと、小さな黄色い花を咲かせた。
いつの間にか、マリウスは花が咲くのを心待ちにしていた。
そして、その咲いた花を見た時、マリウスの中には確かに今までにない感覚があった。
これが愛着。愛というものなのかもしれない。
「お、花咲いたな。マリウスが愛情込めて世話してくれたおかげだな。好きな花になったか?」
ちょうど帰ってきていたヘルハルトが花が咲いているのを見て、嬉しそうに聞いてきた。
「花が咲いたことは嬉しかったけど、好き……かどうかはまだ分からない」
「そうか。まあ、気長にな」
マリウスはそんな風に答えたのでヘルハルトががっかりするのではないかと思ったが、彼はいつもの軽い調子だった。
やはり、ヘルハルトのそんなところは、一緒に過ごす中で気が楽だった。
きっと、他の人間との会話であれば、本心でなくても好きになったと言っていたかもしれない。
でも、ヘルハルトには嘘をつく方が嫌がるだろうと、そんな気がしていた。
学年が上がり一人部屋になると、マリウスとヘルハルトは疎遠になった。
学園内であったとしても、挨拶を交わす程度の関係だった。
そんな中、マリウスが三学年に上がった頃、隣国からの侵略戦争が始まるかもしれないと噂され始めた。
軍の養成所への募集があり、入隊を志願したマリウスは学園から養成所へと移ることになった。
マリウスの手に渡ってから二回ほど花を咲かせた鉢植えは持っていくことができない。
マリウスは、別部屋になってから初めてヘルハルトの部屋を訪れた。
鉢植えを返すためだ。
「やあ、久しぶり。君が来るなんて珍しいね。どうしたんだい?」
「ああ、急に悪いな。これを返しにきたんだ」
また街に出かけていていないかもしれないと思っていたが、彼はタイミングよく部屋にいてくれた。
扉を開けて出てきたヘルハルトは、変わらない笑顔をマリウスに向けた。
「……大切にしてくれていたんだな。ありがとう。この花は好きになってくれたか?」
「この花が咲くのは楽しみだったし、きっと愛着は湧いていたみたいだ。でもまだ、好きには慣れていないと思う」
ヘルハルトはいつかと同じことをマリウスに聞いた。
そして、その問いに対するマリウスの答えも変わらなかった。
それがなんとなく申し訳ない気持ちがして、マリウスの声は小さくなっていた。
だが、ヘルハルトはマリウスの答えを特に気にしているような感じはなかった。
「俺の故郷には、この花が咲き誇る丘があるんだ。マリウスもいつか見にきてくれよ。そうしたら好きになるかもしれない。いや、絶対に見に来い。見に来るまで……死ぬなよ」
戦争が始まれば、強い弱いに関わらず運のみで死に至ることは多い。
軍に入隊し、戦場に行くマリウスをヘルハルトは心配してくれていた。
「きっといつか、見に行くよ」
そんなヘルハルトに、マリウスはどう返して良いか分からず、無難な言葉で返した。
本心ではない。
本心などなかったから。
だが、その言葉を聞いたヘルハルトはどこか寂しそうに笑っていた。
それがマリウスがヘルハルトと交わした最後の会話となった。
***
マリウスの机の上には、あの時と同じ黄色い花が咲いた鉢植えがあった。
エリーセが喜ぶかと思い、あの丘に咲く花と同じ花を鉢植えとして取り寄せた。
その鉢植えを見て、マリウスは学園時代のヘルハルトのやり取りを思い返していた。
激しい戦場での日々の中で忘れ去られていた記憶。
そんな記憶が、彼の言葉がよみがえってきた。
今思えば、マリウスにとってヘルハルトは他の人間とは違う特別な相手だったのかもしれない。
だが、当時のマリウスは相手のことを見ようとはしていなかった。
あの耐え難い空気にならないように、上手く対応できさえすれば良いと考えていた。
だから、ヘルハルトの表情の意味も分からなかった。
あの時、ヘルハルトはマリウスが建前として言っていたことに気づいていて、そんな顔をしていたのかもしれない。
今となってはもう確認しようもないことだが。
今のマリウスがそんな風に過去のヘルハルトとのやり取りについて考えられるようになったのは、今は相手のことを見ようとしているから。
エリーセのことを一人の特別な人間として見ているから。
エリーセに対して、毎日接し、改善策を考え、どうすればもっと喜んでくれるだろうかと頭を働かせる。
そんな風にいつの間にか自分のためではなく、エリーセのためを思って考えを巡らせていた。
そこには確かに、愛が育まれていた。
そして気づけば、自分の心の内に胸が苦しくなるほどに掴まれるような感覚。
これはあの時、ヘルハルトが言っていたものなのではないかと思った。
これが“好き”というものではないかと。
「俺はエリーセが好きだ」
一人の部屋で、愛らしく咲く花の前でそう口に出してみた。
思った以上にその言葉はしっくりときて、胸の内にすとんと落ちるようだった。
そうか。好きが生まれていたんだ。
自分はエリーセが好きなんだ。
マリウスはそう自覚した。
生まれてきてしまうものは抑えようがない。
ヘルハルトが言っていた意味が初めて少しだけ理解できそうだった。
そしてもう一度、大切な宝物を見つけた時みたいに言葉を口にした。
「俺はエリーセを愛している」




