プロローグ
新連載です。よろしくお願いします。
エリーセは大きな喪失感と共に目を覚ました。
そして、見覚えのない天井が目に入ってきた。
自分に違和感を覚えつつも、ベッド横に自分の字の書き置きとノートがあるのに気づいた。
“私は昨日までの記憶を忘れている。私の記憶は眠るとリセットされる”
書き置きにはそんなことが書かれていて、エリーセは不安を覚えつつもノートを開いた。
ノートには昨日までの大まかな出来事が書かれているようだった。
“私はマリウス・ホルデイク様と婚約し、一緒に暮らしている。彼は不器用だけど、優しくて信頼できる人。まずは朝食に行き、続きはその後に読むように”
要約するとそのようなことがノートの最初のページに書かれていたので、エリーセは身支度を始めた。
記憶がなくて知らないところにいるという状況に普通は混乱しそうなものだが、エリーセ自身に何かを忘れているという自覚があるので、割とすんなりと今の状況を受け入れることができていた。
不安が全くないと言えば嘘になるが。
目が覚めた時にあった喪失感は記憶がないことによるものなのだなと考えていた。
準備を終えたエリーセは婚約者はどんな人なんだろうかと思いながら、朝食へと向かった。
食堂までの廊下には分かりやすいように道順が示されていた。
毎朝エリーセにとっては初めての道になるので有り難い工夫だ。
そして、その廊下には色々なものが飾ってあった。
珍しい形の壺、大きな赤い花の描かれた絵画、ブリザード処理された花かんむり。
およそ統一性のないもの達が大切そうに飾られていた。
なんだろうと思い眺めながら歩いていると、いつの間にか食堂の前に着いていた。
この先にはきっと自分の婚約者がいるのだろう。
エリーセは少し緊張しながら食堂の扉を開けた。
「おはよう、エリーセ。はじめまして。俺は君の婚約者のマリウス・ホルデイクです。目が覚めていきなり婚約者がいて一緒に暮らしているなんて驚いただろうけど、話は朝食を取りながらなんてどうですか?」
食堂の席には一人の男性が座っていた。
エリーセと目が合うと立ち上がり、笑いかけて自己紹介をした。
エリーセはおはようございますと挨拶を返して彼の引いてくれた椅子に座った。
「今日の体調は問題ない?パンとサラダとスープ、メインは卵料理の予定だけど食べられそうかな」
はいとエリーセが返すと、マリウスは使用人に対しても丁寧に指示を出していた。
そして、マリウスはエリーセに向き直ると、今彼女が置かれている状況を説明してくれた。
エリーセは一年半前に馬車の事故に遭い、その後遺症で記憶が一日しか持たなくなってしまったこと。
マリウスがエリーセと出会ったのは一年前で、そこからエリーセと両親を説得して約十ヶ月前に婚約したこと。
婚約中ではあるが、結婚後を見据えて一緒に生活していること。
そんなことをわかりやすく丁寧に説明してくれた。
エリーセは覚えていないがきっとこの説明も毎朝、今まで何度もしてきたことなのだろう。
だが、マリウスは少しも面倒そうな様子を見せることはなかった。
説明を聞きながら、エリーセはマリウスについて考えていた。
ノートに書いてあった通り優しそうな印象の人だ。
端々にエリーセを気遣ってくれていることが感じ取れる。
一通りの説明を終えた後、マリウスは何か聞きたいことはあるかと聞いてくれたが彼の説明で足りないところはなかった。
「最後に、これは一番大切で伝えたいことなんだけど、聞いてくれるかな」
マリウスはエリーセの反応に頷くと、改まって少し緊張したようにエリーセを真っ直ぐに見つめて言葉を続けた。
そんなマリウスの様子に、エリーセもはいと返事をすると姿勢を正した。
「俺は君が好きだ。心から君を愛している。そして、君にも俺を好きになって貰えるような男でいようと思っている」
心からの告白であると同時に決意でもあるような彼の言葉はエリーセの心に入り込んでくるようだった。
真剣な彼の表情に、気持ちが伝わってくるような様子に、その言葉が本心なのだと自然とそう思った。
好意を伝えられたことに嫌な感情はない。むしろ嬉しく思う。
けれど、彼の思いにどう返せば良いのか、すぐに言葉が見つけられなかった。
「ごめん。君を戸惑わせてしまうことは分かっているんだけど、気持ちはどうしても伝えておきたくて。気持ちに無理に応えようとしなくてもいい。ただ知っていてくれればそれだけでいいから」
マリウスはエリーセが応える前に、少し申し訳なさそうに眉根を寄せて微笑みかけた。
きっとこのやり取りも何度もしているものなのだろう。
マリウスは自分に何度も気持ちを伝えてくれているのだろう。
そしてエリーセの反応もまた、彼にとっては何度も見ているものなのだろう。
だとしたら、変に取り繕うこともない。
エリーセはそのままの気持ちを口にすることにした。
「ありがとうございます。好きだと言ってくださって、気持ちを伝えてくれて嬉しいです」
エリーセのその言葉を聞いたマリウスは満足そうに表情を緩めた。
***
「今日はどうしても仕事で出かけなくてはいけないんだ。帰りはそれほど遅くならない予定ではあるけど。ここは君の家でもあるから好きに過ごしていてくれ」
朝食が終わる頃、マリウスは少し申し訳なさそうにエリーセに告げた。
仕事なのだったら仕方のないことだろうし、毎日一日中一緒が難しいのも当然だ。
エリーセは特段不満に思うこともなく受け入れ、彼を見送ることにした。
支度が終わった彼と玄関までの廊下を共に歩く。
その途中で、一枚の花の絵画がエリーセの目に留まった。
「その絵はこの前オークションに行った時に競り落としたものなんだ。素敵な絵だろう?」
エリーセの視線に気づいたマリウスはわざわざ足を止めて一緒にじっくりとその絵を見た。
「はい。力強い花ですね。実物もいつか見てみたいです」
一輪の赤い花が大きく描かれたその絵とその花に興味が湧き、エリーセは何となくそう口にした。
「そうだね。そういうことなら、きっと見せてあげるよ」
マリウスはエリーセの言葉にそう返すと再び足を進め、じゃあ行ってきます、と屋敷を後にした。
それからはエリーセは家の中を見て回ったりノートを見たりして過ごした。
きっともう何度も見たことがあるのだろうけど、知らない家は新鮮で飽きなかった。
特に廊下の至る所に飾ってあるあまりこの屋敷とは合わないような物たちを見るのが面白かった。
そして、ノートを見ると今までにあったことがいろいろと書かれており、先程見た廊下に飾ってあった物たちは全部エリーセとマリウスがしてきたことの思い出の物だった。
朝に見た赤い花の絵画も1ヶ月ほど前にマリウスとエリーセが一緒にオークションに出かけ、エリーセが競り落とした物とのことだった。
エリーセの記憶の中にはその思い出は一つもないが、過去の自分もマリウスもその思い出を大切にしていることが感じられた。
ノートにはそんな風にマリウスとの出来事は書かれていたが、マリウス自身についてのことはあまり詳しくは書かれていなかった。
マリウスはエリーセに好きになってもらいたいと言っていた。
きっと今までにも何度もそう伝えているのだろう。
でも、そのことはノートには書かれていない。
過去の自分が彼を好きになったのかどうかも、ノートを読んでも分からなかった。
朝会っただけのマリウスのことを悪い人とは全く思わない。
だが、好きだとも思えなかった。
その日、夕食の時間になってもマリウスは帰って来なかった。
エリーセは使用人の用意した夕食を一人で食べた。
就寝の準備を終え、自室のベッドに入った。
今日はもうマリウスに会えないのだろうか。
「私にとっての今日は“今日の私”の一生なのに……」
エリーセは枕に顔を埋めてそんな言葉を口からこぼした。
今日の私はもう二度と彼に会うことはできない。
今日の私はもう訪れない。
そのことは理解はしたが、やっぱり何の戸惑いもなく受け入れるのは難しかった。
エリーセの中には不安や怖さがあった。
このまま眠ってしまえば、この不安すらも明日には忘れてしまうのだろうが。
何もない一日を過ごす。
何かある一日を過ごす。
どちらにしても自分は全部を忘れてしまう。
意味のある一日なのだろうか。
意味のある人生なのだろうか。
そんな思考が頭の中をぐるぐると回りかけた。
しかしその時、家の前に荒々しく馬車が止まった音がした。
マリウスが帰ってきたのだろうか。
すぐに玄関の扉が開き、ドタドタと騒がしく階段を登る音が聞こえてきた。
そしてその音はエリーセの部屋へと近づいてきて、部屋の前で止まった。
少し間を開いて、エリーセと静かに呼ぶマリウスの声とトントンと丁寧なノックが聞こえた。
エリーセがもう眠っているかもしれないという配慮だろう。
でも、今更取り繕っても全部聞こえていたのに、とエリーセは可笑しくて少しだけくすりと笑ってから、はいと返事をした。
「ああ、まだ起きてくれていて良かった。君に渡したいものがあるから扉の近くまで来てくれないか?」
安心したような優しい声が聞こえてきた。
エリーセはすぐにベッドから降りて扉に近づき開けようとしたが、扉が開き切る前にその隙間から彼の手が伸ばされた。
その手には朝に話していたあの絵画の花が握られていた。
「朝に君が見たいと言っていたから、今日中に渡したかったんだ。受け取ってくれるか?」
何とも不自然な渡し方だ。
エリーセは花を受け取るフリをして彼の手を掴むと扉を開けた。
扉の先には、あっという表情と共に傷だらけでボロボロのマリウスの姿があった。
「怪我をしているじゃないですか!一体何があったんですか?」
エリーセは驚きと心配でつい声を荒げてしまった。
そんな反応のエリーセに、マリウスはバツが悪そうに頭を掻いた。
「この程度、大丈夫。見た目ほど酷くないから。実はこの花がちょうど花屋に売ってなくて咲いている場所を聞いて取りに行ったんだけど、取った時に崖から落ちてしまってね。帰るのに手間取ったんだ」
「そんな危ないことをするなんて。また今度、花が売っている時に買ってきてくれれば良かったのに……」
エリーセは自分の何気ない一言が、彼を危険な目に合わせてしまったことを申し訳なく思いそうこぼした。
「ごめん。君を心配させるつもりはなかったんだ。今度はもっと気をつけて行動するよ。でも、今日じゃないと駄目だから。今日、君にこの花を見せたかったんだ」
マリウスはエリーセをまっすぐ見つめ謝りつつも、それだけは譲れないというように強くそう口にした。
エリーセは明日には今日の記憶を忘れてしまう。
絵画を見て花が見たいと思った今日のエリーセの気持ちも忘れてしまう。
マリウスもそのことを考えてエリーセのためにわざわざ花を取ってきてくれたのだろう。
だが、マリウスはそうとは言わずに、ただ自分がそうしたかっただけだと言うように話す。
バレバレの嘘だ。
ノートにあった彼の不器用なところというのはこういうところなんだろうなと思った。
そして、エリーセはそんなマリウスに強く心を惹かれていた。
「ありがとうございます。私のために取ってきてくれたんですね。私はまだマリウス様のことをほとんど知りませんが、優しいところと誤魔化すのが得意じゃないところが好きですよ」
エリーセはマリウスの手から花を受け取るといたずらっぽく笑いかけた。
今はまだこれくらいしか言えないけれど、完璧でない彼の一部分をとても愛おしく思ったのだ。
マリウスは不意に伝えられたエリーセの言葉に一瞬動きを止めたが、次の瞬間にはまるで子供が宝箱を開けた時みたいに破顔していた。
そんなマリウスの反応が見られたことをエリーセは嬉しく思った。
……でも、これも忘れてしまう。
この気持ちを持っていられるのも後少しの間しかなかった。
眠ってしまえば忘れてしまう。
そう思うと、気持ちが沈んでいくようだった。
「どうして忘れてしまうんだろう。こんなに素敵な出来事を。こんなに素敵なあなたのことを。少しも忘れたくないのに」
エリーセは悲しみを含んだ嘆きをこぼしていた。
この気持ちを忘れてしまうことは、エリーセ自身にとっても辛いことだけれど、マリウスにとっても辛いことだろうから。
しかし、マリウスは少しも悲しそうな様子を見せず、笑みを浮かべてかぶりを振った。
「忘れてもいい。むしろ忘れられたいくらいだ。そうしてら、何度だって君に好きになってもらえる。何度だって君に好きになってもらえるような男でいようと思える。だから、忘れられたい」
マリウスはそんなことを、さも当然だというように真剣な面持ちで口にした。
忘れられたい、だなんて普通の人間だったら思わない。
エリーセのために、本心を偽ってそんな言葉を言ってくれる優しい人はいるかもしれない。
けれど、マリウスが本心から忘れられたいと、そう思っていることがエリーセには何故だかはっきりと分かった。
「……変わっていますね」
「そうかもしれない。でも、これが俺だから。俺のそんな部分も好きになってくれているなら、君も変わり者の一人だけどね」
エリーセはマリウスに対して一言、そんな言葉でしか返せなかった。
それでも、マリウスには伝わっていたようだ。
エリーセがマリウスのことをもっと好きになっていたことを。
「はい。私も変わり者です」
エリーセはすっかり気を許して笑いながらそう言った。
お互いが心を通じ合って笑い合う。
こんな記憶も気持ちも忘れてしまうんだろう。
けれど、今は忘れることが怖いとは思わなかった。
マリウスがいてくれるから大丈夫だと、心からそう思えた。