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『猪笹王』

 無残に割れた天窓から覗く空に月はなく、星もない。赤錆に塗れた鉄骨が剥き出しになった廃工場。

 その中に少女が一人、膝を抱えうずくまるようにして座っていた。顔は伏せている。だからその表情を窺い知ることはできない。

「邪魔するぜ」

 不意に男の重い声が聞こえた。

 少女がゆっくりと顔を上げる。

 開け放たれた入口。夜の昏い闇を背に、男が一人立っていた。

 年齢は恐らく三十代後半。一九〇センチを超える長身、黒のスーツに押し込めた筋骨隆々の肉体、オールバック、口許に蓄えた髭、見据えた相手が十中八九弾かれたように俯く三白眼。まさに魁偉かいいと呼ぶに相応しい鬼のような形相。

 男が少女の許へと歩を進める。そして互いの距離が五メートル程になった辺りで、歩みを止めた。


 ──少女を囲むように、十本の左脚が置かれていた。


「刃物で切断した」というよりは「力任せに引き千切った」ような断面。

 肉襞(にくひだ)のようなものや、血管、神経の類が引き千切られそこからぶら下がっている。

 断面には所々赤い苔が付着していた。ギノーに()られた証拠だった。

 死斑が散りばめられた皮膚の下で、幽かに蠢くのはその苔より湧いて出た蛆虫。無論──この苔から生まれた以上単なる蛆虫ではない。

 名は『針口(しんく)』。八大地獄が一つ糞尿地獄、そこにある糞尿の池にて罪人たちを責め苛む蛆虫のこと。

 この皮膚をメスでスッと切開すれば、ひび割れた骨の髄までそれがびっしりと詰まっていることだろう。

「──悪趣味な飯事ままごとだな」

 言って、男は懐に手を入れた。得物を取り出すにしては緩慢な動作。

 実際そこから出てきたのは得物でも何でもなく煙草とライターだった。

 咥えた煙草に火を付け、ゆっくりと紫煙を吐く。外見に似つかわしくない優雅さだった。

「どうしてこんな真似をした」

 少女は問いに答えない。ただ靄がかかったような瞳で男を見詰めている。

「……左脚が十本集まれば〈元の世界〉に帰れるというガセでも掴まされたか」

 ほんの幽かに、虚ろだった少女の眼に光が宿った。

 その反応を見逃さなかった男は、心の中で舌打ちをする。

 どうやらこの少女には「ガセ」という言葉の意味がわからなかったらしい。

「か、帰……れれる……のうか?」

「無理だな」

「……に、何でぇ……?」

「手遅れだからだ。……自分の左脚を見ればわかるだろう」

 男に促され少女は左脚を見た。

 黒くてブヨブヨとした気味の悪い影が左脚に纏わりついていた。

 それからは触手の如く細長いものがいくつも伸びていて、少女の足首や脚の付け根辺りに突き刺さっている。

 少女はこれを今までに何回も取ろうと四苦八苦したが、結局左脚に引っ掻き傷をつくるだけに終わった。一見実体を持っているように映るこの影に、少女は触れることすら叶わなかったのだ。

「そいつがギノーだ」

「……ぎぃのー?」

「嬢ちゃんには妖怪って言った方がわかりやすいかもな。そいつが嬢ちゃんの身体に居座ってる限り、元いた世界に戻るなんてのは無理だ」

「じゃ、じゃーあ……っ」

「ギノーさえ追い出せれば帰れる、か?」

 少女が頷いた。

 その瞳はようやく見付けた一縷の望みに弾んでいるというのに、どうにも表情の変化に乏しい。動作も喋り方も不自然に鈍い。

 少女の左脚に寄生したギノーが、内側から身体の主導権を奪いつつあるのだろう。

「それは──有り得ねぇ話だ。身体にギノーを宿していることが、既来界と未来界そして境界を自由に行き来できる条件だからな。確かに俺には嬢ちゃんの身体からギノーを追い出す力がある。だが今既来界ここでそれを実行したら、もう嬢ちゃんに他の世界に渡る術はない。一生をここで過ごす破目になるってことだ」

「で、でも……言った! い言ったぞ! かかか、〈烏〉がっ、わあたし、十本! 集めたら帰る、れるるぅって!」

「……だからそいつが嘘なんだ。それに肉体的にももう遅せぇ。嬢ちゃんはギノーの力を使って十人の人間を殺した。ギノーってのは血肉を持たない分、人の恐怖を糧にして成長する。十人分の恐怖を喰らったギノーが次に狙っている獲物は他でもない。嬢ちゃん──お前だ」

「じゃ、じゃじ、じゃーあっ!!」

 少女は呂律の回らぬ下で、なおも食い下がった。

 少女の目頭にピンク色に濁った涙が盛り上がる。

 その涙が浴びたものを溶かす強い酸のような性質を備えていることを、少女はすでに知っている。

 しかしそれによって頬が崩れた自分の顔が今どんな風になっているのかを、少女は未だ知らない。

「さっ! しゃめ! ねぇーいん。会える、ないのか!?」

「──」

「いっ、いぃーなに! 会える、にゃいのか!?」

「──」

「ぢょして! 何で! 会える、ないか!?」

「──」

 男は、どの問いにも答えない。

 かろうじて「会える」の部分は聞き取れるので、大凡少女の言いたいことはわかる。

 だが、男はただ黙って少女の潤んだ瞳を見詰めるだけだ。

「にゃ、にっ、にゃ……んちょや……言いぃえ~~~っ!!」

 瞼を固く閉じた少女の涙混じりの叫び。

 男は躊躇ためらう風もなく、恐らくは今の少女にとって最大の禁句を口にした。

 

「そんな『面』下げて、一体今更誰に会おうってんだ」


 それはまさに──現実をつきつける一言。

 少女が弾かれたように眼を開けた。唇がきつく引き締められる。

 怒りと殺意に燃え立つ瞳が男に向けられた。

 ──殺してやる……。

 それは少女の声だったか、それとも少女の左脚に巣食うギノーの声だったか。

「両方だろう」

 男がそうこともなげに呟いた矢先、少女の左脚を包んでいた闇から更なる触手が放たれた。

 先端は銛のような形状。ズブ、ズブ、ズブッと音をたて、それらは少女のあちこちに突き刺さる。

「かっ! は……っ!」

 少女が短い呻き声を上げて、うずくまった。

 粘液と化した闇がうねうねと形を変えながらその身体を呑み込んでいく。

 男はぼうとした眼でそれを見ていた。灰になった煙草を、懐に入れていた携帯灰皿に仕舞う。眼前の光景に慌てた様子は微塵もなかった。

 やがて──闇の形がまとまりだした。

 いくつもの鉄骨や歯車を寄せ集めて出来たような──苔生した奇怪なゴーレムの姿で安定した。


 全長はおよそ三メートル。

 踏切警報機の点滅ランプを思わせる頭部。

 十本の左脚によって組み立てられた禍々しい冠。

 長髪に見立てた熊笹。

 苔と針金と溶接でガラクタ同士を繋ぎ合せて形にした身体。

 そして、毛むくじゃらの太い左脚。

 本来膝があるべき部分に、獰猛な一つ目猪の(かんばせ)


 男の脳裏を『猪笹王いざさおう』というとある魔物の名が過った。

 ──そいつの亡霊が、一説には一本蹈鞴の正体だったか。


 猪が大気を戦慄わななかせんばかりの鳴き声を上げる。

 と、天窓に切り取られた景色が一変、闇色だった空は赤く流れる雲は黒くなった。

 途端、一本蹈鞴の足許から間欠泉の如く赤い苔が湧き出し始める。 

 その正体は既来界きらいかいと未来界の狭間──境界にしか繁茂しないといわれている赤い苔。

『竹内文書』に記されていた錆びることのない金属『ヒヒイロカネ』に因んで、既来人きらいじんが『ヒヒイロゴケ』と名付けた万能金属。

 程なくして──金属質に輝く赤い皮膚が廃工場を覆い尽くした。


 ただ一カ所──男が立つ床を除いては。


「それでいい」

 男がジャケットを脱ぎ捨てた。シルバーグレーのネクタイを外すと、黒のワイシャツのボタンを上から二個開けた。

「そのままギノーに身を委ねてろ。その方が……逝くときゃ楽だぜ」

 一本蹈鞴がぎちぎちぎちっと肩関節を軋ませながら、腕を振り上げた。その手にあるのは白ペンキで一つ目を描いた鉄球。

 対して男は両足を肩幅に広げる。

 上半身と下半身が反対を向くほどに勢いよく腰をひねり、(いわお)のような拳を握り、力を溜める。

 回避と防御を完全に無視した迎え撃つ姿勢。

 一本蹈鞴それを見て、僅かに怯んだ。この男には小細工(メディテーション)を使った形跡がない。かといって名家出身の魔道士にも到底見えない。

 ──まさか〈生身〉で戦うつもりか?

 有り得ない。土地に焼き付いた民間伝承(フォークロア)起源(ルーツ)とし、ヒヒイロゴケを血肉とし、無意識の恐怖を滋養とするギノーに対して、物理的な攻撃手段が効果を及ぼすはずがない。

「──打って来い」

 男の声はそれ以外の選択肢を許さない。

 一本蹈鞴が力任せに──頭上の鉄球を振り下ろした。

 対して男は大きく一歩踏み込むと、裂帛の気迫とともに、必殺の左拳を放つ。

 鉄球と拳が正面からぶつかり合った結果──腕ごと粉々に砕け散ったは前者だった。

 否、砕け散ったなどというものではない。男の拳に触れた刹那、一本蹈鞴の鉄球と腕は男の拳圧を感じるまでもなく、元の赤い苔に戻り霧散してしまったのだ。


 まるで、ヒヒイロゴケの結合そのものが分解されてしまったかのような──


 何の変哲もないはずの左ストレートで武器はおろか片腕まで失い、たじろぐ一本蹈鞴。

 その隙を見逃すことなく男は跳躍。一本蹈鞴の胸部、人間でいえば心臓の部分目掛け足刀蹴りを叩き込んだ。

 大きく仰け反った挙句、尻もちをつく一本蹈鞴。土煙ならぬ苔煙が、その巨体を包み隠すほどに舞い上がる。

 項垂れた一本蹈鞴の胸部には、男によって蹴り抜かれた鮮やかな大穴。間もなくして、そこを起点に一本蹈鞴の崩壊が始まる。

 一本蹈鞴の背中より赤い軌跡を描きながら少女が放り出された。少女の身体は為す術なく、ぼふんっという音とともに苔の海と抱擁した。

 男は構えることなく、仁王立ちのまま少女が起き上がるのを待つ。

 そして、少女が立ちあがった。怒りと屈辱に表情は歪み、唇からは黒い粘液のようなものが滴り落ちている。

『御前……抹消者(イレイザー)ではないのか?』

 少女の口から忌々しげに絞り出される──今度こそは正真正銘ギノーの声。

 鼓膜を震わせると同時に頭の中に直接響いてくるそれを、男は煩わしく思う。

抹消者イレイザーさ。最も導力メディテーションは使えねえがな」

導力(メディテーション)が……使えない……? まさか御前名家の人間か?』

「あんな独善的なお嬢様と一緒にするんじゃねぇ」

 言って、男は徐に上体を沈めた。

 短距離走のクラウチングスタートのような、相撲の立合いのような低い構え。先程のような待ちの姿勢ではない。前へ突き進むための紛れもない攻めの姿勢。それは少女に──猛禽類の臨戦態勢を彷彿とさせた。

『なら……それならば、御前は、一体……っ!』

「……もうお喋りは充分だろ。抹消()すぜ」

 少女の額に脂汗が浮かぶ。

 一本蹈鞴はヒヒイロゴケを媒介として、男の脳に宿主としている少女の記憶を投影した。

 そうすることで、これから自分の消そうとしている相手がギノーに憑かれた哀れな「犠牲者」に過ぎないことを再認識させる。

 屈辱ではあるが、男の深層心理にある恐怖を操作できない以上やむを得まい。

 情に訴えかけることで男の手を止める──古典的だが今も昔も人間はこれに弱い。

 男の眉が僅かに動いた。先程までと比べて、どこか苦悶を感じさせる表情。

 ヒヒイロゴケによる通常攻撃が効果を成さなかった男にも、どうやらこれは通じるらしい。

 一本蹈鞴が嘲るように(わら)う。

 ──いかに強靭な猛者であろうと所詮は人の子!!

「うるせぇ」

 低く重い声が聞こえるや否や、男の姿が消えた。

 常人はおろかギノーにすら全く視認できない突進速度。

 次の瞬間にはもう、棒立ちになっている一本蹈鞴の胸を、男の貫手が貫いていた。

 一片の容赦なく、肘関節が隠れる程に深々と。


「俺に──そんな幻戯あくぎは通じねえ」


 男の腕に貫かれたまま、少女が黒い粘液の塊を吐きだした。

 ぼちゃり、と地面に落ちたそれはうねうねと形を変え、やがて一つ目一本足の猪となる。

 さっきまで男と対峙していたゴーレムの左脚を、そのまま小さくしたようなものだ。

 男はフンとつまらなそうに鼻を鳴らした。

「『処女』の『障碍持ちの左脚』に『鬼神ギノー』。……天沼之宴か。いいぜさっさと次の母体に移りな。根城をつきとめて──まとめて相手をしてやる」

 ここでこいつを抹消してしまえば〈足跡〉が辿れなくなる。一夜街に一人ずつ送りこまれてくる〈少女〉を各個撃破するよりは、単身己が本拠地に乗り込んで残りの〈少女〉を一掃したほうがいい。その方が被害も最小限に抑えられる。

 そんな建前で自分を騙そうとしていることに、内心苦笑する。

 天沼之宴だからこそ、己が力のみで決着(けり)を付けたい。所詮、それだけだろうに。 

 そんな迷いはおくびにも出さず、男がとどめとばかりに獰猛な笑みを浮かべると、猪は一目散に逃げ出した。

 片足だけで飛び跳ねる間抜けな後ろ姿が一際大きく跳んだかと思うと、そのまま苔の中に跳び込んで姿を消した。

 男が少女に向き直る。少女の眼には幽かに光が戻っていた。しかし、それは所詮風前の灯に過ぎない。

 その証拠に──少女の身体は足首から先が苔と化し、崩壊を始めていた。

「目ぇ醒めたか嬢ちゃん」

「……ささめねーちん?」

「んなわけねぇだろ。こんな野太い声と聞き間違えるたぁ余程怖いんだろうな。その『ささめねーちん』ってのは」

「おーすっげー怖いぞー。私がケガとかしたらすっげー怒るぞ。でもそのあとですぐ泣くんだよなー。あはは、わけわかんねーだろ? シンパイショーって言うんだって。そういうの」

「……そうか」

 苔化は、少女の膝まで進行している。

「でもなー怒るのはヤだけど泣くのはもっとヤなんだ。なんかこうな? 胸のとこがきゅ~ってなんの。晶ねーちんは『さでぃずむ』だって言ってたけど。とにかくケガとかはしちゃダメなんだ。はじめはささめねーちんが色々心配してくれるの嬉しかったけどさ。でも今は違うんだ。もう、ぜってーケガしないんだ」

「……そうか。とりあえず『晶ねーちん』ってのが(ろく)でもない奴だってことはわかった」

 苔化、は少女の腹部にまで進行している。

「あははそーやー晶ねーちんも怒るとヤバかったなぁー。あれれ? でもヘンだな。なんか真っ暗だし胸とかチョーいたい」

「……悪ぃな。俺が怪我させちまった。もうじき痛くなくなるだろうから我慢してくれ」

「そっかー。じゃあ大変だぞーオジサン」

 少女が屈託なく──笑った。


「ウチって皆な。家族のダレかをケガさせたヤツ、すっげー怒るんだ」


 そして、少女は完全に崩れた。

 空が本来の──月も星も見えない暗い闇を取り戻していく。

 燃えるように鮮やかだったヒヒイロゴケが、錆びた鉄のような色に変っていく。

 男はワイシャツのボタンを留め、ネクタイを結んだ。

 携帯電話を開くと、某三流探偵から着信があったことに気付くが然程興味はない。あの探偵から自分に来る依頼は、何故か大抵探偵本人の私情が絡む。……もう自分の尻くらいは自分で拭ける年だろうに。

 通例通り管理機構へと簡潔な報告を済ませる。

「アカシャだ。蹈鞴事変の元凶である一本蹈鞴を〈抹消〉した。場所?はっ、どうせ高みの見物をしてたんだから言うまでもないだろ。じゃあな」

 強引に通話を切って、ジャケットを羽織る。

 衣類に付着した劣化ヒヒイロゴケを払い落してから、煙草とライターを取り出した。

 そうして紫煙を(くゆ)らせながら、男──アカシャは廃工場を後にした。

 蹈鞴事変は一夜街最強の男の手によって、ここに一先ずの解決を見せた。

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