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曼殊沙華  作者: 枯山水
8/10

八 死闘

 翌日になっても、峰下の真意はどうにも判りかねた。

 わざわざ居場所を明らかにするくらいなら最初から脱藩などしなければよい。脱藩すれば死罪と決まっているのだから、徹底的に身を隠すか、他藩に匿ってもらうというのが普通の考えである。なのに峰下は何を考えているのか。討手をことごとく倒し、逃れ続けるとでもいうのだろうか。あるいは、春日屋に居るというのは時間稼ぎのための嘘か、何かの罠か。

 朝から二人は言葉もなく、それぞれの思いにふけっていたが、昼近くになってようやく欣芽臺が口を開いた。

「やはりここは藩に加勢をお願いいたしましょうか」

 舟吾郎は首を横に振った。

「いや、大坂屋敷の方々では心許ないし、かといって藩から寄越してもらうのでは、その間に峰下どもが動いてしまうかもしれません」

「では、罠があろうとも二人だけで……」

「いえ、それがし、一人だけで参りとう存じます」

 舟吾郎が言うと、欣芽臺の顔が徐々に赤変してきた。が、舟吾郎はかまわず続ける。

「今回の件、藩からの命令とはいえ、自分の父の敵討ちの意味も含んでおり、私闘に近いもの。あたら他人の沢尻殿を危険な目に遭わせるわけにはいきませぬゆえ」

 欣芽臺は広い顔をさらに赤くして左右に振った。

「これは、小竹殿とは思えぬお言葉、それがし、亡き番頭を父のように慕っておりましたのですぞ。他人ではござらぬ。それに、小竹殿はあの二人を一人で倒せるとお思いか。しかも罠かもしれないのでござる。無理でござる。拙者一人でも無理でござる。二人いなければなりませぬ」

「しかし……」

「それこそ、無駄死にというものではありませぬか。あの世でお父上に叱られますぞ」

 いつにない欣芽臺の厳しい言いぶりに舟吾郎も返す言葉がない。

「小竹殿、二人で参りましょう。罠があろうとも、二人できりぬけましょうぞ」

 舟吾郎は、欣芽臺のえらの張った顔を見続けた。

 ふっ、と舟吾郎から笑いが漏れた。

「父に叱られるところでした。では、参りましょうか」

「はい、参りましょう」


 この日も初夏の香りは心地よく広がっている。それに陽が、地面や、家々や空気を力強く暖めていて、動けば汗が出る。

 この先を左に曲がり、八丁ほど行けば右にありますわ、と歩いていた棒手振に教えられたとおりに曲がった。昼八ツというのにこの通りには人は誰もいない。旅籠が二、三あるほかは、しもた屋ばかり並んだ寂しい通りだった。春日屋に迷惑は掛けられぬから、待ち伏せて峰下らが出てきたところを外で討ち果たす計画にしていたので、通りに人がいないということは舟吾郎達にとって都合が良かった。 

 だが、二人の嗅覚は、既にこの静けさになんとなく不自然なところがあることを嗅ぎ分けていた。

 やはり何かある、と舟吾郎が右にいる欣芽臺に言おうとしたとき、びよんしゅ、という音が鳴った。

 瞬間的に二人は左右に分かれ、その間を短い矢が通り抜けた。動いていなければ、舟吾郎の胴を射抜いていたであろう。

 矢は上から来た、と舟吾郎が無意識の中に認識した時、すでに欣芽臺はその矢の送り主に向かって小柄を投げていた。

 右手のしもた屋の屋根で、その小柄をまともに受けたのは、新町で出会った歯の出た小さいあの男である。

 小柄が首あたりに刺さったのか、首を押さえ屋根の上で転げ回っている。

 次の矢は、後ろからだった。

 既に刀を抜いていた舟吾郎は、振り返りざま矢を払った。

 半弓である。相手は近いが、矢に勢いがない。熟練者ではないな、次の矢をつがえるのに三呼吸はかかる筈。と思いながら相手に駆け寄る。

 焦りのせいだろう、相手はあらぬ方に矢を飛ばし、次の矢を取ろうとしたところで、舟吾郎に右腕を下から払われ、肩から先がごろりと落ちた。 

 男は絶叫した。見苦しい、武士にあるまじき。いや、こやつ武士ではない。

 他に二人の影は確認できた。欣芽臺に向かい叫ぶ、「もう二人!」欣芽臺が応える、「いや三人!」

 だが、もう誰も向かっては来なかった。

 武士ではない。やられた二人のざまを見て、既に戦意が喪失したようだ。 

 欣芽臺が言った三人めが春日屋から出てきた。続けてさらに一人出てきた。

 これは武士である。予想の通り、前が長沼、後ろが峰下だった。既に刀を抜いている。

「姑息な。銭で釣ったか、あの者どもを」

 舟吾郎が言っても答えない。

「上意である」と舟吾郎は剣先を長沼に向けつつ、右手を懐に入れて目付から預かった書き付けを出した。

「読み上げるか」と尋ねると、峰下が捨て置け、とつぶやいた。

 その瞬間、長沼が舟吾郎に斬り掛けてきた。持っていた書き付けを捨て、辛うじていなすと、半身になった長沼は次の剣を繰り出すか一瞬躊躇した後、半歩退いた。互いに青眼の構えで剣先が触れる間合いになった。

 かちり、かちりと切っ先が触れては互いの体勢の崩れを誘う。

 長沼の剣、構えからは、その普段の言動に似合わぬ、相手を包み込むような大きな気が放たれている。不思議と剣に邪心は感じられない。ひたすらに真っ直ぐこちらに向かってくるだけである。

 いつか、長沼と対することがあれば、その思うところが判るかもしれない、と思ったことがあるが、いまの長沼から感じられるのは、信じられないが、純粋さだけである。

 ――こやつ、悪人ではないかもしれぬ。

 そしてなによりも、

 ――強い。

 この時、舟吾郎の視界の端に欣芽臺が峰下に向かい駆け寄っていくのが見えた。ここは沢尻殿任せる、と心で唱える。

 しかしその一瞬の心の隙を長沼が見逃す筈はない。すっと剣を突き出し舟吾郎の首を狙って一挙に前に出た。

 虚を突かれたが紙一重で体を開いてかわす。長沼の剣は素早く返って舟吾郎の胴に向かった。背筋が冷える思いをしている暇もなく、舟吾郎も剣を返しがっつりと受けたが長沼はそのまま押してくる。

「く」

 力の勝負では、あまり自信はない。舟吾郎は右足で長沼の腹を蹴る。が、長沼は一瞬腹を引きながら後ろに下がった。勢い余った舟吾郎は、だがその勢いを活かして真っ直ぐに面に向かって剣を繰り出す。長沼が受ける。

 鍔迫り合いになった。力の加減を間違えると相手の刀が自分の手に流れてくることもある。押し合いと言うよりも、呼吸の計り合いと言えた。

 ――次の引き際で決着する。

 結局は、一か八かである。技巧の問題ではない。日頃の鍛錬がどう体に染みこんでいるかの差だろう。

 長沼の剣からの力が変化したように思えた。その瞬間、舟吾郎の体が自然に反応し、長沼の右胴を払いつつ飛び下がった。捉えた感触はあった。長沼の剣は舟吾郎には見えなかった。

 長沼は腹を押さえて、ゆっくりと膝を付いたが、左手はまだ剣を握り舟吾郎に切っ先を向けている。

 夥しい血が長沼の足元に落ち、土に吸い込まれていく。

 舟吾郎はなおも青眼に構え、近づく。

「なぜだ」

 舟吾郎は問うた。

「なぜ、峰下などに荷担する」

 長沼が顔を上げる。眉間に皺を寄せ歯を食いしばっている。

「……強い者が権力を持つ、そういう世に……ん……」

 そこまで言って、倒れ込んだ。

 その瞬間、後ろに凄まじい殺気を感じた。

 あらん限りの力で前に飛び、振り返ると、峰下の剣が空を切ったところだった。

 ――沢尻殿は

 と思えど、周囲を見回す余裕などない。

 構えて峰下と対峙する。

 峰下は八双に構え両の腕の間から射抜くような眼で舟吾郎を見ている。どこからでも打ち込めそうな構えであるが、それは作られた隙に違いなく、恐ろしくて踏み出すことはできない。

 舟吾郎が動けずにいると、一瞬だが峰下に微妙な揺れが生じたのを感じた。左右の均衡が一瞬ずれたようだった。峰下の足元を見ると、血である。よく見ると左の腰から腿あたりにかけて、着流しの小袖が切れている。

 ――間違いない。手負いだ。

 峰下は勝負を焦るか、避けるか、いずれかだろう。時間を稼ぐべきかもしれない。舟吾郎は、口を開いた。

「い、今一度、お尋ねいたす。峰下殿は、父の死に隠された事実をご存知なのではないか」

 峰下は答えない。

「父が峰下殿と言い争っているところを見ている者がおります」

 だが、峰下は黙って舟吾郎を見るだけである。

 峰下の足からは血が流れ続けている。

 時間が経てば経つほど舟吾郎が有利になることは自明である。峰下は、動いた。

 舟吾郎には、急に峰下が巨大化したように見えた。

 上段から繰り出された剣を受けようとしたとき、その剣は、一瞬右にそれ、次に左から火を噴くように迫ってきた。

 舟吾郎の剣は峰下の剣に併せて左右に振られ、最終的には毛一本の差で体に触れる前に受けることができた。

 このまま受けるだけでは勝ち目はない、と攻撃に転じようとした時、峰下が口を開いた。

「小竹は、儂の仲間じゃ。白状はしなかったがな、一人で罪を背負い、腹を切って殿に詫びたのじゃ」

「なんだと」

「同じ仲間じゃ。だからお主も同じじゃ」

「な、何を言う。父上がお前の仲間な訳がないではないか」

「どうだ、小竹の倅よ。儂と組んで、諸国を剣術修行に廻った後、小倉藩にゆかぬか」

「たわけ、長沼もそうやって口車に乗せたか」

「ふ、あやつは婿に入れさせてやったからの」

 と言った峰下は邪鬼の塊のような恐ろしい顔になっていた。

「そういうことか」

 ――だが、父がこいつの仲間な訳はない……。

 様々な考えが頭をよぎったが、舟吾郎は、動揺は戦いの不利になる、抑えよ、と自らを叱咤し、攻めに転じて勝敗を決するべきと決心した。

 怪我をしている左を狙うは常識。しかし、左右の振りを大きくした方が負担が増えるはず。

 きえええ、と気合いを発して、峰下の右胴を狙った。

 峰下の真っ直ぐな剣が上から降ってきた。

 ――よし

 と、すぐに体を入れ替えて左への攻撃に変える。

 峰下の剣は、まるで予測していたかのように、舟吾郎の剣に応じて追いついてきた。

「なに!」

 舟吾郎の左腕に激痛が走った。

 剣は舟吾郎の手を離れ、地に転がった。同時に右肩から地面に叩きつけられた。さらに峰下の容赦ない一振りが舟吾郎を襲う。

 脇差しを抜き、捨て身の一撃、峰下に投げつけた。間に合うか。峰下の剣は、空を切った。舟吾郎の脇差しは峰下の左腿に深々と突き刺さっている。

 そのまま、峰下は体勢を崩して倒れ込んだ。

 即座に落とした剣を拾い上げた舟吾郎は、見えている峰下の背に向かって憎しみと共にそれを突き刺した。

「ぐ」

 と峰下が呻いた。

 それが、この戦いの終焉の音であった。

 舟吾郎の左腕は、二の腕から肘にかけて深く切られ、袖を引きちぎって見ると、一部はえぐり取られているような状態になっていたが、血でよく分からない。痛みは肩のあたりが激しいが肘の付近はもう痛みというより痺れに近い感覚だった。

 どう手当てすべきかなどわからない。

 ――沢尻殿 

 今は、欣芽臺の安否の方が心配だ。血は流れるまま、だらりと手を下げた状態で欣芽臺を捜す。

 春日屋の前に倒れていた。

 駆け寄って抱き起こす。力なく首が傾いた。もはや息はなかった。

 首の付け根から斜めに三寸ほど切り下げられ、顔は血の気を失い、特徴だったその大きい顔も、今や普通にしぼんでいた。

「沢尻殿」

 涙が溢れてきた。

「沢尻殿……。斃しましたぞ。沢尻殿が、一太刀当ててくれていたおかげで、峰下を斃しましたぞ。二人で、二人の力でやり遂げましたぞ」

 取れそうになった首と胴を抱え、泣きながら、武士らしくもない、と思った。


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