六 出奔
手に入れた証文をどう処置すればよいか、花押が父の物とは違うとどう証明するか、舟吾郎は悩んでいた。益敏にあったので見てくれ、と目付に持ち込んだところですぐに対応してくれるとは思えない。それに倒した二人について何か詮議が始まっていれば、逆に立場が危うくなる。
夜になって、倒した二人は、自分たちで歩いて戻ったか、連れ去られたようだと欣芽臺が舟吾郎の役宅に伝えに来た。一つ、不安が拭われた。
欣芽臺が持ち込んだ情報はこれだけではなかった。
峰下が今日、登城しなかったというのである。
「どういうことですか。理由なく登城しなければ、相当な処分になるでしょうが」
「改易間違いないでしょう。ただ、峰下殿にはなにがしかの嫌疑がかかっていたたとの噂もあります」
「嫌疑がかかっていた……。父上に関することですか」
「いや、わかりませぬ。ただ、嫌疑がかかって出てこなくなったとするならば、出奔の可能性も」
「なんと」
これで峰下の行方が分からなくなってしまったら、父の死の真実への手がかりがなくなりかねない。
焦燥感に包まれ始めたが、いったい何をすれば良いのか見当も付かない。
「とにかく今は、例の証文をどうするべきか、考えましょう」
と欣芽臺が言ったとき、玄関の外で声がした。
反射的に舟吾郎も欣芽臺も刀に手を伸ばした。お互い、心が平静でないことがこの動きでわかってしまい、苦笑いをした。
出てみると、御側御用人の嶋田文左衛門である。舟吾郎は思わずその場に平伏しそうになった。
「嶋田様」
「ん。小竹。息災か」
「は。嶋田様もお達者なご様子。なによりです」
「弥治は、気の毒なことをしたの。それより、夜分に済まぬが、ちと同道願えるか。ん、誰かおるのか」
と嶋田が奥をのぞき込むと、欣芽臺は姿勢を正した。慌てて舟吾郎が紹介する。
「御納戸番の沢尻欣芽臺殿です。父のことでいろいろお世話になっております」
「おお、弥治兵衛のことでな。そうか、それはちょうど良かった。沢尻も一緒に来てくれ」
否も応もない。
二人はそのまま嶋田に付いて出た。
着いた先は、城代家老屋敷だった。
嶋田はかまわず入っていくが、二人にとっては城代家老屋敷の敷居は高すぎる。
「何をしている。さっさと来い」
と言われ、漸く門を入るが、舟吾郎の気後れは甚だしい。玄関で大刀を預けるのも忘れそのまま上がりそうになって欣芽臺に窘められた。
廊下をいくつか通って、小さな部屋に入ると、嶋田は
「ここで、しばし待たれよ」
と言って、その奥の大部屋に入った。
その部屋で小声で何か話をする声が聞こえてきたが、間もなくして、入れ、という声がかかった。
また欣芽臺と眼を見合わせたが、欣目臺がすぐに平伏の姿勢をとったので、舟吾郎も襖を開け、そこに控えた。
入れ、と再び声がかかったので、面を上げると、そこには嶋田以外に三名の男がいた。いずれも見かけたことのある重臣である。
現在、渭和藩には城代家老を含め家老は三名置かれている。すなわち、今、舟吾郎の目の前に座っている三名がそれである。床の間の前に座っているのがこの屋敷の主、城代家老の山口修理亮、その左右手前には塚田門座と花岡主膳がいる。
部屋の中は異様に暑く感じた。
舟吾郎と欣芽臺が座り着くのを見て、城代が声を掛けた。六十に近いが、その年齢を感じさせない隆々とした体躯を持ち、白髪まじりの濃い眉の下から除く眼光は獲物を狙う猛禽のように冷たく鋭い。
「そちが、小竹の嫡男か」
「は」
「父の死をどう考えおる」
舟吾郎は、ここに着いたときから、この手の質問がくるであろうことはある程度予測していた。が、面と向かって城代に尋ねられるとすぐには言葉は出てこなかった。
「は、その」
「なんだ、おぬし。言いたいことはないのか」
「いえ、言いたいこと……。言いたいことは、ありすぎまして……」
「まとまらぬか」
と城代が言うと、左右にいる家老二人からふっという笑いが漏れた。
「いえ、父は」
「なんだ」
考えずに口に任せることにした。
「はい、父は監督上の責任があったといって腹を召されたとのことですが、藩内では実際には父が横流しをしていたから腹を切ったのだという噂が多くあり、まことにもってこれは心外でございます。父は、日頃から武士のあり方を厳しく求める者にて、決して私欲のために罪を犯す男ではありませぬ。ご家老だって、お分かりではありますまいか。本当は他の誰かが横流しをしたに違いない、とそれがし思っております」
沈黙が流れた。
あまりにも率直に言いすぎた。と、また言ってから反省する。
だが、ややしばらくして、城代は静かに頷いた。
「そうであるやもしれぬの。じゃがの、小竹よ。弥治兵衛は、自らそのような誤解を受けることを承知で腹を切ったとは考えられぬか」
舟吾郎の肩がぴくりと動いた。そのことは、考えぬでもなかった。
「ですが、その理由は思いあたりませぬ」
「誰かのために罪をかぶった。あるいは、何か他ののっぴきならぬ理由により罪を犯していたと、考えればいくつか可能性はでてこよう。おぬしの考えは、無意識のうちにそれを避けてはいまいか。父はそのようなことするはずがない、等という根拠の薄い感覚だけで真実を探ろうとしてはならぬ。事実を冷静に見て判断せねばの」
「しかし」と舟吾郎はうつむいた。
「なんじゃ」
「判断すべき材料が少なすぎるので……」
と言いながら、昨晩手に入れた益敏の受け取り証について言うべきかどうか迷った。欣芽臺を見ると、促すように二つ三つ頷いている。やはり、この際言ってしまおうと思った。どう手に入れたかなど些末のことだ。
「ご城代。実は、それがしと沢尻殿は、昨晩ある米問屋から貯蔵米納入の際の支払いの受け取り証を手に入れまして、そこには父の花押があったのですが、それは父の筆跡ではないようなので、今、調べようとしているところでございます」
城代の眉が少し開いた。
「ほう、まだ残っておったか」
「残って……、はい、ありました」
「そうか。実はの、小竹。売り払われた先の問屋の証文は、弥治の詮議が始まってから、すべて蔵奉行方で回収したのだ。それが、残っておったのだな」
「そうでありましたか」
「それで、その内容について、当初蔵奉行で調査した結果、小竹弥治兵衛の花押に違いないという結果であったのだが、再度目付が調べ直した結果では、どうもこれは小竹のものではないだろうということになっての。それが今日のことじゃ」
「そ、それでは、やはり米を売ったのは父ではないと」
「目付が正しければ、その通りじゃな」
舟吾郎は、首を回してまた欣芽臺を見た。
口角が上がっている。
父は、少なくとも横流しについては無罪なのだ。そもそも父が怪しいと言っていた蔵奉行方の調べが正しいわけがないのだ。
「では、父の汚名は」
だが城代は、ゆっくりと首を振った。
「よいか、小竹。そなたの父上は、どんな理由があったにせよ、この件をしまいにするために考えに考え抜いて、自らの腹を切ったのじゃ。それは殿もよくご存知。いまさら何かを暴いたところで、弥治は喜ばぬじゃろうな」
城代の鋭い眼が心なしか潤んでいる。
「じゃが、子としての思いをむざに見捨てるほど、わが藩は廃れてはおらぬ」
はっ、と舟吾郎は目を上げる。
「峰下肝蔵が出奔したのだ。事の露見を悟ったに違いない。小竹」
「は」
「覚悟、どうじゃ」
二つ、三つ鼓動が激しくなった。全身、尻の穴まで鳥肌が立つような思いだった。
深く息を吸い、また吐いて、答える。
「は、存分に」
「では、命ずる。これは、殿よりのご命令ぞ。心して受けや」
「はい」
「そちと沢尻欣芽臺に、脱藩者峰下肝蔵及び長沼琢磨の討手を命ず」
「は」二人は同時に平伏した。
――長沼もか。
畳の目が自分と峰下をつなげるいくつもの線に見えた。
「船頭の仲間が二人を乗せたと白状した。紀州に渡ったとのこと。二人で足りぬと思えば、いつでも加勢は送る。詳しくは目付から話させる故、それを聞いたらすぐに発て」
「はっ」