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曼殊沙華  作者: 枯山水
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五 証書

 久しぶりに欣芽臺(きんめだい)が役宅に来た。もう夜の五つ半は過ぎている。

「小竹様。いや小竹殿、大きな証拠を見つけました」 

 玄関に入るなり欣芽臺がささやいた。

「なんと。して」

 部屋にいざないつつ、舟吾郎は先を促した。

「実は、片っ端から米問屋と札差を当たっていたのですが、川上町の益敏という米問屋が確かに御納戸番頭から米を買ったと言っているのです」

「御納戸番頭からですか」

「はい、それは益敏も変だと思ったということで、よくよく聞くと、実際にやりとりをしたのは蔵奉行方の長沼だいうことで、御納戸番頭は、要するに名前だけのようなのです。はい」

「すると、父は名前を勝手に使われていたと」

「という可能性は高いと思います。それに、何ですか、あの、何というか」

「沢尻殿。ゆっくりでよろしいですから」

 と言いつつ舟吾郎は一つ深呼吸した。欣芽臺も少し間を置く。

「そうです。証書です。受け取り証。これが益敏にありまして、見せてもらいましたが、受け取りの花押は、御納戸番頭の小竹様の花押ではありました。それがしには、小竹様の筆跡なのかどうかは判別できませんでしたが」

「そうですか。それで、その証文は」

「益敏が言うには、その蔵奉行方の長沼は、これに関しては、藩の大事ゆえ、なにかあれば必ず長沼に指示を仰ぐようにきつく言われているので、それがしには渡せないとのことでした。それがしも、蔵奉行方を装ってはいたのですが、だめだと」

「なるほど」

 だが、この証文は何かの証にはなるはずだ。手に入れることができれば、父の身の潔白を証明できるかもしれない。

 欣芽臺を見ると、嬉しそうに笑っている。

「小竹様、あ、いや小竹殿。今から盗みに入りますか。ある場所も分かっています。益敏も、ここに置いておきます、なんて、盗んでくれと言わんばかりのことも言っていましたし。明日になれば、益敏は蔵奉行方にそれがしが来たことを言うでしょうから、必ず長沼が証文を取りに来ます。まあ、そこで奴から奪うという手もありますが」

「長沼……。お、長沼といえば沢尻殿、あの鳥本の事ではないですか」

「そう、その通りです。だから、折り紙付きの怪しさなのです」

 舟吾郎は、腕を組んで目を閉じた。

 欣芽臺も黙って座り、舟吾郎の考えに任せることにした。

 ややあって、舟吾郎は決心が付いたように目を開けた。

「沢尻殿。今から行きますか。盗みに入るなど武士の風上にも置けませぬが」

「いや、お父上の潔白を晴らすためです。小竹様も喜びましょう」

「いやいや沢尻殿。父だったら必ず反対するでしょう。でもやります」

「ん、そうでした。そういう方でした」

「参りましょう。ただし、家人に気付かれたら、直ちに中止します。それと、絶対に顔は見られてはなりません。頭巾はありますか」

「わかっております」

 と欣芽臺はなおも嬉しそうに懐から頭巾を出して見せた。


 既に四ツになっていたが、益敏にはまだ明かりが灯っていた。

 中には人がいる様子である。ことによると長沼がもう来ているのかもしれなかった。

 今長沼が入っているのであれば万事休してしまう。長沼から力ずくで奪うのは、たとえ欣芽臺と二人でも頗る難しい。

 すぐに、店の正面の戸ががらがらと開いた。慌てて二人は隣家との境に隠れた。

 出てきたのは長沼ではなかった。が、おそらく蔵奉行方の武士二人である。そして、先に出てきた方は懐に確かに白いものを差し入れた。

 欣芽臺が、長沼ではありませんね、とささやいた。

 舟吾郎は頷き返すと、素手で獲りましょう、と言い陰から二人の後ろに出た。

「そこの二人」

 と、突然欣芽臺が大声で叫んだ。

 ――この粗忽者がっ。素手で後ろから黙って襲えという意味で言ったのに。

 二人が忽ち抜刀して振り返った。

 抜くとは予想していなかったのか、一瞬欣芽臺もひるんだ様子を見せたが、つられて剣を抜くことはなかった。

「その懐の物。譲り受けたいがいかがか」

 ――打って変わって、落ち着いた応答だ。刀を見ると人格が変わるのか。

 問答無用、と誰が言ったのか分からないが、先に歩いていた男が欣芽臺に斬りかかった。

 ばくっ。という音がした。

 攻撃をいなした欣芽臺が抜きざまに刀を返して峰で胴を打ち付けたのである。

 見事なまでの早業だった。椋木道場の師範代とは知っていたが、ただの剣術師範の域を超えている。

 打たれた男は痛みのせいか意識が遠のいているようだった。肋骨が折れたに違いまい。場合によっては、折れた骨が肺腑に刺さったかもしれぬ。舟吾郎の前まで進んで来て倒れた。

 二人目は青眼に構えて欣芽臺に対峙した。

 その構えた姿で勝敗を既に見て取った舟吾郎は、欣芽臺に対する応援の必要なしと判断し、目の前で倒れている武士の懐を探った。

 武士は微かな抵抗を見せたが、舟吾郎は容易に証文を引き抜くことができた。すぐに益敏の前に行き、漏れている灯りで中を確認した。確かに御用米代金として、と書かれており、末尾に父の花押がある。

 ――これは。

 おそらく、父の筆跡ではない。極めて似ているが、父の花押はもう少し柔らかい雰囲気があるのだ。

 父は横流しなどしていなかった、という明らかな証拠になる。なによりも、欣芽臺がこの証文を欣芽臺が嗅ぎつけたことを知るなり取り返しに来たということが、父の潔白の証になるというものだ。

 笑みがこぼれた。

 欣芽臺を見ると、もう二人目を倒し、こちらに歩いて来ている。二人目は頭から血を流して仰向けに倒れている。

「面を打ったのですか」

「あ、はい」

「面なんか打ったら、いくら峰打ちでも死んでしまうではないですか」

「はい。でも、大丈夫です。鞘で打ちましたから」

 と、左手に持っている鞘を見せた。しかも、自分のではなく相手のである。すぐにからりん、と放り投げた。

 こんなに愉快なことはない。くっくっく、と笑いが漏れる。

 父の無実が晴らせる期待と相俟って、愉快で仕方ない。腹を抱えて笑いたかった。

 しかし、欣芽臺の方は冷静だった。

「すぐにそれを安全なところに」

「はい、では、沢尻殿が」

「いえ、今日それがしが益敏にいったことはすぐに分かりましょうから、それがしが持っていては危険です。小竹様が持っておいた方がよいでしょう。今のところ蔵奉行方には小竹様が関わっているとは分かっていないはずですから」

 と言ってから、はっとして、倒れている男を確認した。が、すでに意識は失っており聞かれてはいないようだった。

「こいつら、やはり切腹して詫びるのでしょうか」

 欣芽臺が小さく言った。

「どうでしょうか。そもそも、切腹するほどの武士の一分があるなら、こんな不正には荷担しなかったでしょう。悪くすれば、長沼あたりに斬られるかもしれませんけど」

 舟吾郎も小さな声で返した。

 愉快な気分はとうになくなっていた。


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