四 武士
父の死から十日後に城からの使いが来た。
父の裃を着けて緊張の中初登城すると、元締役から小竹家跡目相続の許しと、家禄の減、出仕の命が伝えられた。
家禄は、百五十石だったのが五十石まで減らされた。役目は海戸郡代配下の郡手代ということである。
予測していたとはいえ、かなり厳しい処置であった。平伏して元締役の読み上げる声を聞きながら、腕の筋肉が震えそうになるのを必死にこらえた。役目が郡手代というのは有り難いことだ。だが、五十石まで減らされるというのは、いかなることか。殿は、泪を流されて父の切腹をお認めになったのではなかったのか。藩は、父に何の罪があったと言いたいのか。父が黙って死んでしまった今、何の抗弁もできぬ。
だが、父が言っていた言葉を思い出す。ご先祖の武勲のおかげでこの家禄を頂戴しているのだ、と。自分が食うに困らないのは過ぎし日にご先祖が命を賭して働いたからなのだ、と。五十石といえど、いただけるだけ有り難いと思え、と今なら言われよう。
なんとか自らを抑えつつ、郡代役所に向かうため城を下がった。
渭和城は、山吹川が分岐し二方向に分かれて東の海に注ぐ河口にできた州の一つに位置している。州は五万坪以上あり、山吹川と海に囲まれた天然の要害をなす。城下町は城の北、西、南に栄え、その外側に村落が続く。郡代役所は、北側城下町の外れにある。
年の暮れも迫りつつある寒空は澄んでどこまでも鮮やかに見通せる。北の彼方には九頭連峰が連なり、首を返して南西を見ると、こんもりとした鼻山がすぐそこにあるように見える。城は真南で、丘の頂に四層の天守を威風吹かせている。
郡代役所は千坪ほどの敷地の中に、郡代の役宅とともに建てられている。最近建て直したばかりで、新しい木と畳の匂いが心地よい。
役所の雰囲気は城とは違い、役人達が忙しそうに立ち働いていて活気があった。渭和藩の村落は六区に分割されており、ここの役所にはその六区の郡代すべてが勤務している。各区は現地に出先の役所を持ち、代官のもとで年貢の徴収などの一般行政とその区における司法一切を行っている。
舟吾郎の担当する海戸郡は、藩の南に位置しており、城下からは二十里ほどである。舟吾郎は、郡代役所で郡の行政全般についての知識を何年か掛けて得た上で、現地に派遣されることになるとのことだった。
四、五日勤めた頃から、舟吾郎はこの郡代役所での仕事は自分には向いていないような気がしてきた。
諸事、文書による手続きが必要で、少しでも間違えれば一からやり直しなのである。一つの手続きが片付くまでに何ヶ月もかかるものもあるという。
すべてが幕府に対する藩政の証拠とし、幕府に付け入る隙を与えないために行っているということは分かるが、こんな事をするために剣を修練してきたのではない、と思ってしまう。
住居は、役所の敷地内の長屋に移された。下女のとよには暇をやったが、舟吾郎の口利きによって、とよはそのまま、新しい納戸番頭の下女として雇われることになった。舟吾郎の敷地内長屋では三件掛け持ちの下男がいて、彼が炊事などもしてくれるため、生活に不自由はなかった。
だが、父の切腹は、いろいろなところに影響を及ぼしていて、思わぬ不利益を蒙ったりする。
年が明けたある日、役所で各郡の免割帳を確認していると、後ろから声を掛けられた。
「罪人の子め」
棘のある声に振り返ると、幼時に同じ道場で修行をしていた鳥本琢磨だった。鳥本は、馬廻組の軽輩の次男で、舟吾郎とは同い歳である。道場の同年代の中で二人はいつも一、二を争っていたが、鳥本は五、六年前に突然何も言わずに道場を変わって去っていった。
当時、何かと舟吾郎に敵対心を持っていたのが舟吾郎には気障り極まりなかったが、今の言い方も、なんとも直接的に嫌な言い方であることか。
「父上は罪人ではない」
言うと、すぐに机に向き直って、書類に目を戻した。こやつにはもう関わりたくない。
「罪人として裁かれる前に腹を切っただけであろう」
――無視にしかず。鳥のさえずりだこれは。
「罪もないのに切腹する阿呆がどこにおる」鳥本は続けて言う。舟吾郎は堪りかねた。
「黙れっ。軽輩が」
――また口に出してしまった。
しかも、身分の違いを罵るなど、武士にあるまじき。戒めなければならぬ、と反省したが、鳥本は意にも介していない様子である。
「ははは。言うようになったの。小竹。じゃがの、それがしもいつまでも軽輩ではないわ。こう見えても蔵奉行方積方役百石を頂戴しておる」
「何だと」思わずまた振り返る。
「ああ、紹介が遅れてすまぬな。先年長沼家に入っての。武士も実力次第で婿となり、だ」
それが言いたかったのか、この男は。つくづく卑しい奴め、婿が実力とは笑止千万、と心中で罵ってはまた反省する。
「それは、それは。失言いたした」
長沼琢磨を見ることなく、机に向かって言葉を吐いた。
「貴公やそれがしの兄上のように、家に縛られることがないからの。実力さえ持っていれば、必ずや跡取りのない家から目を付けられるというわけじゃ」
舟吾郎の疑問に答えるかのように、琢磨が舟吾郎の背中に向かって話す。自分でも説明が必要なくらいの例外だと分かっているのだ。
「残念なことじゃの。守るべき家を、その当主自らの失態で貶められたうえに嗣がねばならぬとは。同情いたす」
――失態ではない。
と口に出かけたが、もう、舟吾郎は一切口を開かぬと決めた。だが、琢磨はまだ話し続けようとする。
「せいぜい、五十石の大切な小竹家を守りたま」
「さっさと去ね」
口を開かぬと決めたそばから、声が出てしまう。
ふん、と一つ鼻で笑って、琢磨はようやく部屋を出て行った。
一体、武士とは何だ。
机の上に並べられた免割帳を眺めながら舟吾郎は考えた。
確かに自分も家格というものを大切にして生きてきた。だが、わかっている。武士の本質は家ではない。生まれた家が良くても、婿に行った家が高禄でも、卑しい心根であれば、真の武士とは言えぬ。ご主君の前に命を投げ出す覚悟さえあれば、禄など微々たれどそちらこそ立派な武士なのだ。いつ戦があっても、立派に戦えるという心構えを持つからこそ、ご主君から俸禄を頂戴できる。これは体に染みこんだ父の教えだ。
であるのに、こういった本物の武士の少なき事よ。皆、家格と権力で物事を処理していく。徳川を頂点とする力の均衡のもとで、ある時期定まった強弱をその物差しとして、強い家が弱い家を支配する。個々の力ではなく、ご先祖のご武勲をもって、その力とする。武士は、その力にすがる。
そんな風にしか、今の武士は生きていけない。寛延のこの今、強弱の均衡を打ち破る術、すなわち戦は、ないからである。父でさえ、家を守ると言って腹を切ったのだ、ご主君をお守りするという武士の矜持を傷つけてまで。
戦のない世で、戦に備えることほど難しいことはない。ありもしない戦の時のために、自らを鍛え律し、主君に忠義を尽くすことがどれほど難しいか。
父はそれをしろと言った。山鹿素行先生の言われることも同じだ。ただ、山鹿素行は、逃げ道を説かれた。今の世、家にすがるのは避けられぬ、だからそれを良しとするしかない。だが、その恩返しとして、立派な武人であれ、と。
鳥本は、長沼に婿に入ることで家格を手に入れた。だが、軽輩に生まれた彼こそが、武士の価値は家格では決まらないと信じていなければならないのではないか。単に百石取りを羨望でしか見ていなかった、自分を婿として拾ってもらうために剣を磨いていた、というのなら、それこそ救いようもない愚か者である。
いつかまた立ち会うときがあるだろうか。剣でも木刀でも持って向かい合えば、きっと奴の思うところは見えてくるに違いない。
ふと、背後に気配を感じた。
振り向くと欣芽臺が座っている。
その粗忽者との印象とは異なり、隙なくたたずむ姿はさすが椋木道場の免許取りと思わせる。
「小竹様」
「いや、沢尻殿。拙者は沢尻殿の上役でも何でもないので、その改まった呼び方は止めにしていただけませぬか」
「あいやしかし」
「いやよいのです」
「分かりました小竹、殿。少々憚ることで」
「憚る……。あ、では、そこの庭におりましょうぞ」
と、舟吾郎の案内で、二人は郡代役所内の中庭に出た。南国渭和といえども、睦月の空気は肌を突き刺すように冷たい。周囲に人影は見あたらないことを確認すると、欣芽臺が舟吾郎に顔を近づけた。吐く白い息が舟吾郎にかかるのも気にしない。
「お父上は、蔵奉行方の峰下肝蔵殿に詰め寄ることしばしばであったようです。言い合い、いや、言い合いとは言えないではないのですが、いや、はて。とにかく、お父上は峰下殿に対して鋭く叱責するような口調で何か言っていた、と複数の同僚が言っております」
「峰下殿、ですか。藩内随一の遣い手」
「左様。貯蔵米の管理者でもあります」
「貯蔵米。父が、横流しをしたと疑われた貯蔵米の管理者……。父は、その管理者を叱責していたと」
「はい。まだまだ調べなければなりませんが、峰下殿がなにやら関わっていることは間違いないでしょう。それと、先ほど小竹様と話されていた長沼。あやつには十分お気をつけ下さい。あやつは、峰下殿の子飼いですぞ」
「何と」すると彼は、今日、何か意図があってここに来たのか。
「いずれにしても、今少し調べますので、小竹様は今のお役目をしっかりとお勤めください。では」
と言って欣芽臺はひらりと庭を出て行った。
それからふた月が経過した。
季節は冬から春に移りつつある。敷地内の役宅から役所へのほんの短い行程でも、この季節の変化はすぐにとらえることはできる。草木と同じように、舟吾郎も春を待ち望んでいたのかもしれない。
そんな良い季節になりつつあるというのに、父の死についての新たなる情報は何も得られない。そして、そのせいかどうかはわからないが舟吾郎は郡手代の仕事に何一つやりがいというものを感じることができないでいた。定められたことを定められたとおりに行うことが舟吾郎に与えられた最も重要な役目である。何でもかんでもいちいち書類に残し、あるいは上げられた申請書などを確認し、不備がないか確認する。不備があれば、申請者に突き返してやり直しを指示する。規定通りであれば、月に一度城へ持参し、勘定奉行に提出する。
いったい、これを武士がやる必要があるのか、農民や町人にやらせれば良いではないか。数を扱うのが農民では難しいというのなら、農家の子を集めて、何でも教えてやれば良いではないか。一体、武士にはもっと他にやるべき事があるのではないか。戦に備えない武士など武士でない。誰もがそう思っていると思うのに、誰一人こんな事を口に出す人はいない。
舟吾郎の不満は増すばかりである。
勢い間違いが増える。
郡代に叱られる。賢しらに郡代は言う。
「小竹、このようなつまらない間違いを見逃しているようでは、いつまで経っても群手代から進歩しないぞよ」
それは困る。こんな仕事はさっさと卒業し、海戸の現地にでも行かせてもらわねば命が保たぬ。
「少し、出てくるがよい」
と、あきれたように郡代は、城への使いを舟吾郎に命じた。しかし今回はいつもの勘定奉行への書類提出ではなく、蔵奉行方と年貢米保管量や売却量についての調整をしてこいとの指示であった。
――峰下殿と会えるやもしれぬ。
これは稀なる機会、と思い、舟吾郎は郡代が説明する調整内容などよくよく聞きもせず城に急いだ。
蔵奉行の詰所は、二の丸の東端にある。
入ると、二十人ほどが執務していた。最も奥に蔵奉行の席が見えたが、蔵奉行は席にはいなかった。その横の席に、見るからに高級な絹が編み込まれたとわかる裃を着けた侍が静かに座っていた。腰に差した脇差の鞘の造りは見事で、舟吾郎が見たこともないような複雑な彫刻が施してありなおかつ妖しげな輝きを放っていた。これだけの物を身につけている者は、城下にもそうはいまい。
その男を横目に見つつ、舟吾郎は、用件先の下役に声を掛け、郡代から命ぜられた調整を始めた。郡代の説明をあまり熱心に聞いていなかったわりには、舟吾郎は自らの権限の範囲と郡代に再確認すべき事項などを的確に判断し、一刻ほどで一定の結果を残すことができた。こういった、ある責任を持たされ、自らの裁量で処理するという仕事に関しては、郡代役所でやる事とは違って、それなりのやりがいを感じることができる。調整相手の駿河新右ヱ門も、舟吾郎の仕事ぶりには非常に満足した様子である。
「本日の様に、いつも順調に調整が付けばよいのですがの。小竹殿は、よく海戸郡の事を掌握しておられ、適度に数量を確定していただけましたので助かりました」
「は。痛み入ります」
「では、お引き取りの前に、蔵奉行蔵方頭の峰下肝蔵殿にご挨拶いただけますかの」
と駿河が言ってちらりと見た先は、先ほど見た高級裃侍であった。
「は」
と舟吾郎もその侍、峰下肝蔵を見た。峰下は表情をちらりとも変えずに黙って座っている。視線は正面よりやや下で、その座り姿には一分の隙も感じられない。全身の神経が何かに警戒しているかのようなとげとげしさが舟吾郎に伝わってくる。
駿河に連れられ、峰下の前に座らされた。
「海戸郡代手代の小竹舟吾郎にございます」
と手をつき軽く礼をとると、峰下は、一瞬だけ片眉を少し動かして、舟吾郎を見た。
「ん」
「本日は、海戸郡年貢米保管量などについて、駿河殿といろいろ整えさせていただきました」
「ん」
峰下は、もう舟吾郎を見てはいなかった。視線は元に戻し、少し肯くだけである。
峰下の態度は、意図的に舟吾郎を避けているようにも思われた。あるいは毛ほどにも思っていないのかもしれない。だが、舟吾郎は、この数少ない機会を逃したくはなかった。
自分の立場で、この男に職務と関係のないことを訊くのは無礼かもしれないとは思ったが、もはや舟吾郎の行動を止める何物もありはしなかった。
「峰下殿。もしや峰下殿は我が父小竹弥治兵衛の死に至った理由をなにかご存知ではないでしょうか」
手を付きながらも視線は峰下に向かったまま尋ねた。
駿河が慌てて手を舟吾郎の肩に掛けたが、舟吾郎は動かなかった。
峰下は動かない。目さえも動かしはしなかった。だが、その神経は確実に舟吾郎に向かって歯を剥いていることが舟吾郎にはよくわかった。
――やはり、何か知っている。
舟吾郎は確信した。
峰下は動かない。
舟吾郎と峰下の間は、まさに剣を持って立ち会っているかのような間になっている。互いの気が衝き合っているこの瞬間を正確に見抜いた者はこの部屋にはいなかったであろう。
舟吾郎に隙を与えぬように、細心の注意を払っているかのように、峰下がゆっくりと舟吾郎に向いた。そして、
「貴殿に話すべき事など何もない」
と言い捨てた。
「は」
十分だった。既に舟吾郎は、この男がかなりの確度で父の死に関わりを持っていたと看破していた。結論を焦ることはない。この男の腕は相当なものだ、迂闊に手を出せばこちらが傷を負う。
座を下がると、駿河がたしなめた。
「小竹殿、この場合、あのようなことをお尋ねになっては無礼というものですぞ。よく峰下殿が怒り出さなかったものだ」
「よくお怒りになるのですか、峰下殿は」
「はい。時には刀を抜かんばかりの勢いで」
「ほう」
――その男に強い調子で叱責していたのだ、父は。
「大変な失礼を致しました。駿河殿からももしまた機会があれば小竹が謝っていたと御伝え下さい」
「承知しました」
と言うと駿河は少し笑った。
帰り際にもう一度部屋の中を見回すと、今は何と言ったか、旧姓鳥本がじっと見ているのに気付いたが、無視して部屋を出た。