二 嫌疑
舟吾郎の母は、二年前に病気で他界した。突然痩せ始めてから一月もしないうちに眠るように死んだのだった。禄百五十石の小竹家はそれ以来、弥治兵衛と舟吾郎に下女一人という寂しい暮らしを続けている。
父は、毎朝冷水を浴びる。体にいいと言うのだが、舟吾郎はこれに倣うつもりはない。自分がやれば、これ見よがしに精神を鍛えているという様になるに違いなく、気に入らないのである。
この南国、渭和の邦も秋が深まり、息も白くなるほどに朝は寒くなってきたが、弥治兵衛は一向に気にせずに水をかぶっていた。三杯ほどで止めると、湯気の出る体を布で拭い、体をあちこち平手で叩く。舟吾郎は厠の帰りの廊下を歩きながら、よくやるものだなどと思いつつ横目に父を見ると、父はじっとこちらを見ていた。
と、門の方で人の訪いの声が聞こえた。少しして、たたたと走る音がして下女のとよが来た。とよはもう二十を超えたと以前父が言っていた。
「旦那様、お城からお召しとのことですが」
父はちらりととよを見やっただけだったので、舟吾郎がお召しとはどういう事かと訊いた。
「お目付さまの所まで来るようにということで、いまお使いの方がこられてますけんど」
弥治兵衛はゆっくりととよの方を向いて肯いた。
「ああ、わかった。すぐに行くと伝えてくれ」
「はい」
たたた、ととよは走っていった。弥治兵衛はゆっくりと足を拭いて縁に上がり、部屋に戻った。
「舟吾、こちらへ」
着替えながら舟吾郎を部屋に呼ぶ。顔色が青いのは、冷水のせいであろうか。
「例の不正の件かもしれぬ」
「ああ、蔵奉行方の件、御目付殿に報告なされていたのですね」
「いや、実はまだなにも言っていない」
「すると……」
「儂の調べの済まぬうちに何か情報を得られたのかもしれない」
「では、話は早いではないですか」
舟吾郎は、ほっと表情をゆるめた。
「違う。もし目付方でこれに気付いたのであれば、放置していた儂の責任も問われるかもしれぬ。前々から気になってはいたのだが」
「え」
と言ったまま、舟吾郎は父を凝視した。弥治兵衛は硬い表情を崩さずに着替えを続けている。
「心配ないとは思うが、万一ということもある。向後のこと頼んでおくぞ」
何をそんな大袈裟な、とは思ったが、一応頭を垂れてご心配なく、とだけ答えておいた。
裃を着けて登城する父の後ろ姿には、何故か不思議な威厳がある。
本来であれば供一人を率いていくべきところではあるが、弥治兵衛はもう何年も前から一人で登城している。この小さな藩では役持ちであっても奉公人を切りつめている者が多いし、特にそれを咎められたりする事もないので、一人での登城は珍しいことではない。
弥治兵衛の威厳というものは、武士であることの誇りに根ざしているのであろう。決してしゃちこ張らず威張らず、かといって卑下しすぎることもない、自然な姿、その自然な姿にきちんと根を張った武家の誇りというものが流れている、そういった佇まいを弥治兵衛はなすのである。
一町先の角を左に折れる際、父はその首を少しだけこちらに回した。目が合ったように思えたので、舟吾郎が手を挙げようとすると、父も少しだけ左手を動かした。すぐに見えなくなってしまったので、その左手は舟吾郎の振る舞いを制止させようとしたのか、応えて手を挙げようとしていたのか、区別が付かなかった。
父を見送った後、舟吾郎はいつものように朝から道場で汗を流し、昼からは藩学問所九變館に行き、佐藤先生と兵法について論じ合ったりした。七ツ頃に学問所を出て屋敷に戻った時、父はまだ下城していなかった。普段であれば、もう庭で素振りをしている頃である。
道場でも学問所でも、何故父が目付に呼ばれたのか、何を訊かれているかということについての情報は全くなかった。父の言っていたように蔵奉行の件なのだろうか。
考えてみると、そもそも御納戸番頭という職がどのようなものなのか、実は舟吾郎はよく知らない。御側向きの貯蔵品を管理していると聞いてはいるが、それが蔵奉行とどう違うのか、どちらが上でどちらが下なのか。
禄を見る限り、御納戸番頭はそう高くはない。小竹家は家格で百五十石の禄を頂戴しているが、役による加料はない。一方蔵奉行は二百石の役料である。家格が合わなければその分が足高として扶持される。
そうすると蔵奉行の方が職制としては明らかに上である筈だが、父は、蔵奉行の不始末だか不正の責任を取らされるかもしれないと言う。であれば、御納戸番頭はより重要な地位にあるということではないのか。
もう少し、藩についてよく学ぶ必要がある。このような知識の少なさをもって、もう十分学問はやったとか、早く出仕させてくれと頼んでいた自分が少々恥ずべきものに思えてきた。父が隠退を考えてまで自分の出仕について計らってくれようというのに、あまりにも不勉強である。とにかく、父が戻った後、詳しく尋ねてみるにしかずだ。
だが、日が暮れ、とよが二人分の食事の準備を終えても、まだ弥治兵衛の帰ってくる気配はなかった。
コロコロと長寿な蟋蟀が一、二匹鳴いているのをぼんやりと聞きながら、父の帰りを待つ。やむを得ず、食事は一人で摂る。とよは下がり休む。
四ツが過ぎてややすると、蟋蟀の声がはたと止んだ。同時に走る足音が聞こえてきた。門前で止まったようだ。
舟吾郎は腰を上げ、玄関に向かった。すると、外から「小竹様」という声が聞こえた。
出て見ると、中肉中背でえらが張って顔が大きく、さらに眼が輪を掛けて大きい男が立っていた。確か、父の部下である沢尻欣芽臺といった筈である。ずいぶん前に一度会ったことがあるが、舟吾郎は、この男を粗忽な男として記憶している。
「いかがされましたか」
舟吾郎は提灯をかざした。
欣芽臺の息は上がっている。その息を飲み込むようにして、一つ肯いてから口を開いた。
「番がし、いや、小竹、いや、父上殿は、今日はどうやら、こちらにはお戻りにはなれないようです」
舟吾郎の胸が一つ、どくん、と鳴った。
「何かありましたか」
「はい。あ、いえ。少々お役目のことで、お目付殿と長いこと話されていまして、結局のところ、どうも、お取り調べ、ということのようでして、それで、何と言いますか、小竹様が言われるには、どうも、ま、き、今日は帰れないと伝えてくれとの事でした」
こいつは本当に武家か、と思うくらい落ち着きのない話し方である。
「今日は、ということですね」
「あ、いや、今日は、ですが、それがしの感触では、今日から当分は、だと思います」
「当分、感触……」
「あ、感触というのは、父上殿には、なにがしかの嫌疑が掛けられているようです。であれば、すぐに放免ということにはなるまい、と、これが感触です。そのような気がすると、こういう訳です」
この男、たしか椋木道場の師範代だったと思うが、何とも頼りない。
しかし、目付に嫌疑を掛けられたとは。父が予想した以上の目付の反応ではないか。
「沢尻殿は、父上に会われたのですか」
「はい。それで、今日は帰れない、と」
「他に何か言づてはございましたか」
欣芽臺は、は、と目を瞠って、
「あ、忘れていました。そう、ええと。あ、父を、父を疑うな。と」
「父を疑うな……」
「はい」
と言って欣芽臺は、その名のように大きい目玉を舟吾郎に向けてじっと見つめた。
「それより、舟吾郎殿は、父上殿によくお似になられましたな。以前は細い子でしたが、いまはもう六尺もございますか。いい目をしてござる」
「ああ、似ているとはよく言われまする。そんなに似ておりますか」
「はい、美男が小竹様の若い頃の生き写しのようで。いや、失礼つかまつった。では、それがし、これよりまた城に戻りますゆえ」
舟吾郎は頭を下げ、かたじけのうございました、と言うと、欣芽臺も神妙な顔で頷き、踵を返してまた城の方に走り戻っていった。しゃべりとは違って身のこなしには寸分の隙もない。
――父に嫌疑が掛けられた。
そして、事実、父には責任がある、と父は言っていた。
責任逃れの言い訳などする男ではない。
――父を疑うな。
父を信じることには自信がある。
が、信じるだけで救うことができるだろうか。