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曼殊沙華  作者: 枯山水
1/10

一 士道

 ――しの、という子に会った時のことは、鮮明に思い出せる。

 七年前。半里離れた道場からの帰り、いつもの三人。同い歳、元服前のいたずら盛りの子供達。友人二人は、黙って歩くことなどはできず駆け回っているが、舟吾郎は多少家格を気にし、努めて静かに歩く。

 苗の植え付けられるのを静かに待っている田々の水面に映る陽光がいくつもの欠片になってそこここに跳ね飛んでいる。卯月の暖い風は所々ひんやりとした塊を混ぜて、火照った頬を少しだけ癒す。

 静かに歩いていても、汗は退かない。まだ全身の筋肉には沸騰した血が溜め込まれているようで、頭から顔にかけては燃え盛っているかのような熱さである。田に張られた水が実に心地よさそうに見える。飛び込みたいが、飛び込んだら自分の熱さで田圃は蒸発してしまうかもしれない。

 数馬と源太は、先に進む。大きな声で話し、時折振り返っては舟吾郎早く来い、などと叫ぶ。

 あいつらまじめに稽古していなかったに違いない。でなければあんなに元気なわけがない。足下を見ながら歩む。自分の足の動きに目を合わせていると下の小石や草が流れるように通り過ぎていくのがおもしろく、目が離せない。

 人にぶつかった。

「これは失敬」

 大人を真似た謝り方をしてみた。ぶつかった相手を見ると、何のことはない、先に歩いていた数馬である。数馬と源太は立ち止まって横を見ていた。向いている方に目をやると村の農家の子供達であろう、自分たちより一つ二つは上に見える三人ほどが、騒いでいる。そしてその奥に彼らより小さい子が田圃に落ちて泥まみれになって座っているのが見えた。

 騒いでいる子供達は、落ちた子を助けようとしているのか。いや、よく見るとそうではない。一人は、足で泥を小さな子に掛けている。

 放っておこうという思いと、助けようという思いが交錯する。左手首を掴まれた。ひんやりとした掌。顔を見ると源太。

「やめておけ」

「なぜ」 

「関係のないことだろ」 

 なんで急に大人びるのか。さっきまであいつらと同じように騒いでいたくせに。

 しかし、実際の所は源太の言う通りだ。我々には関係ない。彼ら農民が自分たちでけりを付ければよろしい。そのうち親が出てくるのだろう。

 その心の変化がどう源太に伝わったのか、源太は手を離し、少し首をかしげて笑った。

 つられて舟吾郎も口元だけ笑った。

 田圃を見た。

 全身泥だらけになり、顔も泥でまみれた子供は、眼だけが白く光っていて、その光りは真っ直ぐに泥を掛けている子供に向かっていた。

 泣いているのではない、敵意をむき出しにしているのでもない。真っ白な白目の中の瞳は静かに、その理不尽な行動を取っている子供を見つめているのである。

 見たことのある目だ。

 あの時だ。道場破りが来て、師範がお相手つかまつる、と木刀を構えたとき、師範の目がああいう目をしていた。そこに見える物を見るのではなく、そこにある物や動き、これから起こることを見るような、すべてに焦点を合わせているかのような目。

 最初は尻から、そして足へ、腹へ、そして肩に震えが来た時、もう田圃に向かって駆け出していた。後ろで数馬か源太が何か言っているのは聞こえた。

 何故、自分を戦慄が襲ったのかはわからない。師範が一撃で道場破りの首の骨を砕いた、あの場面を思い出し、あの子が同じようにからかっている三人を一撃でしとめてしまうと思ったからかもしれない。しかし、あの子にそのような力があるわけのないことは考えるまでもなく判る。では、なぜ恐怖に近い感覚が自分を襲ったのか。無意識のうちに、悪童三人を次々に田圃に放り込んだこの我が行動は、この三人を救わんが為なのか、この子を救わんが為なのか。

 泥にまみれた子の顔の奥から光る瞳は、今こちらを真っ直ぐに見ている。

 さしのべた手に、泥人形のような子は素直に応えた。顔の泥に少しひびが入った。表情が緩んだのであろうが、その表情がどのようなものか判らなかった。そして、もう、尋常な七、八歳の小さな子の目になっていた。

 初めて、農民という人種に触れた。いや、正確には先ほど投げ飛ばした奴ら、田圃からとぼとぼはい上がってきている奴らが初めて触れた農民ではある。

 汚い、とは思わなかった。大切な稲を作る人たちである大切にしなさいと父は言うが、他の武士は皆農民を莫迦にしている。だから自分も農民を莫迦にしているかもしれないと思っていたけれど、その時、汚いとは思わなかった。

「ありがとうございます」

 その子はきちんと礼を言うことができた。そして、小さく頭を下げた。

 改めて礼を言われると、どう応えればよいか判らなかった。

「名は」

「しのと申します」

 よく見ると、女の子である。

 よくわからないが、この子を美しい、と思った。顔は判別できぬ、だが、農民なのに野卑てはいない挙措とか、素直な心根とか、あの目が、そう思わせたのに違いない。十一歳の自分にはそこまでは判らなかった。

 しのは、もう一度頭を下げて、きびすを返すと走り去っていった。

 しのをからかっていた、おそらくしのを突き落とした三人は、田からはい上がると黙ってしのとは反対方向に歩いていった。

 農民は、武士に反抗などできはしない。だから無闇に農民や町民に暴力を働いてはいけないと父はいつも言っている。この身分に生まれついたからといってお前が偉いわけではない、ご先祖が武勲をお挙げになった功績をたまたまお前が受け継ぐだけなのだ、だからお前はこの身分に生まれついた責任を持たなくてはいけない。そう、当時も今も父は言う。

 このこと、父はなんと言われるかと悩んだ。

 黙っておくべきか。いや、怪我をしていないとはいえ、武士の子に投げ飛ばされたとなれば、村役人に届け出ないとも限らない、そうなったとき隠し立てをすればなお悪い。大儀とは言えないが自分にはいじめられている子を助けたという理由はあるのであるから、正々堂々と父に言うべきだ。

 十一歳のよく回る小さい頭は、こうして父から一つ拳固をもらうだけでこの件にけりを付けた。 


 ――関係ないことまで思い出した。

 だがこうやって七年前のことを頭に描き直してみると、やはり先ほど見かけたのは、あの時の、しのに違いあるまいと、舟吾郎は確信した。

 当時、七、八歳に見えたから、今は十五くらいで年齢も合うし、はっとした表情を見せたのは、彼女もこちらを憶えていたからに違いない。

 だが、もしその娘がしのであるならば、しのは農民ではない。今日見た娘は、何かの細工物を工芸店に卸すために使いをしていたのである。しのらしきその娘がその店の主人と話している横を舟吾郎が通りかかり、その時主人はその娘に対して「……こんな雑な仕事をされたんじゃ」とか、「もう正吉さんとこには頼めんな……」などと言っていたのである。正吉というのは娘に使いをさせた者だろう。娘の父親かもしれない。

 その主人の冷たい言葉を聞いている時の彼女の目が、あの時の目と同じだった。舟吾郎がその目に吸い込まれるように歩いていくと、その視線に気付いたのか、ふと彼女がこちらに目を向け、その瞬間、少しだけ表情が明るくなったように見えた。単純に笑顔になった、というのではなく、何かが、変化したのである。美人と言うほどではないが、歳に合ったかわいらしい表情を持った娘で、いかにも気が利いてよく働くような子に見えた。

 やはり、あの時のしのに違いない。

 そして、この時もこの娘を美しい、と思った。

 

「聞いておるのか」

 目の前の父、小竹弥治兵衛が大きな声を出した。むろん舟吾郎は何も聞いていやしない。七年前と、つい先程の記憶の中を散歩していたのである。

 その現の抜けた舟吾郎に対して弥治兵衛は先ほどから、学問の心構えを説いている。

 油蝉が喧しい。舟吾郎も弥治兵衛も首や肩や胸や背を汗に濡らしている。

 弥治兵衛は、十八歳になっても出仕の認められていない舟吾郎に、その分、学問と剣に励めばよいと説いている。

 しかし舟吾郎は何も学者や師範になりたい訳ではない。父と同じように藩の役職に就いて早く藩政に参画したいと思っている。父の話も、今通っている学問所の佐藤先生の話も、もういい加減聞き飽きたようなことばかりで、そのうえ道場では今や師範は舟吾郎にまずかなわない。いつまでもこんな無意味なことを続けていてどうなるというのだ。

 父は、きっとそんな舟吾郎の心を読んで、今更ながらに学問の重要性を説くのであろう。そしていつもの話。

「よいか、舟吾。当家の百五十石もの禄というのは、単に儂が納戸番頭を務めている事への対価ではないのだぞ、わかっておるか。舟吾よ。大切な碌を頂戴している代わりに、お主も含めた小竹家すべてを殿に差し出しておるということなのだ。今、役に就けないからといって、藩の為になっていないなどと思わぬことぞ。お主が常に精進し、自らの知識を高め、剣技を磨いておくことこそ、いざという時、その力を発揮するために必要なことなのだ。わかっておるか」

「は、重々承知しておりまする」

 と、いつもどおりに返す。

 気の抜けたような返答に弥治兵衛は顔をしかめる。

「お主はそうやって、いつも承知しておりますると言うが、本当に分かっておるのか。佐藤先生も最近は舟吾郎の学問に身が入っておらぬと言われておったわ」

「は」

「は、ではない。よいか、出仕して役に付けば、日々の仕事に追われてしまって、自分を見つめたり、藩の将来を考えたりする時間もなくなるのだ。今のうちだけなのだ。早く出仕して、何がなにやら分からぬまま下手な思想にかぶれて自分を見失った輩の多いことよ。藩に奉公する前にきちんとした考えを持つことこそ重要なのだ。今が良い機会と思え舟吾よ。十八という分別の付く歳になって、いろいろと考えることができることを幸せと思うのだ」

「はい」

 と返事はしたものの、納得などしている訳もない。舟吾郎の顔には明らかな不満の色が見て取れたのだろう、弥治兵衛もさすがにそれは見逃さない。

「なんじゃ。言いたいことがあれば、かまわぬから言え」

 やや間があったが、舟吾郎は意を決したように口を開いた。

「はい。父上。それではひとつだけ思うところを」

「む」

 下らぬ自己主張に違いないとは思いつつも、舟吾郎がきちんとした反応の見せたのは久しぶりのことで、弥治兵衛の顔は自然とほころんだ。よいぞ、と言って肯くと、舟吾郎はぐびり、と喉を鳴らしてから口を開いた。

「父上、実は私は、学問についてはもうこれ以上必要ないと思っております。四書五経を学び、朱子学などにも触れさせていただきましたが、結局私が頼るべき思想というのは、近年山鹿素行先生の言われた士道しかなく、それは、既に父上からも毎日のように聞かされていますから、或る程度身に付いていて、すべての私の行動の規範となっているのです。それ故、これからも佐藤先生にいくら論語や大学のお話を伺ったところで、自分に成長はないであろうと思うのです。そして、その士道を体現するには、やはりきちんとした役に就いて、殿への忠義、士としての意気を得るしかないのです。父上は、殿の覚え目出度く、ことある事にその役を超えたご下問などで、ご信頼を得ているから何も感じないのだと思いますが、殿にまみえたこともない身で、この士道を貫こうというのは容易ではありません。……ゆえに父上、一日も早い出仕がかないますよう、お取り計らいお願いいたします。多少なりとも藩政というものに触れる機会をあたえてはいただけぬものでしょうか。役がなくとも城内に父上のお供をさせていただくとか。是非にも。是非にも」

 聞きながら弥治兵衛の顔は多少こわばりもしたが、腹が立ったというわけではなかった。

 考えてみれば、舟吾郎がそういう気持ちになるのは尤もであるし、何よりも自分の教えた士道を頼るべき唯一の学問と言うのは、多少の世辞もあろうが、確たる考えを持っているということだ。

 一気に話し終えた舟吾郎はもう黙って澄んだ瞳を真っ直ぐに父に向け、父の答えを待っている。

「む」

 たった一度の要望に簡単に応えることは良くない、と思いつつも、弥治兵衛はもう否とは言えなくなっていた。

「ふむ。そちの言いたいことはよく分かった。そこまで強き思いあるのであれば、出仕のこと、上奏するだけはしてみよう」

 舟吾郎の顔がほのかに赤らんだ。

「じゃが、役なしでの登城とはよろしくない。歴とした役に就けてもらわねばならぬ。が、難しいであろう。そうなれば……」

「そうなれば」

「む。儂の隠退も考えてみるとするか」

 あまりに急な父の心変わりようである。

「あ、いえ。父上そこまでは」

「いや、儂ももう五十。考えてもよかろう。今ある問題が片付けば、じゃがな」

「問題と」

「うむ。詳しくは言えぬが、どうも蔵奉行方が不正をしておる。納戸番頭の儂のところでどうしても計算が合わず、突き詰めていくと蔵奉行方があやしいことが分かってきての。今のところ儂一人で調べているのだが、いずれは御目付に報告せずばなるまい」

「大きな問題なのですか」

「うむ。大きいの。故意であれば切腹ものじゃ」

「それほどまで。では、片が付くにもすぐというわけにもまいりませぬな。いずれにしても、父上のご存念にお任せします」

「うむ」

 十分とは言えないが満足そうな顔の舟吾郎を見て、やはり隠退してもよいな、と弥治兵衛は思った。



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