春のある懐古 3
「マリア、今日は森のむこうの花畑に行きたいの」
食事を終え、ライラと並んで皿を洗いながらマリアは上目遣いで様子を伺った。マリアの暮らすテレジアの街に隣接した森は、昼間でも薄暗く木々が生い茂り、大人でさえ狩人やギルドの冒険者を除いて出入りしたがらない。
足元には背の高い草が伸び、街でいちばん高い教会の鐘よりも空に近い木は競い合うように密集している。またウィーオラの木の群生地として知られており、魔力耐性がないとあっという間に体調を崩してしまう。この街で生まれ育ったマリアなら平気ではあるが、それでも長時間留まれば魔力中毒に陥ってしまう。
「でもマリア....」
「日没までには帰るんだ。約束出来るか?」
ライラの心配を滲ませた声を遮り、ウルが被せるように言葉を紡ぐ。普段のウルならば決してしない行動に違和感を覚えるが、マリアには具体的な理由が分からない。魚の小骨が喉に刺さり抜けない時と同じ感覚だ。何かの予感。取り返しのつかない予兆。どこか焦りを見せるウルを不安げに見上げれば、下手くそな笑みを返された。
先程までの浮き足立った気持ちが萎み、マリアは俯く。勇み足の冒険心は縮こまり、萎れた心に従って身体も丸めてしまう。ウルから伝わって来る得体の知れないもの。焦燥と恐怖。常に追い立てる者であるウルが、今はただ追われる獲物のように焦り怯えている。
ライラもまた不安を滲ませた顔をしている。マリアに対する憐憫と哀しみ。ふたりが何に怯え、何に悲しんでいるのか分からない。伝播する感情は形容し難く、普段の様子と掛け離れた姿に怯えが走る。
「....いってらっしゃいマリア」
「いってらっしゃいマリア。....怖がらせてすまない。ただ、そう。予感がするんだ」
すっかり小さくなってしまったマリアを抱き上げ、ウルが笑う。ウルの予感。研ぎ澄まされたウルの直感は、野生で暮らす動物たちのように鋭い。ウルが雨が降ると言えば降るし、風が吹くと言えば吹く。肌で感じ、音を聞き分ける。匂いを嗅ぎ分け、魔力路で拾い上げる。常人には出来ないウルだけの力だった。
空気中に満ちるマナの微細な変化を感じ取っているのではないか、と研究者のライラは言っていた。マリアにはまだ難しくて分からない事ばかりだったが、ウルが凄い事だけは分かっていたつもりだ。
実際マリアの目には、ウルは魔法使いに見えていた。そのマリアの偉大な魔法使いであるウルが怯えている。その事実が重苦しくのしかかり、肺に溜まった酸素を吐き出す。マリアはもうこれっぽっちも花畑に行きたいという気持ちはなかった。ライラとウルのそばにいて、いつも通りに過ごしたいという気持ちしかなかった。
しかしふたりは有無を言わせるつもりはないらしい。時間に追い立てられるように、運命に駆り立てられるように、マリアはあっという間に日除け帽とお昼ご飯を持たされた。
「いってらっしゃいマリア。愛しているわ」
「いってらっしゃいマリア。いつまでも健やかに」
いつもと同じように抱きしめられ、耳元に祝福を送られる。もう会えないみたいに言わないで。マリアもここにいる。そう言えたら、マリアも連れていって貰えたのだろうか。
分からない事ばかりだけど、分かる事はただひとつ。
「.......うん、いってきます」
その手を最後に離したのは、自分だった事。
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また次のお話でお会いしましょう。