春のある懐古 2
その日は良く晴れていた。春の移ろいやすい季節の中でも珍しく雲ひとつない快晴で。小さなマリアが息を大きく吸い込めば、焼き上がったばかりのパンの匂いがした。マリアが手足を広げてももう3人くらいなら一緒に転がれそうなベッドは、父と母がいつもマリアを挟んで眠っていた。
よいしょ、と小さく声を出しながらベッドから降りたら、いつも通り着替える。7歳になったばかりのマリアは、少しばかりの背伸びと自立心を握り締めて生活をしていた。
例えば母の手伝いをする為に洗濯物を干すだとか、父が毎朝にらめっこする新聞を読んだ気になるだとか、そういう些細で誇らしいなにかを積み重ねていく事。何物にも代えがたい日々の中で、マリアは確かに幸せだった。
誕生日にと母がくれたワンピースを着れば、小さなマリアの胸は満たされる。青空と同じ色に染められたワンピースは、袖も裾もぴったりで嬉しくなる。喜びのままくるりと回れば、広がる生地は雨上がりの空のように美しい。くるり、くるりと回り続けていると、寝室の扉の向こうから足音が聞こえて振り返る。
「おはようマリア、ひとりで起きられたのね」
「おはようおかあさん。マリア、ひとりでお着替えできたよ」
「そう、頑張ったわね」
穏やかな笑みを浮かべる母に挨拶を返し、誇らしげに胸を張れば頭を撫でられる。窓からの日差しを浴びて輝く黄金は、マリアも継いだ母の色だ。この街の特産品であるライラ麦に因み、母はライラと言う名前だった。秋の第二の月に穂を垂らして風に靡く姿は、確かに母ライラの髪によく似ていると思う。
眩しいものを見るように目を細めていると、ライラはマリアを抱き上げて階段を降り始めた。いつもならひとりで降りれると拒否するのだが、どうしてか今日は離れ難く感じた。肌寒さは去り、ウィーオラが暖かな季節の到来を教えてくれているのに。
形容し難い感情のままマリアがライラの腕にしがみつけば、ライラは何も言う事なくマリアを抱き締め返してくれる。息を大きく吸い込めば、ライラがいつも丁寧に育てている花の香りとお日様の香りがした。優しくて柔らかな香り。幸せをめいっぱいに詰め込んだら、きっとこんな匂いになるのだろう。そう思わせる香りだった。
ライラがマリアに極力振動が伝わらないように階段を降りていくと、ライラの代わりに火にかけた鍋を見ていた父ウルが振り返る。
「おはようマリアセア。よく眠れたか」
「おはようおとうさん。夢も見ないくらいよくねれたよ」
決して大きくはないが、良く響く声でウルがマリアを呼ぶ。マリアが手伝う時には両手でかき混ぜなくてはならない程大きなお玉を、片手でぐるぐると回すウルは街の狩人の中でも力持ちだった。マリアと仕留めた鹿を同時に持ち上げても平気な顔をして歩けるくらいだから、とても力持ちだと思う。
ウルはよく話す人ではないが、よく聞く人だった。小さなマリアが一日の中で、身体いっぱいに話したい事を詰め込んで帰って来れば必ず話を聞いてくれる。あまり笑わなかったけれど、風が止んだあとの花畑にも似たウルの雰囲気は、マリアが愛してやまないもののひとつだった。
ライラの腕から降ろされ、マリアはいつものように皿を食卓に並べる。ライラがパンを焼き、ウルがスープをかき混ぜて、マリアが食器を用意するのがいつもの日常のひとつ。小さな手ではひとつずつしか皿は運べないが、ウルもライラもよく褒めてくれた。
皿を並べ終えたマリアは、いつもの席に着く。大きく開かれた窓を背にした特等席は、僅かに残った眠気を朝日が連れていってくれる。腹の虫が2度鳴いた頃、ライラが焼きたてのパンを食卓の中央に置き、ウルがスープを皿によそう。
変わらないいつもの日常。いつまでも続く幸福な朝。これからもずっと続いていくのだろうと、小さなマリアは信じていた。
その時までは。
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