春のある懐古 1
「今日はこれくらいで良いかな....」
よいしょ、と小さく声を吐き出しながら、簡素な作りの籠を持ち上げる。本日晴天なれども風強し。風が木の葉を巻き上げるのを見上げながら、マリアは木々の隙間から見える青空を目に映した。
春の第三月は、森を所狭しと埋めるウィーオラの木が一斉に実をつける。その実を拾う為に集落の外側まで歩いてきていたマリアは、ウィーオラの実をひとつ摘み上げる。紫色をした艶々とした実は、春の月を代表する風物詩だ。その為かマリアが暮らす森を囲む街や村は、春の第三の月をウィーオリウスと呼んでいた。
必要な分を必要なだけ。この時期にしか作れないウィーオラジャムは、固くてあまり美味しくないパンを食べ続けていく為にも必須なのだ。マリア的必需品なのである。どれだけ歯が負けそうなくらいカチカチなパンでも、これでもかとジャムを塗りたくって食べれば笑顔がこぼれ落ちるてしまう。
しかしそのまま食べるのは絶対に避けなければならない。砂糖や蜂蜜を加えていないウィーオラの実は、恐ろしい程にすっぱい。顔のパーツすべてが中心に寄ってしまうのではないかと思うくらいの味で、マリアは思い出しただけでキュッとする。好奇心と空腹に耐えかねた過去の己を憎むくらいには、嫌な思い出だ。
それだけではない。森の中でも特に大きく育つウィーオラの木は、大気中に漂うマナだけでなく陽の光を通して微量に放出されるエーテルも吸収する。通常の木の実であれば、木としての高さが足りずエーテルを吸収しない為無害なままである。
しかしウィーオラの木は、通常の木の3倍以上の高さまで成長する為、星からの神秘とされるエーテルに枝葉が届いてしまう。過剰な量のマナやエーテル───総称として魔力と呼ばれる様々な力───を直接摂取してしまうと、人体に影響を齎す程になる。
そもマリアが暮らすこの森、レディプティオ大森林は、生命の力であるマナが潤沢な土地だ。魔力に耐性がない人間が一歩足を踏み入れれば、たちまちに魔力中毒になってしまう。
マナは魔力濃度が高い場所から低い場所へ移動する性質を持っている。耐性がなく魔力保有量が少ない人間の体内へマナが移動してしまう事で起きる現象の為、最初に森へ避難した人間は酷く苦労をしたものだ。マリアも含めて。
初期症状として身体中を駆け巡るマナが暴れ狂い、思考が冴え渡って行く反面身体の動きが鈍くなる。手足の末端の痺れと吐気、絶え間ない頭痛。爪の先まで走り抜けて行くマナによって魔力路を無理矢理拡張される痛みは、筆舌に尽くし難いものだった。
ああ、思い出す。枝葉の窓から覗く青空の先、彼方の記憶。あれは7歳の時だっただろうか。あの日も確か、街から見える森にはウィーオラの花が咲き、実を結び始めていた。こんな良く晴れた春の、風の強い日だった。
ああ、思い出す。白亜の街、整列した石畳。街の中心には噴水があって、マリアが歩けば花の香りがした。活気づいた商売の声、行き交う馬の蹄の音。夜には灯りがともり、朝にはパンが焼けた匂いがする家の中で、真綿に包んだ母の声が聞こえてくる。寝ぼけながら起き上がれば、父が呆れたように笑いながら狩りに出かけて。
そして今はもうどこにもない街。森に飲まれたマリアの故郷。どうしてそうなったかも分からず、ただ生きる為に森へと逃げるしかなかったあの日のこと。
思考が暗がりへと転がり落ち、深く深くに沈み出す。マリアにもう、その術は存在しなかった。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
これからも精進して参ります。