手が離れても、友達
礫にも投げ越しつべき天の川
隔てればかもあまた術無き
(小石でも投げれば向こう岸に届きそうなほど、
ほんのわずかに私たちを遠ざけている天の川。
ああ、けれどもこの川が隔てているばかりに、
私はあなたに会いに行くことができないのだ。)
──『万葉集』巻八-1522 山上憶良
彼女ができたことを夏彦に打ち明けられたのは、たしか五月の中頃のことだった。イベント帰りの夕方、汗だくで乗り込んだ黄色の電車は奇妙な高揚感に満ちていた。
「いつの間に! 誰だよ、相手」
「その……隣のクラスに鷺宮っているだろ」
「高嶺の花みたいな女子じゃん。よく捕まえられたな」
「捕まえたんじゃないんだよ。向こうに捕まったんだ」
「ますますヤバいだろ。なんだよ、ちゃっかりリア充しやがって!」
肘でつついてやると夏彦は痛そうな顔をした。いっぱしに頬なんか染めてやがったから、もう二発くらいつついてやろうかと思った。この気持ちは決して嫉妬じゃない。ただ少し、からかってやりたくなっただけ。からかいついでに「どこまでしたんだよ」と尋ねたら、夏彦は「お前な」といって派手に顔を赤らめた。
「電車の中で話せるわけねぇよ、そんなの。誰が聞いてるか分かんないだろ。別に星河に言うだけなら構わねーけど……」
「へー。そこまで行ったって思っていいんだ」
「してねーって! その……チュー……したくらい」
なんだこいつ、高三にもなってキスのことチューなんて言うのか。吊革にぶら下がりながら僕は笑ってしまった。「なにが可笑しい」と目を吊り上げた夏彦が、お返しの肘鉄を見舞ってきた。
可笑しいや。
可笑しくって切なくなった。
どっちが先に彼女を作れるかな、こんなオタクに彼女なんか無理だろ、なんていって笑い合った吞気な日々を、いつのまにか僕らは線路の彼方へ置いてきていたみたいだ。
ひとしきり笑い終えたところで、電車は駅に滑り込んだ。人混みに押されて電車を吐き出された僕らは、流されるように高架ホームを降りて改札階へ雪崩れてゆく。ともすれば隣の人さえ見失いかねない混雑の中で、ふと、夏彦の名前を呼んだ。夏彦は心底嫌そうに「なんだよ」と応じた。
「彼女ができたってさ、変わんないよな。僕らは」
「変わんねーよ」
ぶっきらぼうにあいつは答えた。
足元の階段を見るのに精いっぱいで、夏彦の表情は見ていない。けれども声色が普段と同じ夏彦のそれだったから、僕はひとにぎりの安心感を噛み締めて、取り出したICカードを自動改札機に押し付けた。
僕も、夏彦も、筋金入りのオタクだ。それもドルオタ。この世界に浸り続けている限り、彼女なんて無縁の人生を送ることになるのだろうと、お互い何の疑いもなく信じていた。実際問題、興味もなかった。生々しい現実の女の子に夢を見るより、綺麗なところしか見せない舞台の上の女の子を追いかける方が、僕らにとっては遥かに純朴で崇高な営みに思えていた。
アイドルに目覚めたのは僕の方だった。というよりも、僕が夏彦をドルオタの世界に引きずり込んだ。中学で知り合った当時、夏彦はいじめられっ子だった。誰からも無視されて、誰に助けを求めることもできずに、あいつはいつだって塞ぎ込んでいた。僕の紹介したアイドルの界隈は、暗闇に沈みかけていた夏彦の世界を少しだけ広げて、明るい光を差し込ませることに成功したみたいだ。それまで没交渉だった僕と夏彦は、友達になった。そして同時に、同じアイドルを一緒に追いかける仲間になった。
早い話が、僕らはそういう間柄だ。
いろんな苦楽を共にしてきたと思っている。
僕らが推しているのはメジャーなアイドルじゃない。グッズを出すと言われれば買いに走り、対バンライブに出演すると聞けば応援に駆け付け、声を枯らしてコールを叫んだ。握手会への参加だって欠かしたことはない。そこは退屈な学校生活から完全に切り離された非日常の遊園地みたいなもので、忙しなくても、お金がなくても、いつだって僕らは幸せだった。無邪気に生きてゆけるのはアイドルの世界だけだった。
これからはそうじゃない。
夏彦にはもう一人、苦楽を共にする人ができた。
これからあいつは僕の知らない景色を少しずつ覚えて、触れて、またちょっぴり広がった世界を楽しく生きていくんだろう。
それが悪いことだなんて思わない。広がって明るくなった世界のどこかに、相変わらず僕の居場所があるのならばそれでいい。あんなにも夢中になって一緒にアイドルたちを追いかけた夏彦が簡単に僕らの世界を手放すことなど有り得ないと、僕は、分かっていた。
鷺宮伊織──つまり夏彦の彼女は、僕が夏彦と一緒に行動することを快く思っていない様子だった。だいたい向こうは僕の存在すらも知らなかったようだ。初対面の時には「誰?」と胡散臭げに睨まれた。隣のクラスでも指折りの美少女と名高い夏彦の彼女さんは、オタクの世界を生きる地味な僕など歯牙にかける子じゃなかった。
「俺の友達。中学からの知り合いでさ、よくつるんでるんだ」
夏彦が紹介してくれても、鷺宮さんはいぶかる目を変えなかった。
「ふーん。じゃ、あなたが白鷺くんをドルオタの道に連れ込んだんだ」
白鷺くん、などという他人行儀な苗字呼びに僕は安堵を覚えた。鷺宮さんよりも僕の方が一歩か二歩、夏彦に近いところに立っているように思えたのだった。鷺宮さんが夏彦のアイドル趣味を知っていたことにも驚かされたけれど、まぁ、当たり前か。遅かれ早かれ発覚することだ。なぜって鷺宮さんが彼女になってからも、僕らは何度も推しの現場に駆け付けているから。
「なんで夏彦のことを好きになったの」
おそるおそる聞いてみた。彼女は僕ではなく、夏彦から顔をそむけた。
「……爽やかだし雰囲気いいし、変にこじらせてないなって思ったから」
「めっちゃ褒められてるじゃん、夏彦」
「俺もいま初めて聞いたんだけど」
夏彦も顔を赤くしていた。信じがたいことに、鷺宮さんが夏彦を好きになった理由を白状したのはこれが初めてのことだった。そういえば付き合うことになった時も鷺宮さんが一方的に心を寄せて、動揺しつつも夏彦がそれを受け入れたことで結ばれたらしい。脅迫まがいの告白だったと夏彦は複雑な面持ちで回想していた。
好きを貫くためには強引な行動に出ることも必要だ。アイドルオタクの生き様なんて結局、そういう行動と退屈な日常の反復だったりもする。
「まぁとにかく、悪いやつじゃないから。こいつとも仲良くしてよ」
親指で僕を示しながら夏彦は笑った。鷺宮さんはとうとう首を縦にも横にも振らなかったし、それ以上、僕と話をしようともしなかった。
アイドルの世界は栄枯盛衰が激しい。これまで推してきたアイドルたちは皆、解散したりメンバー総取り換えの憂き目に遭ったりして、そっと僕らの世界を退場していった。いま推しているのは同い年の女の子三人組のアイドルだった。推しの解散ライブに参加して、がっかり肩を落としながら会場のビルを出たところに、彼女たちがいた。何も知らない彼女たちは道端で必死に声を張り上げ、CDの即売会を開いていた。誰ひとり見向きもしないのが哀れに思えて、声をかけてCDを手に取ってみたのが、彼女たちと僕らの出会いだった。
推し始めた当時のファンクラブ会員は、僕らを含めても二百人が関の山。まだ持ち歌も少ない零細アイドルだった。逆境に直面しながらも一生懸命に頑張る三人の姿に、夏彦はずいぶん深い共感を覚えていたみたいで、僕が声をかければ必ずライブに出向いていたっけ。
いじめという名の逆境から夏彦を救ったのがアイドルだった。だから、夏彦なりに色々と思うところがあったのかもしれない。夏彦は自分の考えをあまり詳らかに語らない。ドルオタを続けている理由さえ聞いたことがない。すべては僕の憶測だったし、当たらずとも遠くはない憶測だと思っていた。
そんな夏彦に鷺宮さんという特大のサプライズが降ってきたように──とうとう推しの三人にも転機が訪れた。
「聞いたかよ夏彦。AsteroidのFC会員、とうとう一万人越えだってよ!」
登校早々、机へ突っ伏している夏彦のところに声をかけに行くと、あいつは眠たげな眼をこじ開けて「知ってる」と言った。
「信じらんないよな。こないだまで三百人とかだったのに、いきなり何十倍にも膨れ上がっちゃって……」
「やっと世間様がアステロの魅力を理解したんだよ」
睡魔に押し負けそうなまぶたの下で、不敵な瞳がきらりと光った。自分が何かを成し遂げたわけでもないのに、誰かを誇るとき人は得意げな顔をする。──いや、人気沸騰前に発見するという行為を成し遂げたのか。ドルオタの世界で生きていると見飽きるほど直面するこんな笑顔が、僕は意外に好きだった。
推しアイドルは思わぬところでスターダムへの道を歩み出した。というよりも、道が降ってきた。ファンが撮影した彼女たちの出演映像がネット上で話題を呼んで、本人の知らないところで次々に拡散され、彼女たちは一晩にして時の人になってしまったのだった。いつものように開いたつもりだった握手会には長蛇の列ができて、余りに余っていたグッズもすべて売り切れたと聞いた。空前の人気沸騰に誰よりも困惑しているのが当のアイドルたちや運営陣という、ちょっと不可思議な状況が生まれている。
「今度緊急ライブもやるっていうし、絶対行かなきゃだよな。そのうち本当に人気が出たらチケットなんて取れなくなるかもよ」
興奮冷めやらずに迫ったら「さすがにそれはねーよ」と夏彦は笑った。どことなく力のない笑顔だった。
「悪い、俺はパス。日程が合わねぇ」
「なんだよ。日程に追われるような生活なんて送ってないだろ。受験勉強だって要らないんだし……」
「これ」
夏彦は小指を立てた。いまどきそんな古いやり方で彼女を示唆するやつがいるとは思わず、僕は一瞬ばかり面食らった。
「こないだライブのためにデート見送ったらさ、めっちゃ怒られたんだよ。だから悪い、今回は向こうを優先させてくれ」
致し方なかった。しぶしぶ僕はスマートフォンのチケット販売サイトを開いて、枚数指定の「2」を「1」に変更した。
彼女なんて身勝手なもんだ。どんなときでも自分を一番にさせたがる。そこへ行くとアイドルは自分を束縛しない。こっちから押しかけこそすれ、向こうから押しかけてくることはない。もちろん僕らが会いに行けばアイドルたちは喜んでくれる。アイドルとドルオタの関係は、恋愛関係よりも少し複雑で、けれども少しだけ気楽な──それこそ友達みたいなものだったりするのだ。
「鷺宮さんと付き合うの、楽しいか?」
さりげなく尋ねてみた。夏彦は腕に顔を半分沈めた。
「そりゃ、まあな」
「その割には楽しそうじゃないじゃん」
「そんなことねーよ」
「あるよ。オタ活してる時の方が元気してたぞ。近頃は話題振っても反応が弱いし」
「そりゃ否定できねーけど。でも、お金も時間もみんな彼女に捧げてんだぞ。アステロに回すリソースは残ってない」
「別れるって選択肢はないのかよ」
「冗談でもやめてくれよ」
夏彦は苦笑した。声は笑っていなかった。
爆発的な人気沸騰は嘘なんかじゃなかった。狭い会場に無数の新規ファンが押し寄せて、僕ら古参勢は隅っこに追いやられないようにするのが精いっぱいだった。もっとも僕らだって古参を名乗れるほどファン歴が長いわけじゃない。ただ、少しばかり早く彼女たちを知って、彼女たちの世界に浸っていただけのことで、本来そこに面倒な優劣なんて存在しないのだ。
いきなり大量の「友達」を抱え込んでしまったアイドルたちは明らかに困惑していた。ライブ後のチェキ会には人数制限まで導入されていた。なんとか参加権をもぎ取って、いつも通りの顔をして推しメンの子へ会いに行った。長いポニーテールをなびかせながら彼女は僕の手を取って、「びっくりしちゃった!」とはにかんだ。
「こんなにわしゃわしゃ人が来てくれるなんて、わたし、まだ信じられないよ。夢でも見てるのかも」
この子はテンションが上がるとへんてこな擬音語を使い始める。僕や夏彦のこともちゃんと覚えてくれていて、会いに行けば旧友と再会したみたいに大喜びしてくれる明るい子だ。もちろん僕らが特別扱いを受けているわけじゃない。集まってくる無数の「友達」を、アイドルはきちんと平等に大切にする。その節度を守れなくなったアイドルやファンがどうなるのかは、知ってはいるけれどもあまり想像したくない。
「今日は白鷺くんと一緒じゃないんだね」
撮影したチェキにコメントを書き込みながら、案の定、彼女は問うてきた。
「あいつは彼女と用事があるって」
「へぇ! 白鷺くん彼女できたんだ。江原くんは?」
「僕には無理だよ、そういうの」
笑うに笑えなくて視線を流してしまった。彼女は「ふーん」と上目遣いに僕をうかがった。
「でもわたし、できない方がいいな。そっちにかまけてわたしたちのところへ来なくなっちゃったら、わたしぐちゃーってなっちゃうもんね」
「彼女を連れて一緒に来るかもよ?」
「それは嬉しいかも!」
ぱっと彼女は顔を輝かせた。天真爛漫という言葉の似合う彼女の笑顔を前に、ちくり、痛みの差した胸を僕は上着で隠した。恋人を連れてくることなんてできるもんか。一足先にリア充デビューを果たした夏彦を見ていれば、それが難しいことくらい簡単に分かるというのに。
チェキ会を終えて外へ出れば、とっぷりと暮れた都会の夜空に三角の形をした白亜のビルが輝いていた。数多のアイドルに重宝される二千人規模の音楽ホールを備えたこのビルが、僕らにとっての聖地だった。かつての推しアイドルが解散公演を行い、失意の底にいた僕と夏彦は、三角ビルを出たところで今の推しに出会った。あれから一年もの歳月が流れて、夏彦には彼女ができ、推しの子たちは遅咲きのブレイクを迎えつつある。
年季の入った三角ビルの外壁を見上げながら僕は問うた。
僕はみんなのように変わっただろうか。
変わってしまうのはいいことなのだろうか。
違う。人はそんなにすぐには変われない。推しの女の子だって、ファンが増えても対応は変わらなかった。彼女のひとりふたり抱え込んだくらいで夏彦が変わるはずもない。そうだと思うし、そう信じている。
だからこそ──。
──『悪い、俺はパス。日程が合わねぇ』
──『今回は向こうを優先させてくれ』
──『冗談でもやめてくれよ』
いつかの夏彦の口ぶりが、気にかかって仕方なかったのだ。
夏彦と鷺宮さんが一緒に歩いている姿を、あれから何度も高校で見かけた。そのへんのアイドル並みに可愛い鷺宮さんが夏彦みたいな平凡な男を捕まえたことは、いまだに学年内でも話題を引いていた。その噂話を当てにすれば、二人は休日に駅前の大きなファッションビルで偶然ばったり出会って、カフェで話し込んでいるうちに鷺宮さんが夏彦に惹かれていったらしい。
本当のところは知らないし、もちろん夏彦を問いただしても答えてくれない。ただ、夏彦のファッションセンスがここのところ密かに向上を見せていたことは知っていたから、僕はなんとなく納得していた。それだって元をたどれば推しの影響だ。去年の暮れあたりから彼女たちが急にアイドルらしい可愛い衣装を捨て、年齢や性格に合ったお洒落な服装を決めるようになって以来、引きずられるように夏彦もお洒落に目覚めた。そんなことはドルオタをやっていればままある話だ。人はみんな、好きなものから大小の影響を受ける。
お洒落になって、彼女もできて、少しずつ身にまとう装飾品を増やしてゆくあいつは、近頃めっきり僕とも話さなくなった。少なくとも夏彦の側から話を振られることはなくなった。いつも憂鬱な顔をしているあいつのことが心配になって、さりげない風を装って何度も話しかけに行った。あいつは律儀に応じてくれるのだけれど、鷺宮さんが現れればたちまち僕との話を中断して、大事な彼女さんの方へ向かってしまう。かといって校内で鷺宮さんと特別親しげに振る舞っている様子もないのが奇妙だった。
あいつは分かりやすく悩んでいた。
ひとりになった僕の彼方で、あいつもやっぱり、ひとりだった。
あれからライブや握手会にも姿を見せなくなった。何度も声をかけた。憂さ晴らしにライブ行こうぜ、久しぶりにオタ芸でも打とうと言えば、夏彦は困ったように笑って「ありだな」と答えた。もちろんそれはどれも、やんわりとオブラートに包んだ「行けない」の代用表現だった。伏せられた瞳の奥に以前のような興奮の光はなくて、僕も大抵、説得を諦め、代わりに自分ひとりで現場へ通い続けた。
ライブ終わりに見上げる星空は姿を変えていった。
いつしか季節が巡って、僕らは高校最後の夏休みを迎えようとしていた。
三角ビルの再開発が決まった。
もとのような三角形の特徴的なビルではなく、倍以上もの高さがある巨大な箱型ビルに姿を変えるらしい。
それはいい。どうせ僕らが上物に立ち入ることはない。問題は音楽ホールが失われることだった。新たに整備されるのは七千人もの収容数を誇る大型アリーナで、とうてい市井のアイドルが気軽に使えるような代物ではなくなると聞いた。現建物の取り壊しは夏休み中に始まる。いつかは来ると思っていた事態が、よりにもよって推しアイドルの全盛期に具現化してしまった。
「中野プレアデスで開くAsteroidのイベント、七月のライブ兼握手会が最後になるってよ」
そう声をかけたら、いつものように夏彦は「知ってる」とだけ応じた。ノートを書くペンが止まることはなかった。図書館の自習室にはふたたび静寂が訪れて、僕はいやに気まずくなった。
「知ってんなら行こうよ。僕らの聖地が聖地じゃなくなるんだぞ」
「アステロの本当の聖地は中野じゃなくてお台場だろ。別によくね。つーか期末試験直前なんだけど」
「いいわけあるかよ! 貴重なホールコンサートの舞台がまた一つ失われるってのに試験なんかにかまけてられるか」
「都内にコンサートホールがいくつあると思ってんだ。だいたいアステロの今の活動規模を考えてみろ。たった二千の中野のキャパじゃ、いずれ足りなくなるのは目に見えてんだぞ」
「そりゃそうだけどさ……」
興奮しすぎていた自分を恥じ入って声を小さくしつつ、涼しい顔の夏彦を僕は睨んだ。言葉尻ばかりでなく、夏彦の反応は本当に淡白だった。まるで、僕らがアイドルを推し続けた日々のすべてを否定し、あるいは見なかったふりをするみたいに。
ここのところずっとこうだ。
いつからこんな風になったんだよ、夏彦。
以前の熱心なドルオタぶりはどこへ行ったんだ。ぜんぶ彼女の唇に吸われたのか。アイドルと口にすることさえ嫌そうにしていた、隣のクラスの美少女に。
「そんなことより期末の勉強しろよな。内申悪かったらマジで大学進学も危うくなるぞ、俺ら」
夏彦のペンを執るペースが上がった。つんとペン先のように研ぎ澄まされた冷徹な態度が、僕の心臓を深めに突き刺した。現実を見ろ──。あまりにも明確で、あまりにも残酷なその示唆を、まさか夏彦の口から受けることになるとは思ってもみなかった。深手を負った僕は鳥肌を撫でながら「なんだよ」とせせら笑った。自分のことも、夏彦のことも。
「前はそんな真面目キャラじゃなかったくせに。それも鷺宮さんの影響かよ」
「違う」
「違うってんなら何なんだ。昔を思い出せよ。現場のためなら試験勉強も何もかも投げ出して、推しへ会いに東京中を駆け回ってただろ。たった数か月前の僕らの姿だぞ」
「うるさい。黙ってくれ。お前は分かってない」
「分かってないのは夏彦の方だろ! なぁ、冷静になれよ。彼女やら勉強やら色んなものに振り回されて、今の夏彦は本当に好きだったものを追えなくなってんだよ。このままじゃ夏彦にとっても絶対よくないよ」
夏彦は目を怒らせ、椅子を蹴って立ち上がった。
「俺がドルオタやってた理由の半分はお前のためだよ」
藪から棒に言い出されたことの意味を理解できず、僕は呆気に取られた。夏彦はノートや教科書をまとめ、乱暴に文房具を片付けてしまった。
「中学の時、お前に救ってもらった義理は今も忘れてない。だからアイドル趣味にだって付き合ってたし、俺なりに楽しもうとしてきた。でも、そもそも俺の中じゃ趣味の優先順位は高くないんだよ。俺はお前ほどアイドル一本に熱中できないし、大事な人ができりゃそっちを優先する。ほかに優先すべきものが何もなかったから、これまではドルオタを楽しんでた。そんだけだ。勘違いすんなよ」
一方的にまくし立てたきり、僕を置いて夏彦は自習室を出ていった。騒ぎ立てた空気が風を起こして、ぺらり、白紙のまま進んでいない僕のノートを無意味にめくった。ぼんやりと僕はノートを見下ろした。広げられた問いの答えも、夏彦に取るべきだった態度の正解もない、まっさらのノートを。
推しアイドルの大人気は衰えるところを知らなかった。なだれ込んできた俄かファンをすべて抱き込み、自分のものにしてしまうほど、彼女たちは魅力的なアイドルだった。徹底的な練習に裏打ちされた見事なライブパフォーマンスと今風の洒落た衣装、それらを台無しにして余りあるほど気の抜けた吞気なMC。そのギャップがオタクの心をくすぐり、友達になれないものかと僕らを悩ませるのだ。友達以上の存在になることを望むやつは「ガチ恋」なんて呼ばれる。残念ながら僕はガチ恋勢の序列に加われるほどの猛者ではなかった。夏彦も同じようにアイドルへ恋人性を求めなかったし、実際問題「友達」よりも本物の恋人を優先したわけだ。
夏彦への勧誘を諦めるか、諦めないで声をかけるかと悩んでいるうちに、わずか二千席分のライブチケットは数倍もの倍率で完売してしまった。ひとりきりで会場へ向かうことには慣れていた。帰宅ラッシュの人波に揉まれつつ、あの黄色い電車で隣町の三角ビルを目指した。同じ会場を目指す同志たちの姿を見かけても、口から漏れ出すのは溜め息ばかりで、吊革を握る手は刻一刻と重たくなった。
夏彦は変わってなんていなかった。
ただ、初めから僕が夏彦を誤解していただけ。
無理して付き合ってくれていたなんて思わなかった。だってライブの最中、あんなに声を張り上げていたじゃないか。グッズだって買い漁っていたじゃないか。どんな現場にも出向いたじゃないか──。けれどもその疑問は、たった一つの答えで塗り潰すことができた。要するに、夏彦が求めていたのはアイドルそのものじゃなく、心を埋め合わせてくれる存在だったわけだ。彼女ができてしまえばアイドルなんて用済み。オタ活を嫌がる彼女からの圧力と、失われてゆくアイドルへの関心と、僕への義理を果たしたい気持ちの狭間で、夏彦は長いこと揺れ続けていた。そんなあいつの葛藤も知らないまま、僕は不器用な言葉で揺さぶることしかできなかったわけだ。
ひとりぼっちのライブ参加は罰なのかもしれない。心の洞に涙をためていた夏彦を自分の趣味に引きずり込み、好き勝手に連れ回し続けた僕が、相応に背負うべき罰なのかもしれない。もちろん、そんなことを思いながらアイドルたちに接するのは互いに失礼だと思ったから、握手会で順番が回ってきても僕は相好を崩さなかった。いつもの推しメンは僕の手を取って、「また白鷺くんがいない」と唇を尖らせた。
僕は黙っていることができなかった。
「あいつはもう、こないよ」
「え、うそ。なんで?」
「ドルオタ仲間だと思ってたんだ。でも、あいつはそう思ってなかった。僕への義理を果たすためだけにオタ活してたんだってさ。彼女がいい顔しないからライブに来なくなったのかと思ってたけど、そうじゃなくて、あいつが興味を失っただけだった」
混乱のままに並べ立てた言葉は支離滅裂を極めていた。これだからオタクは早口だなんて言われるんだ。クールなあいつの話し方が耳元をよぎって、落胆のあまり肩を落としていると、「そっかぁ」と彼女も残念そうに応じた。どこかの誰かさんと違って、彼女の心情表現は実にド直球で分かりやすかった。
「じゃあ、しばらくは会えなくなるんだな……」
「しばらくじゃない。ずっとだよ。彼女がいるうちは戻ってこない。いっぺん壊れた関係は簡単に戻ったりしない」
むきになって僕は吐き捨てた。吐き捨ててから、なんで推しの前で愚痴なんか吐いてるんだろうと思って、情けなくなって、うつむいた。
「……友達だと思ってたのに」
下を向いた口から、重みを抱いた心がこぼれ落ちて床に散らばった。
自分勝手なものだ。都合よく友達だと決めつけて、本人の気持ちも知らずに誘い文句をかけ続けて。もっと早く気づいていれば、夏彦を変に束縛することもなかったのかな。あいつが離れてゆくこともなかったんだろうか。
「そうかなー」
手を握ったまま、彼女は眉をひそめた。
「白鷺くんと江原くんはちゃんと友達だと思ってたけどな、わたし」
「どこがだよ。ただのライブ仲間だったよ」
「友達だって言われたこと、一度もなかったの?」
僕は首を縦に振れなかった。
ある。鷺宮さんに僕を紹介するとき、あいつは僕を友達と呼んだ。
「だったら友達じゃない?」
彼女は笑って、汗のにじんだ手を離した。しまった、交代の時間か──。焦った僕が後ろへ引き下がろうとすると、「ほら」と彼女は何事もなく続けた。
「手が離れたってわたしたち友達でしょ。アイドルとファンの関係なんか、何キロ離れてたって変わんない。そこにいてくれるだけでいいんだから」
「……そうかな」
「知ってる? 星座とか星群ってね、星のつなぎ方が決まってないんだって。こと座もわし座もはくちょう座も、夏の大三角も。国際天文学連合が定めてるのは星座の境目の場所だけ。だから見る側が好きに意味を与えていいし、星座線のつなぎ方を変えてもいいんだよ」
「詳しいね」
「小惑星ですから」
彼女は控えめな胸を張った。
それからふっと息を抜いて、微笑んだ。
「同じ星座の仲間だって分かっていれば、線が引かれてなくたって心細くない。それって人間も同じだと思うの。たとえ表面上は上手くいっていなくても、距離が離れていても、いちど心を結んだ友達はそんなに簡単に離れていったりしないよ。だから白鷺くんはわたしたちのことも、江原くんのことも忘れてないよ。そんなに悲しい顔しないで、また一緒にここへ来てよ」
──彼女のくれた示唆はあまりにも優しすぎた。三角ビルを後にしても、電車に乗っても、その優しさにしんしんと胸を締め付けられて、人目につかないようにちょっぴり泣いた。夏彦もどこかで僕のために泣いていたら滑稽なのになと思った。淡白なあいつが誰かのために涙を流す姿なんて想像もつかない。前の推しが解散したときでさえ、号泣する僕をそっと笑ってなだめるばかりだったやつだ。あいつはそういうやつなのだ。そして、そんなあいつを僕はとうとう嫌いにも苦手にもなれなかった。
ライブ終わりの余韻が尾を引いて、期末試験の勉強は遅々として進まなかった。ほとんど一夜漬けに等しい追い込み勉強を終えても英語が覚えられず、真っ青の隈を作りながら僕は登校した。幻想は幻想、現実は現実。ドルオタと学校生活の両立にもそれなりに気を払わなきゃ、僕らは現実を生きることを許されない。このままではまずい。死にかけの頭で懸命に課題の長文にかじりつき、読解を試みていると。
「まだそんなもんに苦戦してんのかよ」
聞き慣れた声がかかった。
夏彦だった。聞き慣れているとはいえ、向こうに声をかけられるのは久々のことだった。
「……悪いかよ」
僕はテキストを腕で隠した。恋人と一緒に試験勉強を頑張ったであろうこいつと違って、こちとら、たったひとりで試験に太刀打ちを試みているのだ。要らん同情をかけるくらいなら話しかけないでほしい。逸らした目でふたたび英文に食らいつこうとしたら、不意に、その上へ一冊のノートが放られた。
「これ、和訳。それと構文解析も済ませてある」
「なんだよ急に……。気なんか遣っちゃって」
「お前が単位落として留年したりしたら、俺だって気分悪いから」
「それも義理ってやつ?」
言ってから、しまったと思った。疲労のせいで頭が回っていなかったとはいえ、決して選んではならない聞き方をしてしまった。蒼白になった僕の顔を、あいつはつまらなさそうな眼差しで覗き込んだ。
「お前さ、勘違いすんなよ。俺はなんでもかんでも義理で動くやつじゃねーぞ」
「……悪い」
「分かりゃいいのよ」
「こっちは肝心な部分が分かってないんだけど」
「そんなもん察しろよ。つーか大した理由じゃないし。友達だから助けてやってるだけに決まってんだろ」
僕は思いきり喉に言葉を詰まらせて噎せた。
あまりにもさらりと夏彦が本心を白状したことに理解が及ばなかった。
なんだよ。僕のために行動するのはやめたんじゃなかったのか。噎せ込みながら夏彦を見上げたら、可笑しくなって、ぐちゃぐちゃの表情で「はは……」と息を漏らした。夏彦は挙動不審な僕に眉をひそめた。
やっぱり僕らは対等だ。
夏彦だって僕の心境など分かっていやしない。
こいつは知らずに生き続けるだろう。僕がどんなに夏彦との関係を悩み、苦しみ、行く末を案じていたか。腹が立つから一生教えてやらない。そんな胸の内まで晒さずとも、たとえ同じ趣味を共有できなくなっても、僕と夏彦は友達だ。そしてそれは僕らがそれを望む限り、これから先も続いてゆく。
「気味悪い」
ぼそっと言い捨てた夏彦が机を離れてゆく。
その手に握られたクリアファイルが、ふと、目に留まった。
和訳のノートを挟んでいたらしきクリアファイルのデザインは、おかしなことに、夏彦が参加しなかったはずの先日のライブ会場で限定販売されていたものと同じだった。表に描かれた三人のアイドルが、僕に向かって嬉しそうにピースサインを振りかざす。『ほら、やっぱりね』──。誰かさんの幻聴が耳元を舞った。
「お前、それ」
尋ねた途端、夏彦はクリアファイルを背中に隠した。
「忘れろ」
「見せろって。いつ買ったんだよ。鷺宮さんの許可は得たのか」
「得てねーから隠してんだろ。いいから忘れろ!」
逃げ回る夏彦を僕は追いかけた。英語も、期末試験も、推しのことすら忘れて、目の前のあいつを引き留めることに躍起になった。
繋ぐべき手はすぐそこにあった。
僕が思っていたよりも、ずっと近くに。
たったそれだけのことが嬉しくて、笑いと、心の中にだけ染みる涙が止まらなかった。
うまく愛情を伝えられないし、そもそも愛情を抱いているのかも分からないし、ただなんとなく、居心地がいいから隣にいたくなるだけ。くっつく理由もなければ離れる理由もない。気づけば数年の月日が経っていて、それでもまだ、昔みたいに笑い合っていられる。
そんな友達関係って素敵だと思いませんか。
本作は(一応)七夕小説です。この物語における本物の「織姫」と「彦星」が誰なのかはご想像にお任せしますが、きっと二人はこれからも上手くやってゆくと思います。そして願わくは、ここまで読んでくださった貴方にも、そんな素敵な誰かとの縁が絶えず続いてゆきますように。
2021.07.07
江原星河(蒼原悠)