第四話 比女織密香は絶叫した
ちゅんちゅん……ぴぴぴぴ…………
軽やかな小鳥の鳴き声が聞こえて、気持ちの良い朝だ、と静かに思った。
春先で、まだ肌寒い気温の中。体温で暖かく変容した、柔らかな羽毛布団の中で微睡んでいるこの瞬間が嫌いな人間なんて、存在しないだろう。
熱を籠らせて逃さない、ちょうどよい重量感の布団。比女織邸に残されていたので年代物と推測できるも、密香を優しく包み込むまだまだ現役だと言わんばかりの敷布団──あぁっ、布団から出たくない。
もう少しこのままでいたいけれど、そろそろ出なければならない。きっとそのうち携帯のアラームが鳴り、比女織密香の忙しいような退屈なような一日が始まるのだ。
────アラーム。
一瞬で意識が覚醒した密香は、枕元で鳴り響くスマートフォンのスリープを解除する。小さい動物たちが描かれたデザインの壁紙が埋め尽くすその画面は、堂々と現在時刻を指し示していた。
現在、八時三十分である。
そこで今一度、己に問うてみる。密香の通う高校──五行高校の始業ベルが鳴るのは、いったい何時だっただろうか?
──答えは、八時四十分である。
そして密香が五行高校の我が教室、一年二組の扉を通るまで、密香の家から何分ほどかかるだろうか?
──およそ、十五分である。
冷や汗をかきながら、バッと自分の服装に目を移した。
引っ越しついでに新調した、薄紫のルームウェア。和風建築の我が家には合わないかもしれないが、密香のような高校生にはピッタリのかわいらしいパジャマである。
はて、着替えるのにどれくらい必要だろう。着替え以外の準備を全て合わせても、急いで支度をすれば、粗方五分ほどで身支度は完了させられるはずだ。
……しかしこれは、朝ごはんを抜いたとしても────
「ぎゃあ────────────!!!!!!!!!!!!」
────遅刻確定である。
●
「なんで起こしてくれなかったのよーっ!!!」
肩にかけたスクールバッグを大きく揺らし、ひとまず外に出れる程度に着崩した制服を纏う密香は、今年入って一番の猛ダッシュで山道を駆けていた。
「……朝から元気なもんだなぁ……ヒメさんがあらーむ?を直し忘れたのが悪いんだろぉ……ふわぁ、俺も眠い」
空中であぐらをかいた姿勢のまま、謎の力で空中を浮遊しながらついてきている累が、呑気に欠伸をひとつ。式神も睡眠とるんだ……という感想が、焦りの中に飛んで消えた。
……そう、昨日は不意に目覚めてしまったため問題はなかったのだが、今日は一昨日に使ったアラームの時間をすっかり直し忘れていたらしいのだ。今更になって、自分の不備を悔やむこととなってしまった。
「うるっさいわね!! 気ままなこと言ってるんだったら、ちょっと消えててほしいんだけど!!!」
普段なら密香もそう気にしないのだが、寝起きの不機嫌と遅刻の焦燥でストレス限界の密香には、累の態度がクリティカルヒットしたらしい。
「横暴なご主人様だな……優しくしてくれたら、ヒメさんの荷物、学校近くまで俺が持っていってやらないこともねーんだが」
「累様すみませんでした荷物よろしくおねがいします!!」
一瞬で手のひらを叩き返した密香が、スクールバッグを累の方にやんわりと投げた。こういうことができるから、式神を使役している……なんて思ってる式神使いも、いそうな気がする。
「かっかか、ちゃっかりしてんなぁ────ヒメさん、一回止まりな!」
「何、かさ──ちょ、え!?」
実体化した累は、バッグを軽々とキャッチした途端、一旦姿勢を低くしながら走り出し、少し前で足を止めた密香の膝を、自分の肩の上に攫う。
「わっ────!?」
初速を落とさず、右肩にスクールバッグ、左肩から左腕の上腕のあたりに密香を座らせた累が、木々を掻き分けて走っていく。
貴方は、自転車で全力疾走したことはある?
今、それ以上の──車レベルのスピードを、生身で受けている。すごく速いんだけれど……皮膚に当たる風が、嵐のような鋭さをもって私に襲いかかる。正直、めっちゃ痛い……!
「この方が速ぇーだろ、しゃべると舌噛むぞ〜!」
──しゃべるどころか、息もままならないんだけど!?
そう言おうにも言えない風量が顔に押し当てられて、黙るしかないのがなんだか気に食わない。景色を楽しむ余裕すらない、とんだ最速タクシーである。
……さて。累に抱えられてから一分経たないうちに、もう学校の正門が見えてくる。
「(時間は────!)」
正門から覗く時計の指す時間は、八時三十八分。身支度も結構早かった自信があるが、これなら四十分には教室に滑り込むことができそうだ。
正門まで来ると累は少しずつ速度を落とし、正門の前ぴったりくらいで密香を地面に下ろした。
「ほいっと。じゃ、あとは幸運を祈るぜ〜ってな」
「ありがとう!! ほんっとーにありがとうっ!!!」
スクールバッグを受け取って、密香が昇降口へと駆け出す。本日二度目の今年一番早い走りだが、累タクシー(?)から降りた後だと、やけに自分の足が遅く感じてしまう。
……しかし、不運とは一回で終わるものではない。
────どんっ!
「きゃあっ!」
なんとか辿り着いた!と思ったと同時に、横方向から大きな衝撃が走る。
密香と同じように昇降口を入ってきた何かにぶつかった──否、ぶつかられたのだと脳が理解したのは遅く、どたんと思い切り尻餅をついてしまった。
「いったたたた……」「いったぁー……」
密香ともうひとつ、似たような女の子の声が重なって、辺りに広がる。
その声の方──隣には、密香と同じ制服の少女が存在していた。彼女が原因と見て間違いない。
──腰までで綺麗に切り揃えられた、艶やかな長い黒髪。
密香と同じ制服に身を包んでいるが、デニール数が高いと見える黒いタイツのせいか、密香より大人びて見えた。
しかし、密香同様にスクールバッグを床に投げ出して尻餅をついている様子を見ると、その大人っぽさが相殺されて高校生だとしっかりわかる。ただ、倒れ方は密香と違って、妙に美しく…………
「ご、ごめんなさい、前見てなくて……怪我とかないですか?」
身長も同じくらいだが、佇まいや雰囲気は年長者のように見えたので、なんとなく敬語になってしまう。
「……いえ! こちらこそ不注意で、大変失礼致し────」
彼女はそう言いかけて、バッと自分の手に持っているスマホを見た。それからすぐ、大きな浅葱色の瞳をもっと大きくして、また口を開く。
「っ────時間! ほっ、本当に申し訳ございませんでした!!!」
独りごちるように密香の方へ言うと、次に彼女は一単語、密香には聞こえない程度に言葉を発する。
すると、彼女の隣の空間が歪むようにして──細身で長身の、男性の姿が現れた。
胸元にはシャツと綺麗に絞められたネクタイがあり、顔の近くだけ見ると一見西洋風の服装に見える──が、その上には羽織や袴のようなものを着ていて、全体で見ると和装のシルエットである。
加えて、頭のほぼ半分あたりで黒と銀の二色に分けられた髪に、昔の時代を彷彿とさせるモノクルと、奥に覗く銀色の眼。
この、現代に似つかわしくない容姿────
(──式神!?)
目を見開いて驚愕の表情となる密香をよそに、男は彼女の手を取ると、違和感を生じさせない滑らかな動きで彼女を立たせ、そのあとは一礼して消えてしまった。まるで西洋の主人と執事のような二人だ、なんて柄にもないことを思ってしまう。
「あ、あの────」
「それではっ!」
……しかし例の彼女はタタタタッと早歩き──ほぼダッシュに近かった──して、昇降口から階段へと素早い動きで走り去ってしまった……。あの慌てよう、彼女も寝坊してしまったのか。
「……行っちゃった」
ぽかんとして、密香が一瞬硬直する──と、後ろから声がかかる。
「行っちゃった、じゃねぇだろヒメさん。時間時間」
「…………え?」
後ろに姿を現していた累の言葉を聞いて、ようやく自分の身に起きている危機を思い出し、密香は昇降口の時計を確認した。
──現在、八時四十一分である。
●
『ひどい目にあった』
「かっかっか。酷い目っつっても、どれもこれも、全部ヒメさんの過失ってことで片付けられるんだぜ」
『ド直球ね……それはそうなんだけど』
密香が日本史のノートに片隅にそう書くと、累がそれを見て反応する。空中に浮いた姿はそのままだが、教室の殺伐に圧されてか、彼の声量は少し控えめだ。
一時間目の授業が始まった密香は、どうにか自分の席について授業を受けられていた。席順的に最後列のため、こうして筆談もできないことはないという状況である。
「はい! んじゃーここまでのとこ、ちゃんと覚えてね〜」
その声を聞いて顔を上げると、深緑色のはずの黒板はほぼ真っ白に変わっていた。まだ授業が始まって十分しか経ってないはずだよな、と思いつつ板書を始める。
さっ白い黒板の前に立つ彼女は、日本史担当兼密香の所属する一年二組の担任、式守先生である。下の名前は覚えていないが、大抵そういうものだ。担任でもあるし、まぁそのうち嫌でも覚えるだろう。
飄々とした態度はなんとなく累を思い出させるが、累とはまた違うミステリアスな雰囲気を纏った、女性の先生。
結局遅れて教室に入ってきた密香に、「明日は気をつけてね〜?」と和やか〜に注意してきた先生でもある。圧がすごかったのだが……。
『寝坊は仕方なかったとして』
どうにか板書をノートに写し終えた密香は、またノートの片隅で筆談を開始した。
『あの子、まさかね』
そこまで書いてから密香は一旦顔を上げ、教室の右の方へチラリと目線を向けた。
「まずは、この頃の各国の情勢を確認していくよー。久世ちゃん、アヘン戦争後にイギリスが中国と結んだ、中国にとって不利な条約の名前は何て言ったっけ?」
密香が視線を向けた先にいる少女が、タイミングよく式守先生に当てられる。
「えぇ、南京条約ですわ」
「せーかい、よくできました! それでその後、イギリスはアロー号事件ってのをきっかけにー──」
唐突に当てられたのにも関わらず、彼女は雅やかな口調で難なく答えた。
久世雅。
今日、昇降口で密香と衝突した、あの女子生徒である。
大人びた印象を受けたせいで寸時に思い出せなかったのだが、彼女はなんとクラスメイトだったのだ。すなわち先輩などではなく、同級生という訳である。
滑らかで聞き取りやすい声に、朝にも目についた麗しい長髪。昨日の自己紹介の話では、京都の方から遥々、この山形のド田舎までやってきたとかなんとか。その理由は彼女のみぞ知る、といったところだ。
「あぁ。俺も、ヒメさんと同じ組の顔ぶれなんて覚えちゃいなかったんだが……あいつがまさか、式神使いとはなぁ」
累の言葉を聞いている限り、式神も式神使いも互いに視ることができる程度で、内に流れる気配を感じ取るようなことはできないらしい。
つまり、姿が見えない──気体化状態の式神となると、彼の者が式神使いか否かさえわからないということになる。宙の件といい、相当の感知力があるように見える累も、姿が見えないようでは流石に無理だったようだ。
「にしても、なかなか姿を現さない式神ってのも珍しい気がすんだよな。俺の感覚も、まだまだ最近のに近いと思ってたんだが……」
『最近のって、私たちの世代くらいの?』
「そうだ。実際問題、どっかの野郎さんの式神も、いつも顔は出してるからな。俺も基本はこの状態の方が楽だし、あの式神なりの信条っつーのがありそうだが……」
『なるほどね、式神もいろいろと──』
「んーと、幕府による飢饉政策を批判して大阪で蜂起を行なった人物の〜…………」
──────シュッ
「ひゅっ」
刹那、密香の右を白い棒──チョークが抜けていった。
「──名前は何だったかな、比女織ちゃん?」
壁にぶつかり粉々になったチョークを見届けながら、式守先生が、柔らかい笑顔を浮かべてこちらを見る。あの瞬間、恐怖と一驚で思わず喉から変な音が出た。
「………………は、はい」
チョークが自分のすぐ横を飛んで行ったことに気を取られたのもあって、一瞬自分が指されたことへの認識が遅れた。
「……大塩、平八郎です」
「せーかい! ほーら、集中しようね〜」
……こっそり累と話をしていたのがバレたのだろうか。一応先生に式神は見えないはずなので、筆談がバレていたとしても、落書きしている程度にしか見えないとは思うのだけれど……。
そう思いながら真横の累を見ると、思わずギョッとした。
──累が、青い顔で固まっていたのだから。
どうしたの、なんて書く前に、彼の口がゆっくりと動く。
「────ヒメさん、偶然だといいんだが。
今……俺の目ん玉の一分先を掠めて、あのチョークが飛んでったぞ…………」
凛々しい鬼の角を携えた式神が絞り出すような小さい声でそう言うと、その姿は空中に溶けてしまった。
●
キーン、コーン、カーン、コーン…………
十二時五十分、昼休み開始のチャイムである。
言わずもがな朝食を抜いているので、よくここまでお腹の音も鳴らさず耐え切ったと、自分を褒めたいところだ。
早く食堂でご飯を食べよう……と考えながら席を立つと、密香の席に誰かが向かってくる様子が、視界に捉えられた。
顔を上げると、そこには──
「比女織さん。よろしければお昼、ご一緒しませんこと?」
話題の、久世雅が立っていた。
「いただき、ます……」「いただきますわ」
食堂の端の方の席を選び、密香と雅は昼食を取り始めていた。
雅の方は涼やかな顔でカレーを食べ始めているのだが──密香に至っては、ぷるぷると小刻みに震えている。
(絶対、朝の衝突について何か言われる……!)
唐揚げ定食を頼んだ密香も、早いうちに昼食に手をつけたいところ。しかし、『怒られそう』という腹痛が襲ってきているため、食べるに食べれない。とてもじゃないほど空腹なので、本当に食べたいのだが……だが! うう、近くに座っているお爺さんが、悠々とお茶を啜っているのがとても羨ましい……!
……怒られるのなら素直に怒られようと、覚悟を決める。だが、密香の言葉が通る前に、雅が口を開いた。
「あの、久世さ────」
「昨日も思いましたけれど、こちらの食堂のご飯は三百円と思えない美味しさですわ。
私も昨日、今比女織さんが召し上がっている唐揚げ定食を頂いたのですが、とても美味でしたの。もちろん、今日のカレーもまた絶品ですけれどね」
そう言い終えると、雅は柔らかい笑顔を浮かべてカレーを口に含む。一点のほくろが目立つ唇は、綺麗にカレーを包み込んだ。
「あっ……そ、そう? これ、食べたことあったんだ」
「えぇ、えぇ! 早くお召しにならないと、冷めてしまいますわよ?」
返答は淀んでしまったが、雅の言葉には、怒りの感情は一切含まれていないように思えた。
(……怒ってない、のかな?)
雅の言葉を聞いて、ふわっと気が緩んだ密香。唐揚げと白米を、ようやく口に運ぶことができた。
……肉汁が口の中でじゅわっと広がり、ふわりと程よい塩気が美味しい白飯とよく絡む。唐揚げは胡椒が多く使われているようでちょうどよい辛味もあり、なかなか食べられないような滋味に溢れている。
「……ほんとだ、美味しい。はぁー、空腹のおなかにようやくものを入れられたぁ…………」
口に含んだものを飲み込むと、生き返ったような心地がする。例えるなら、戦慄という名の荒れ地に降る、恵みの雨の様。もう一口、もう一口……なんて、どんどん箸が進んでしまう。
「比女織さんも、今朝は寝坊でしたの? 私も今日に限って失態を侵してしまいまして。そのせいで朝食を頂き損ねてしまったため、いっそうカレーが美味しく感じますわ!」
「やっぱり久世さんもそうだったの? 私も同じで……あっ!」
そこまで言って、ほんわかしていたせいで頭からすっぽ抜けていた朝の件を謝ろうとしたが──雅の言葉の方が、少し早かった。
「えぇ、朝の件はお許しくださいませ。普段ならうちの烈がいち早く気付いて、私を止めてくれるのですけれど……今日に限っては比女織さんに気付かなかったなどと申しておりまして」
「いやいや! 私こそ本当にごめんなさい! 起きたら時間ギリギリで、もうダメかと思っちゃって。あぁいや、実際ダメだったんだけれど……」
雅も同じように思ってくれていたのならば、密香も謝りやすいというものだ。互いにやらかした結果のようだったし、この件は水に流せそうだ──と思うと同時に、雅の発した聞き慣れない単語を、ついオウム返しした。
「──ん? れつ?」
密香がそう言うと、雅はくす、という効果音でもつきそうな優しい笑みを浮かべた。
「はい、れつです。……比女織さん、貴方もこちらをご存知のようですし、ご紹介いたしますわ。
烈、いらっしゃい」
雅がそう言うと、雅の近くの空間が歪む。そして────
「──お初にお目に掛かります。雅様の式神、烈でございます」
朝にも見た、あの長身の男が姿を現す。
令嬢に仕える執事のような、慎ましやかながらも存在感を放つ彼。どこか浮世離れな外見に、やはりと察していたが……彼が烈というのか。
「改めまして……私の名前は、久世雅。
京の式神使いの家系、久世家の出身ですの。遥か故郷から、式神使いの修行のために、この四季山へやってきた次第ですわ!」
「……は、はぁ」
こういうところで気の利いた返しをできないのは、密香自身もあまりよく思っていないところである。
しかし、口元にカレーがついている状態でそう言われても、あまり説得力がないと思うのは自分だけではないだろう。
……ちなみに後から聞いた話だと、久世家というのは彼女の説明の通り、京都に構える陰陽道の家系であり、同業者からは割と有名なのだとか。累も名前を聞いてピンと来たらしく、情報を得るには時間を有さなかった。
「烈が見えるとあらば、比女織さんも式神使いなのでしょう? 貴方の式神も、差し支えなければご紹介いただきたいですわ」
「それはそう……ね。じゃ──」
密香が何かを言いかけると、今度は密香の隣あたりの空間が同じように歪み、烈と同じくらいの身長の男──累が姿を現した。
「はいはいよ。俺、復活!ってな」
「こいつが私の式神、累」
密香が雑に累を紹介してみせると、「累──ですわね。これから烈共々、末長くよろしくお願致します」なんて言いながら、雅が丁寧にお辞儀をした。それに合わせて隣に佇む烈も紳士的な礼をしたのを見て、自分の式神との違いを改めて認識する。八重野先輩の式神も見た後だし、式神っていうのは多種多様なんだなあと思った瞬間である。
累と烈が何やら雑談を始めたのを見てから、密香と雅も式神使いの二人ではなく、ただのクラスメイトの二人に戻る。
今日の日本史は板書の量以外良かっただの、次の時間の古典の予習があまりできていないだの……式神の話を最初にした以外は、極普通の女子高生的な会話を楽しんでいると、昼休みも残り二十分ほどになっていた。
少なくはない量の唐揚げ定食を平らげた密香が、セットでついてきた牛乳プリンの存在を思い出し、それが置いてあった方向に手を伸ばす──と。
「あれ?」
……無い。
特に移動させた覚えもないのだが──と思い、自分の使っているテーブルの近くを見渡してみるが、やはり牛乳プリンは忽然と姿を消していた。
「久世さん、私のデザート知らない?」
「比女織さんのデザート……えっと、今日唐揚げ定食には、牛乳プリンがついていたのでしたっけ? それならさっきまでそこに──」
そう言いながら雅がさっき密香が始めに見たところを指差してみせる。
「……ありませんわね」
「え、なんで……?」
ここまで話してから、密香はくるりと自分の後ろを向く。
そちらには、主人の愚痴でそれはそれは楽しそうに談笑している累と烈がいた。余計なこと、話してなければいいのだけれど。
「累、私のデザート持ってった?」
どうせ他に心当たりもないので、一応聞いてみるが──
「俺はヒメさんみたいに食い意地張ってねーよ、知らん知らん」
「ねえ、一言余計じゃない?」
あいにく、何の手がかりにもならなかった。実際、累が食事をしているところをまだ見たことがないので、今ここで牛乳プリンを食べるとは思いにくい。
ならば、一体……
「うーん、どういうこと────」
「おい、オレのプリンがねぇんだけど!」
密香がそう言いかけると、近くの席で昼食をとっていた名も知らぬ男子生徒が「オマエ盗ったんだろ!返せー!」なんて言っている。……密香と同じような状況になっていると、容易に推測できた。
その男子生徒の騒ぎが聞こえたからか、他の生徒も無意識にプリンの有無を確認し──そして、自分のところにも無いなんていうどよめきが、段々と食堂に広がっていく。
「……一体、何が起こってるの?」
思わず密香が首を傾げると、累も同じように首を傾げた。
「元から甘味はついてなくて、いきなり唐揚げ定食食ってた奴が全員、甘味があったっていう妄想に囚われた……ってだけじゃねーの? かかか」
「どんな怪奇現象よそれ……」
楽しそうに冗談を言う累を一蹴すると、雅が「なるほどなるほど……」と、思わせぶりな声を上げた。
「久世さん?」
「うふふ……何となくですけれど、目星が付きましてよ」
雅の声は、妙に弾んでいる。ある意味危機的な状況に、似つかわしくない声だ。
これには密香も不思議に思うが──次に雅が発した言葉は、彼女たちを立ち上がらせるには充分だった。
「これは────妖怪のにおいがいたしますわね」