第一話 比女織密香は方向音痴である
比女織密香という少女は、方向音痴である。
密香は幼い頃から、様々な場所で幾度も迷子になった。
父に連れられて来たショッピングモール、通っていた幼稚園のトイレの帰り、果ては見慣れた自分の家の中でさえ。昔から、密香の方向音痴は常人以上だった。
そんな密香の母は密香が生まれた時に他界していたため、密香は父子家庭に育っていた。それでも密香の父は密香を何不自由なく養うため、仕事三昧の日々を送れる人だった。
そんな父は度々、密香を気に入っていた母方の祖母に、『密香が寂しくないように』と言って、密香の保育を頼んでいた。
そして、そんな風に田舎の山で暮らしている祖母の家に預けられた時も、密香の方向音痴による迷子はよく起こった。
第二次世界大戦の苛烈さを幼い頃に味わったこともある祖母は、典型的な昭和の考え方の人である。
つまり、『子供は外で日が沈むまで体を動かして遊ぶのが良い』と言う考えを持っていた故、そう言い聞かされていた密香もよくいろんな遊びをした。
しかし密香は毎回、祖母に「危ないからお庭のお外に出ちゃあいけないよ」と言われていたにも関わらず、知らず知らずのうちに庭と庭の外を区切る垣根を越えて、ふらふらと変なところへ遊びに行ってしまっていた。
その中で密香は『転ぶと痛い』だとか『雑草をちぎると草の匂いがする』だとか、幼い子供特有の小さな発見を重ねていたので、そこに関してはとても大きな収穫だったのだが──まだ当時七歳程度の小さな子供が、保護者の目の届かぬところへ行ってしまうのは些か危ないことだった。
さっきも述べたとおり、密香の祖母は典型的な昭和の考え方の人である。
そのため、『子供は勝手に遊んで膝小僧に怪我を作ってくるものだ』と遊ばせてしまう放任主義的な面があった。
しかし何故か、密香の祖母はいつも日が沈む前には密香を確実に見つけ、安全に連れ帰っていたのである。
これには、自分が迷子になりやすいと言う自覚があった幼い密香でさえ疑問に抱いた。
大人たちはいつも自分を見つけてくれるが時間がかかるのに、どうして祖母だけは自分のことをちゃんと見つけてくれるのだろう、と。
「ばーちゃん、どうしてばーちゃんはいつもみつかのこと、ちゃんと見つけられるの?」
小学二年生の可愛らしい日本語で、密香は自分をおんぶしている祖母に尋ねた。
「ふふ、それはねぇ」
これは、童話の赤ずきんに出てくるおばあちゃんの振りをした狼のような、祖母の口癖。
もしかしたら本当は自分の大好きなばーちゃんじゃなくて、密香を食べてしまう悪い狼ではないかと想像したこともある。
でもこう言っている時の祖母の表情はとても優しくて、狼のようには見えない。祖母の間延びした口調は、まだ日本語が完璧ではない密香に聞き取りやすくするための言葉使いだ。優しい祖母の『それはねぇ』が、密香は大好きだった。
「ばーちゃんのことを助けてくれる神様がねぇ、密香ちゃんのこといつも見ててくれるからだよぉ。ちゃあんと密香ちゃんが怖いと思わないように、暗くなる前にばーちゃんに教えてくれるからねぇ」
──祖母は度々、御伽噺のような話をするのだ。
それが密香は気に入らない。まるで自分はまだまだ子供だと言われているように思えたから。
でも「嘘だぁ!」なんて密香が声を上げると、祖母はふふふと楽しそうに笑うのだ。
「それじゃあ、どんな神様なの!」
密香が小さな口から大きな声を張り上げると、祖母はまた口癖を唱えた。
「それはねぇ────……
●
比女織密香という少女は、方向音痴である。
……正確に言えば、「高校生として成長した今も、重度の方向音痴である」……とでも言ったところだろうか。
そんな密香が今迷っているのは、入学式を終えて昇降口に向かうまでの道のりだ。まだ自分の教室の位置さえあやふやな、新しい校舎だったせい──とも思えるが、密香の場合は単に方向音痴が酷すぎるだけである。
同じくらいの時間に帰る同級生たちの列にいたはずが、現に物音一つしない廊下に一人で立っていた。階段を上った覚えも下った覚えもあるから此処が何階だかもわからないし、どの方向に進めば帰れるかなんて見当も付かない。
この高校──五行高校は山形県四季山の中腹に位置する、公立高校である。
公の情報的には、歴史は古く、偏差値はそこそこだとか言うのだろうが、そこは今はどうでもいい。
何よりも五行高校で一番の良いところであり悪いところでもあるのは、山の中に位置するために寮がある、と言うことだ。
登校にいちいち山登りが必要となるので、ほとんどの生徒は嫌でも寮で寝泊りを行うことになる。
これは思春期特有の家族関係に悩む青少年や、世の全てを遮断して勉学に励みたいと思う学生たちにはとても好都合な条件であり、五行高校の偏差値を底上げする人気さを保持する一つの要因だった。
しかし単純に悪いところとして、山の中なために電波が悪く、Wi-Fiなども存在はしているが快適な速度を持たないことがあげられる。
今は電子機器だけでなく、若者たちまでも「Wi-Fiがないと生きていけない!」と言う乱世であるため、そこら辺の高校の生徒たちにとっては苦痛でしかない。Wi-Fiが実質無いのと同じなのだから、ほとんど全ての時間スマートフォンなしで生活しているようなものになってしまう。
まぁインターネット環境の誘惑に負けたくないという鋼の意志を持つ学生たちにとっては、この点も嬉しい条件ではあるのだろうが。
……話を戻そう。
密香はそんな五行高校に入学してから初めて立ち入ったが、朝は入学式の行われる体育館への列に乗ったりすることでなんとか乗り切っていた。もし列が無かったら、そこで既に迷っていただろう。
帰宅のために昇降口へ行く道は、一年生の教室がある四階からそのまま四回降りるだけで済むはずなのだが……それだけなのに、密香は道に迷っている。原因が『分からなくなったからとりあえず戻ろうと階段を上ってしまったこと』であることに気付けるのなら、密香はこう簡単に迷ったりすることは無いだろうが。
密香は怖がりなところもなく、多少他の女子よりも勇敢なところはあるが……流石に、他の足音が聞こえないほど自分一人しかいないことには、『まずいな』と言った感覚を覚え始めていた。
手当たり次第に階段を降りていくのが正しいと判断し、さっき上ってしまった階段を探して辺りをうろうろと彷徨き始める。
──……やっぱり、空気がいいな。
迷子なのだからそんな呑気なことを言っている場合ではないことは理解してはいるが、ふと、そんなことを思った。
この四季山はもとより、密香の祖母が住んでいた山である。幼い頃にこの山で遊んでいたのは、成長した密香の記憶にも色濃く残っていた。
空気は美味しく、そして心地よい涼しさが身に沁みる。大都会東京の排気ガスを吸い続けながらしばらく生きていた密香にとって、ここはとても癒される場所だった。
今も、制服のブレザーの隙間から入ってくる優しい風が、心地いい──。
──ん?
そう思ってから、密香は思わず辺りを見渡した。
確かに今──風が、後ろから吹いてきた。
若干大きな風だったため、気のせいではない。
しかし、密香の背後にあるのは二年一組と書かれた閉まっている教室だけ。すなわち、窓は閉まっている。
今密香は校長室の札が掲げられた部屋と、中にキャンバスが置かれている大きな部屋が作る角にいる。どちらの部屋も閉まっていて、あんな風が入って来れるはずがない。
校舎は中庭を四角く囲うように作られた形をしており、中庭に面するガラス張りの窓はある。しかしそれも開いていない。
では、どこから風が入ってきた?
考えようとすると、後ろからタンタンタン、とリズミカルな音がした。
音の方を見るとそこには階段があり、そこから男子生徒が上がってきたようだった。あの旋律は足音だったらしい。
上がってきた男子生徒はブレザーを脱いで中のシャツの袖をまくった、夏服のような姿の青年。
長い髪を後ろで一つにまとめていて、背丈は密香より高い。シャツのボタンを開けてゆるく着崩している様子を見ると、密香よりも先輩なのだろう。
一点気になる点を挙げるとすれば、彼が右手にひとつの見慣れない棒を持っているところだろうか。あれは……あぁ、神社でよく見る──正式名称を『大幣』と言ったはずだ。何であんなものを持っているんだ……?
「うーん、こういう時に宙と空がいたら楽なんだけど────あれ? どうしてこんなところに生徒が?」
額に汗を滲ませていて、今走ってここまできましたと言わんばかりの体勢のまま、青年が密香を見てそう呟いた。
青年は、一瞬ばかり背を向けて考え込むような姿勢を見せた後、密香の方に向き直る。
「……もしかして。君、入学式終わりの一年生で、道に迷ってたりする?」
青年の名推理に思わず拍手でもしたくなったが、照れもあり初対面でもあるのでそんなことはできない。
「……、そんなところです」
密香は、あまり愛想が無い方である。
「それなら昇降口まで案内するよ。これでも先輩だからね」
まさに迷路という名の地獄に降りてきた、救いの蜘蛛の糸。この青年が、密香の目には眩しく見えた。念のためもう一度言っておくが、迷っているのは密香の方向音痴のせいであり、この校舎自体は断じて迷路的構造では無い。
「助かります……」
恐縮しながら密香が答えると、青年──先輩はついてきて、というジェスチャーをして、今登ってきた階段を降り始めた。……いや、先輩は今この階段から登ってきたのに、降りてしまうのか?
「……あの、先輩はこの階に何か用事があったんじゃないんですか?」
「あー……そうなんだけど、先に君をどうにか──」
ひゅう────
──また、風。さっき感じたものよりも強く冷たく──数秒満たない程度の風だったが、膝より少し上の丈のスカートとくるぶしまでの靴下しかない制服姿では、流石に寒い。
風が止んだのを感じて冷えた足をさすろうとすると──右足の膝下に、見覚えのない小さな切り傷が一つできていた。
「……先輩、これ──」
話しかけようとして先輩の方を向くと、そこには既に先輩の姿がない。
少し前方へ視線をずらすと、そこには走り出した先輩の姿があり、向かう先は、先程の風が吹いていった方向のようだった。
そして、その先輩の向かう先に何か茶色い物体がある。よく目を凝らすと──
ぴゅう────
反射で目を瞑る。
まただ。どこからともなく吹いてくる不気味な風だった。風が止んで目を開けたときには、目線の先に、もう茶色いそれはなくなっていた。
今度は密香に向かって吹いてくる方向の風だった。そう思い、風の吹いた先を見ると、茶色い物体はそっちの方に移っていた。
よく目を凝らしてみる。
……あれは何?
その茶色い物体は、見てくれの愛らしい小動物……イタチのように見えたが──いや、それはおかしい。
イタチは、宙に浮くはずがないのだから。
「くっ、また逃げられたっ!」
そう叫んだのは先輩である。その声を聞いたイタチは、ニヒヒと言ったように笑うと風へと姿を変え、またどこかへいなくなってしまう。
「先輩、あのイタチは──?」
「だめだな、追いかけてもこれじゃ逃げられちゃ……ん? あれ、君も見えるのかい? 鎌鼬」
鎌鼬。
幼い頃に妖怪がテーマのアニメを見たときの記憶では、つむじ風に乗って現れては人を切りつけるイタチの妖怪だったか。出遭った者は、主に脚に刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、痛みはなく傷からも血が出ないようなもの……だった気がする。なるほど、足の傷は、まさにそれだ。
もう一度足をよく見ると、今度は左足のすねの裏に、また小さな切り傷ができている。
妖怪というものは、人智の及ばぬ超常的現象。
正確には、昔の人達が目に見えない自然現象──鎌鼬の場合は、鋭い風で足が切れること──を、妖怪というあやかしのせいにした、というこじつけから始まった言い伝えだ。
自然現象なのだから目に見えないのは当たり前で、妖怪は一般人の目には見えないものなのだが……残念ながら密香は昔から時々そういったものが視える体質で、毎回そうと言うわけでは無いがそれに釣られてフラフラと迷子になったこともあった。
「見えるのなら話が早いね。僕はあいつを追ってここまで来たんだけど……生憎、今みたいに逃げられててね」
「先輩が、ですか?」
「そうだよ。いたずら好きなだけなんだけど、追いかければ逃げるし、追いかけなければ風を吹かせてちょっかいをかける。とんだ迷惑なやつだよ。僕はズボンだから実害はないけど、君はそう言うわけにもいかないよね……」
先輩が密香の膝に目線を向けながら、密香のいるところまで歩いて戻る。それとほぼ同時に、また空気を切り裂く高い音が──
びゅう──────
「ごめん、失礼」
先輩は密香を背にして風の吹く方向に向き直ると、手に持っていた大幣をぴゅっと風に似た音を立てながら、真下へと振り下ろした。
すると、風が直角に──真横に逸れていったような感覚が、密香にも感じられた。
「申し遅れたけど、僕は二年生の八重野」
そう聞くと、密香の記憶にヒットする建物が現れる。
「あぁ、西の神社の」
「そうそう。新入生なのに、よく知ってるね」
四季山内にある建造物は五行高校だけではない。その他の建物のうちの一つを、八重野神社と言う。
密香はまだ四季山に住み始めてから一週間経たない程度だが、祖母の家として来た時を含めれば、通算で二年程度はここで過ごしていたことになる。
その時に、初詣として祖母と共にその神社に行った記憶があった。祖母の住む──今は密香の住んでいる比女織邸からは少しばかり遠いので、行くのに苦労したのも、今となってはいい思い出だ。
八重野というからには、この先輩は八重野神社のご子息で間違いないだろう。それなら妖怪を追いかけるときの武器が大幣なのも、妖怪である鎌鼬の姿が見えるのも納得が行く。
神社の息子としての力もばっちりらしく、ズボンで防護はされているものの、両足のどこを見ても新しい傷は見当たらない。大幣を振り下ろす動作には、災いや妖怪のようなものを退けるような効果がある……という話も聞くくらいだ。
「今まで通りだったら、一度姿を消すと、戻ってきたりはしなかったんだけどなぁ。ちゃんと切り傷をつけられる狙いを見つけたから、帰ってきたのかも。……ま、僕にとっては退治できるから好都合なんだけど」
「……まるで私が囮みたいな物言いですね」
「はは、そう言ったつもりは滅相もないけどね」
しかし、そんな傍迷惑なことをする妖怪が出る時に学校にいたとは……なんたる不運だろうか。
「多分このまま君を昇降口まで連れていってもずっとついてくる可能性があるし、ちゃんとここでどうにかしないといけないかな……あ、そうだ」
ちょっとついてきて、という八重野の後ろを歩いていくと、生徒会室と書かれた小さな部屋の前まで来た。鍵は開いていたらしく、八重野は扉を難なく開くと、密香に入るよう促す。
「流石に危ないだろうし、少しここで待っててもらっててもいいかな? 女の子の足に傷を増やすようなことはしたくないからね」
「……わかりました。待ってます」
さっきの様子を見る限り、少なくとも彼は鎌鼬をどうにかすることにおいては信用に値するだろう。
すぐ戻るから、と言って八重野が生徒会室を後に、扉を閉める。後ろ姿を扉の小窓から見送った後、密香は後ろを振り向いて生徒会室をじっと見据えた。
……生徒会室をまじまじと見学できる機会など、生徒会に所属するつもりが今のところ全く無い密香にとってはまたとないチャンスだ。せっかくなら鎌鼬の被害者として、目一杯楽しませてもらうことにしよう。
生徒会室は教室を半分にした程度の広さの、奥に広い長方形の部屋だ。部屋の中央に長方形の机、その周りに五脚のパイプ椅子が置かれている。卓上には、名前を示す三角柱が置かれているようだ。
あ、あの瑞白という名前の人、入学式の時に挨拶してたような。近くには八重野と書かれた三角柱も置かれている。彼も生徒会執行部だったのか。
部屋の構造は、長方形の辺でいう短い二辺は片方が入り口、その対の片方は窓。長い二辺は両方ガラス扉付きの本棚があるが、右側の壁の本棚は左に比べて半分ほどの大きさな上に本棚の無い部分には戸がある。
戸の扉は鍵がかかっているようで開かないが、扉の窓から覗いて見ると、中には入学式で使っていた紅白の花飾りがついた一年一組から四組までの立て札が置いてある。
中には行事で使ったものなんかが収納されているのだろう、というのを想像するのは容易だ。
簡単に生徒会室の作りを理解したところで、一番面白そうだと感じた、ガラス戸の本棚を眺め始める。
中にはバスケットボール部やら野球部やら宛のトロフィーが置かれているところもあるが、基本的には「〇〇年 生徒会執行部活動記録」とラベルが貼られた厚いファイルでびっしりと敷き詰められていた。トロフィーに関しては普通校長室とか、もう少し人の目に入りやすいところに置いた方がいいと思うのだけれど。
……いや、よく見ると、ここに飾られているのは県大会優勝以上の記録ではあるものの、10年以上前の古いものしか置かれていない。単純に「古いからもういいかなって感じだけど、良い記録だし勿体ないからこの辺に飾っておこう」という感じなのだろうか。そういえば迷っている途中、どこかの廊下でトロフィーが山ほど飾られているのを見たような。
「……あれ」
ファイルとトロフィーに混じって、不審なものを発見した。
ガラス戸をそっと開き、見つけたのは──少し大きめな立方体の木箱。
手にとって眺めてみても、それはただの木箱に違いない。……しかし、密香にとっては、どこかで見たことがあるような気がするものだ。
何処で見たのかと考えていると、蓋らしい切り目が下の方にあり、木箱が上下逆に置かれていたらしいことに気付く。
裏返してみると、そこには墨で書かれた綺麗でかっちりとした字が大きく一文字書かれた紙が貼られており──
──これ、祖母の字ではないか?
この四角いのに堅苦しすぎない、優しい字体には見覚えがある。
そういえば、この木箱を見たのは祖母の家の物置だった……ような気がしてきた。
書いてある字は『累』。ご丁寧に、『かさね』と読み仮名まで振られている。
この字が意味する言葉はわからない。
それでも、祖母──身内が関わっていそうならば、密香も中身を知る権利くらいはあるだろう。……生徒会室にあったという点は、無視するとして。
恐る恐る木箱の蓋を開けてみると、箱の中には普遍的な縄が入っていた。
神社で見かけるような太い──注連縄。正確に言えば、直径五センチほどの太い注連縄が、よくある紐の結び方をして入れられていた。伸ばしたら三十センチくらいだろうと想像できる程度で、長くはない。
「……何、これ」
これが何であるかはわかるのだが、そういったことではなく。
入学先の高校で見つけた、亡き祖母の形見かもしれない箱。入っていたのは注連縄。
……祖母が一体どういう意図でこれを遺し、そして五行高校に置いたのかがわからない。
そこで、密香は発見する。蓋の裏にも紙──手紙が貼ってあり、そこには細々とした字でつらつらと書かれているようだ。これも祖母のものだろうか。
その文頭に描かれていた文字は──
『密香ちゃんへ。』
「──!」
やはり、祖母のもの──しかも私宛てで間違いない。そう確信する。
『この注連縄は、比女織のお家がずっと昔から受け継いできた特別な品です。もしも、人智の及ばないものに関して困ったことがあった時には、これがあなたを助けてくれるでしょう。』
後半部分がいやに強調されていたその文は、密香にしっかりと伝えようという祖母の気持ちが汲み取れる。
比女織の……ということはつまり、密香にいつか渡される日が来ていたかもしれない、と解釈できる。ただ、それは祖母の死と共に曖昧なものとなってしまった……という事だろうか。
──人智の及ばない、困ったこと──
外で八重野が対処しているとはいえ、端的に説明すれば今の密香は『鎌鼬に狙われているから避難中』、である。十分に困った状況ではありそうなものだ。
続きを、読む。
『もしもこの注連縄に力を借りたくなった時は、ここに書いた言葉を唱えてください。』
密香は躊躇いなく、口を開いた。
……ばーちゃん、この力──借りるね。
「『ひらけ、我が血脈と、我に力を授くものの縁』」
言葉を唱えると同時に、密香の足元に光る輪が広がり始める。
しかし当の密香はそれに気付く様子を見せず、祖母の遺した言葉を読み進めていった。
「『満たせ、我に力を授くものの血脈と、我を繋ぐ縁』」
光の輪は五芒星を描きながら広がり、最初一つであった輪は五つまで広がっている。数に連れて大きくなり、既に生徒会室の床の半分はそれで埋まってしまっていた。
「『応えよ、四方の行を依り結んだ姿の神霊よ、我に力を授けたまえ』」
──雷のような、眩い光。
「わっ──!」
木箱からいくつもの色が重なった純白の光が飛び出し、密香は思わず目をぎゅっと閉じた。瞼を閉じていても、赤い色が脳を攻撃してくるような感じがあって、目頭が痛くなってくる。
目はチカチカしたままだが、次第に光に目が慣れたか、光が弱くなってきたか、またその両方か。目を開けられるようになり、少しずつ瞼を開く。
それから、すぐである。
密香の金色の瞳が、御伽噺のような光景を捉えていたのは。
──眼前に現れしは、先程まで無かった、長身の男の姿。
明らかに、密香よりも二回り年上のよう。
男は赤色調の緩い和服に身を包んでいて、暗い赤の短髪。何より奇妙なのは、額から二本のツノが生えているところ。
──一言で表すなら、鬼、だ。
「よう、嬢ちゃん。俺の名前は?」
『──あなたのことを、いつも空の上から見守っています。比女織都戸子より』