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2.森下哲也の恋

 その人の存在に気付いたのは、いつだったろうか。グラウンドから見上げれば、いつでもそこに彼女の姿があった。

 放課後、サッカー部に所属していた俺はグラウンドで部活に励んでいた。

 ふと見上げた校舎の二階。渡り廊下の窓から、一人の女子生徒がこちらを見ていた。

 その姿に気付いた日から次の日も、また次の日も彼女は窓の向こうからサッカー部の練習を眺めていた。


「サッカー……好きなのかな?」


 そんな俺の独り言は、遠く離れた彼女には届かない。

 彼女の名前は、水野朋美さん。その名前も俺と同級生だということも、卒業アルバムを開いて初めて知った。

 同級生だったら高校生活の三年間、廊下ですれ違ったり行事で顔を合わせる機会もあったかもしれない。

 なのに俺の知っている彼女は、遠くから見ているだけの人だった。

 一度その存在を気にしてしまうと、頭の中から離れなくなった。

 部活中に良いプレーが出来ると、水野さんが見ていてくれただろうかと彼女の姿を探した。

 窓越しに水野さんと目が合ったような気がすると、嬉しくて自然と笑顔になれた。

 まだ話したこともない水野さんに、いつしか恋をするようになっていた。

 俺の……初恋だった。

 その初恋も突然、終わりを告げることとなった。

 ある日の放課後、いつものように部活に行こうとしたところで忘れ物に気が付いた。

 二階の教室まで忘れ物を取りに戻る途中、渡り廊下の方から声が聞こえてきた。

 俺は思わず曲がり角に身を潜めて、そっと様子を窺った。

 水野さんともう一人、ジャージ姿の男子が向かい合っているのが見えた。

 後ろ姿とは言え、こんなにも近くで水野さんを見るのは初めてだった。

 せめて横顔だけでも見れないものか。身を乗り出したところで、相手の男子の顔が目に映った。

 それは俺と同じサッカー部のキャプテン、相沢だった。


「いつも、見てくれているよね?」


 相沢が発した言葉に、胸を刃物でえぐられる思いがした。

 水野さんがサッカー部の練習を見ていたのは、相沢のことを見ていたのか。

 それから恋愛漫画で読んだみたいな、お決まりの告白の言葉。

 こうして盗み聞きしているのが悪いことのように思えて、すぐに立ち去らなくてはと考える。

 けど、水野さんの返事が気になってしまい、どうしても足が動かなかった。


「ごめんなさい……」


 水野さんは消え入りそうな声で、相沢に深く頭を下げて断った。

 想像した通りの綺麗な声で、相沢に対して本当に申し訳なく思っていることが俺にも伝わってくる。

 優しい人なんだということが、それだけで分かる。

 けれども、その次に耳に入った言葉はとても残酷な響きをたたえていた。


「今……好きな人がいるから」


 好きな人がいる。高校生なんだから、いても当たり前じゃないか。

 それなのに、どこかで期待していた。

 水野さんの心の中には、誰もいないことを願っていた。

 そんな期待は、水野さんの一言で立ち消えていった。

 俺が彼女の心の中に入り込む余地は無いんだと、本人の口から聞かされたのだから。

 床に張り付いていた俺の足は、俺の意思とは関係無く動いていった。

 渡り廊下とは反対方向へと走り出し、男子トイレの中に駆け込むと蛇口を目いっぱい捻った。

 冷水を頭から浴びながら、嗚咽と一緒に火のような涙を流し続けた。


「今……好きな人がいるから」


 水野さんの言葉は、翌日も翌週も頭から離れなかった。

 俺は部活中、意図的に校舎を見上げるのを止めていた。渡り廊下に立つ彼女の姿が目に入るのが、堪らなく辛かった。

 やがて部活を引退し、これで本当に水野さんとの繋がりも消えた。

 俺は受験勉強のため、放課後は図書室で過ごすことが多くなった。

 慣れない放課後の勉強の苦痛を紛れさせようと、ふと窓の外に目をやる。

 水野さんが鞄を抱えながら、グラウンドを横切って校門へと歩いていく姿が目に映った。

 好きな人がいる。その言葉を聞いた時から、忘れようとした相手だった。

 それでも胸の炎は、まだ熱く燃え続けていた。初恋という名の赤い炎が。


「気を付けて……帰りなよ」


 小さくなっていく水野さんの背中に向かって、不意に口から出る独り言。

 その響きが、自分の想いを自覚させる。

 それから毎日、俺は図書室の窓からグラウンドを見下ろした。

 二人の立ち位置は逆転し、俺の方が校舎から水野さんを見送るようになった。

 卒業の日まで、ずっと。

 高校を卒業し、これで本当に水野さんとはお別れ。俺の初恋も、本当の意味で終わりを告げた。


「あれから四年か……」


 高校卒業後、俺は志望の大学にギリギリで進学することができた。

 大学生活の四年間、キャンパスでは多くの女子との出会いもあった。

 けど、かつて水野さんに抱いた燃えるような恋心が生まれることは無かった。

 その大学も卒業し、四月から晴れて社会人の仲間入り。その出勤初日、さっそく満員電車の洗礼を受けた。

 降車駅のホームですし詰め状態から解放された俺は、そのまま一息入れることにした。

 人の波が、改札へと続く上り階段に殺到していく。そんな光景をホームの脇から眺めていると、我が目を疑う人物の顔を人混みの中に見つけた。


「水野さん……?」


 その顔は初恋相手の水野さんに似て、思い出の中の彼女よりずっと綺麗になっていた。

 髪も少し短くなり、メイクもしている。紺色のブレザーはグレーのスーツに変わり、キャラクターのストラップが付いていた学生鞄は大人の女性が持つバッグに変化していた。

 十代の頃は、遠くから見ていることしか出来なかった水野さんが、すぐ近くを通り過ぎていった。

 自然と俺の足は水野さんの後を追って、改札へと向かっていた。

 改札の手前で水野さんが、バッグの中から定期券を取り出した。その時、バッグから一緒に何かが落ちた。

 水野さんはそれに気付かず、改札を抜けていく。他の人の靴に踏まれる前に、俺は水野さんが落とした物を拾い上げた。

 それはピンク色の便箋で、赤いハート型のシールで封をしてある。一目でラブレターだと分かる手紙だった。

 誰に宛てた物なのだろうか。罪悪感を抱きつつも、便箋の端に書かれた宛名に目を通す。


「森下哲也様――」


 俺の名前だ。どうして、水野さんが俺の名前を? どうして、俺宛のラブレターなんかを?

 押し寄せる疑問の波に飲まれながら、俺は射し込む光を見たような気がしていた。真相と言う名の光を。

 もしかして水野さんが放課後、毎日のように渡り廊下に立ってサッカー部の練習を眺めていたのは、俺を見てくれていたのではないか。

 水野さんが相沢に言った「好きな人がいる」というのは、俺のことだったのではないか。

 もしそうだとしたら、俺は四年もの間、とんでもない誤解をしていたことになる。

 そのことにもっと早く気が付いていれば、全然違う四年間を過ごせたかもしれないというのに。

 四年という長い間、ずっと水野さんを悩ませていたのだ。俺の方も、水野さんを好きだったくせに。

 そして恐らく、水野さんは俺が同じ電車に乗っていたことに気が付いていない。

 俺がたまたまホームで休み、たまたま水野さんを見付けて、たまたま水野さんがこのラブレターを落とした。

 そういった偶然の重なりに、俺は運命の導きというものがあることを信じたくなった。

 高校時代、お互いに言い出せなかった想い。それは社会人になった今も、心の奥を温め続けてくれている。

 その想いを、今こそ打ち明ける時が来たのだ。

 水野さんの後を追い掛けると、彼女は上り階段の途中で立ち止まってバッグの中を探っているようだった。

 きっと、俺宛のラブレターが無くなっていることに気が付いたんだろう。

 彼女がラブレターを探しに戻ろうとこちらを振り返った時、俺はどんな顔をして何と声を掛けるべきなのか。

 やがて振り向いた水野さんと目が合う。信じられない、といった表情で俺を見つめながら。

 本当に綺麗になった。水野さんから見て、俺はどんな大人になっただろうか。

 十代の頃から変わらない子供に見えるだろうか。それとも、立派に成長したと言ってくれるだろうか。

 一段、一段ゆっくりと下りてくる水野さんの方へ俺も近付いていく。

 水野さんの目に俺がどう映っているかなんて、どうでもいい。こうして向き合えば、言葉にならない四年間分の喜びや切なさが込み上げてくる。

 水野さんへの想いは、思い出の中で光を放つ初恋だけじゃない。今、こうして目の前にいる水野さんのことが好きなんだ。

 再会の喜びと、自分の想いに改めて気付けた嬉しさから、俺はかつてのように自然と微笑んだ。


「水野さん――」


「森下君――」


 初めて呼び合う互いの名前。それなのに、その響きの中にはもう何年間もの愛が育まれているように感じられた。

 そして今日から俺たちの、本当の愛が始まっていくのだろう。


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