第一話 おっさん大尉、美少女に告白される
「ねえ大尉。あなたが《幽霊船》に来てくれて。意味もなく死んでいく、わたしたちを救ってくれて。みんな、感謝してるんだよ。だから。ぜったい、ぜったい帰ってきてね。そうしたら、わたし、言いたいことがあるんだ。ね、必ず戻るって、約束してちょーだい」
星を瞳に宿した少女と交わした指先は、マシン越しでもひどく柔らかかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
まず最初に見えたのは、儚げな少女の姿だった。機体頭部に搭載されたメイン・カメラ・アイが、七メートル下から鋼の巨人を無感動に見上げている彼女を捉えていた。
「はじめまして、イブキ・ハルノ剥奪大尉。汎人類統合軍のハンター」
糖蜜のように甘い声で少女が囁く。ごく小さな声量であったが、高性能の集音マイクはわずかな音すらも拾う。彼女が優雅に頭を下げると、腰まで伸ばした青白金色の髪が踊り、鱗粉めいた残光が空中に舞い散った。フェミニンなブラウスとタイトスカートに包んだ細い身体が、淡く彩られる。リアルタイムでの映像処理に、ほんの少しの乱れがあるようだった。
機体の光学部分を司るカメラ・アイは極めて高い画像分解処理能力を持っている。面をあげた少女の表情を、精彩に映し出す。
切り揃えられた前髪と、白い肌が人形を思わせる。だが意思の強そうな眉と、苦悩を抱え結んだ唇は紛れもない人間のそれであった。髪と同色の神秘的な瞳が瞬きすらせずじっと機体を見つめている。
知らない人物に、知らない場所。意識が暗黒から突然寄り戻されたかのようで、明瞭な思考ができなかった。
「ここは? 君はいったい、それに俺は――」
脳内に浮かべた疑問が即座に変換出力され、外部スピーカーが合成音を吐き出した。
壮年に差し掛かる男の声は、よく知っているものだった。
自分の声だ。彼女が名を口にした男の声だ。そうそれは、間違いなくイブキ・ハルノである自分のものだった。この全高七メートル半の巨人、汎人類統合軍の空間制圧用人型機動兵器レイズドベッドの搭乗者の。
搭乗している機体の名前はクレハ。
イブキはクレハに乗っているときはいつもそうしていたように、自己診断プログラムを走らせるように中央処理装置の機械脳に命じた。機械脳は極めて公正な存在で、イブキに客観的な事実を報告し、状況を冷静に把握するのにいつも役立っていたからだ。
ミューオン常温核融合炉、出力減衰稼働中。制御系や戦闘システムに多数のエラーを検出。駆動系の人造筋肉に腐敗と老廃物の蓄積を検知。左腕及び左脚、損壊。メイン・カメラのツインアイは、右眼は正常に機能しているが左目は保護用の対物レンズが失われカメラが剥き出しになっている。頭部機関銃を除き、武装を消失。
機体状況はお世辞にも良好とは言い難かった。
本来は鴉の暮羽色にも似た漆黒の装甲は傷つき、色褪せ、戦場に身を置いた経年による劣化を隠せずにいた。激しい戦闘の結果、相応のダメージを負っているのだ。特に左腕は損傷が酷く、元の多用途マニュピレータを失い、左脚と同様にカウンター・ウェイト代わりの仮設フレームが取り付けられているだけだった。
やがてクレハの診断は、機体から制御中枢ともいえる搭乗者、ハンター、つまりは人であるイブキへと至った。
バイタイル・サイン――確認できず。
脳波測定、不能。
脈拍、未検出。
心音不明。
混乱に拍車がかかる。すべての診断結果が、冷酷に搭乗者の、イブキ・ハルノの存在そのものを否定していた。
機械脳は嘘をつかない。あらゆる事象を精確に分析する。
そこに懐疑や慰めはない。
では、今ここにいるのは、クレハのなかにいるのは、そして少女が話しかけている自分は何者だというのだ。
「おかえり」
青白金色の少女が抑揚を欠いた口調で言った。
「おやすみ、良い夢を、おはよう、いい天気だね」
混乱する心が一気に冷え、怒りと不愉快さがとぐろを巻く。なぜか御し得ぬ激情が記憶の底から吹き上がっている。
少女は小首をかしげ、続けた。
「今日は素敵な一日になる予感がするよ」
「お前は、なんだ!」
スピーカーがハウリングをおこし、音の衝撃となって周囲を震わせる。
優雅に一礼し、フラットな声音で少女は名乗る。
「わたしの名前は、リコリス・ラディアータ。多文化共生局人類種保存委員会の第一種エンジニアです」
リコリスと名乗った少女の鉄面皮を前に、少なからずイブキは意を削がれた。
なぜ自分はこうも怒りに駆られたのか。
それは、リコリスの言葉が、船にいた彼女が言ったものと同じだったからだろうか。
郷愁を呼び起こす単語に、心がざわついた。
船。幽霊船。少年少女。彼女。守るもの。なにから? 敵だ。人類を破滅においやった、星界からの侵略者。
ドラコニア・インヴェクタ!
「戦争はどうなった? 龍どもは――ドラコニア・インヴェクタとの最終戦の行方は? 俺たち人類は勝ったのか? 多文化共生局とはなんだ? 統合軍に、そんな組織はなかった」
「ホモ・サピエンスは絶滅しました。わたしたちはホモ・ルグブリス。〝嘆きの人〟の名を与えられた、新世代の人類です」
リコリスの言葉にイブキは動揺し、絶望の叫びをあげそうになった。
人類が絶滅した。
じゃあ、人は、俺たちは、あの互いの生存と滅びを賭けた戦いに負けたのか。多数の犠牲を、両親を戦友を無辜の人々を殺されながらも、仲間たちとともにあと一歩というところ、王手までもう少しというところまで、龍を追い詰めたはずなのに! 今でも、あの、最後の一撃の感触が右手に残っているというのに!
だが、だが、そうであるのならば、新人類を名乗るリコリスは何者なのか。
機械脳が、自己診断を締め括る。
セミコンダクタは、前回のシステム・スリープより一四〇億秒の超過――クレハが現在に再起動されるまで、約四五〇年の時間経過を示していた。
「なんなんだ、これは!」
嘘だ。信じられない。圧し掛かる情報の不明瞭さと、膨大な時間の経過を理解しきれず、イブキはまたも感情を抑えきれず怒声をあげてしまう。戦場にいたときですら、ここまで心乱れたことはなかった。
割れた音がスピーカーに乗り、陰々と木霊していく。
耳障りなハウリングに動揺することなく、リコリスは上目遣いのまま、濡れた瞳でクレハを見つめている。
「イブキ、端的に言います」
「なにを」
「わたしと、セックスしてください」
「……は?」
「セックスというのは、ヒトの生殖行為のことです。知らないあなたは童貞ですか?」
いや意味は知ってるし経験もしとるがな、という言葉は呆然としすぎていて出てこなかった。
開いた口が塞がらない、という経験はそう多くない。
煽情的な言葉のわりに、リコリスは表情一つ変えることはなかった。説明を求めようとするイブキに、眼下のリコリスが再度口を開こうとし。
「セックスはいけない」
沈痛な声音。女の低い声が広域無線から聞こえ、状況がまたも一変した。
振動。波打つような衝撃が数度、建物を震えさせた。リコリスは立っていることすらできず、その場に膝をついた。数多の戦場に身を投じてきたイブキは、断続的な揺れがただの地震ではないことを直感していた。爆発が、多数。事故や自然災害の類ではない。明確な意志を持ち、破壊の行使がなされている。
これは、戦闘だ。
次の瞬間、光の柱が空間を貫いた。轟音とともに壁の一画が、ついで薙がれたように天面が崩れ落ちる。一陣の熱風により鋼鉄に見える素材がひしゃげ、捻じ曲げられ、焼き崩されたのだ。一拍の間を置き建材が崩壊し、剥離した落下片から埃と粉塵が立ち込める。
焼損した部分から淡い外光が差し込み、リコリス以外は見えなかった像が次々と浮かび上がる。
イブキがいるのは、四角い升目のように区切られた、無味乾燥とした広大な空間だった。なんらかの大がかりな実験用ホールに思えた。遥か遠く、正面の壁には一枚板のガラスが嵌め込まれている。
光学ズームで見れば、その向こう側では白衣に身を包んだ研究者らしき女たちがいた。クレハの鋭い視線は、全員がリコリスと同じくらいの年齢の少女たちであることを捉えていた。
研究者たちのひとり、方々に跳ねた薄桃色の髪をした小柄な少女がマイクを掴むと叫んだ。
「リコリスお姉さま、対要塞兵器の重粒子ビーム砲が使われました。五重の隔壁が一撃で損壊。中央政府セントラル・ドグマ隷下の部隊です! 一機が先行してます。無人機じゃ止められなかった、やつがくる!」
名前を呼ばれたリコリスは、吹き飛ばされた天面を見つめた。イブキもまた同様に機体のカメラ・アイを向ける。粉塵が吹き払われ、外と内の境界線に人影が現出。イオン・スラスター炎らしき紫色の残光を引きずりながら降下してくる。
外光に照らされ、血のような真紅の装甲が不吉に輝いた。
そいつが、右手に持っていたものを投げ捨てた。拗けたチューブやタンクが取り付けられた不格好な三角定規にも見える。乗用車よりも二回りは大きく、地響きめいた重低音を立てながら落着。合成素材らしき床面にひび割れを生じさせながら沈み込んでいくほどの重量だった。
武装を投げ捨てた人影は、クレハと同程度の巨体だった。
「第二師団のアイリスフレア。貴女ですか、ヴィクトリア・レギナエ」
乱入者の全容があらわになる。リコリスの呟きは、まさしくその姿を象徴していた。
人の似姿にも見えるアヤメ科の花のように、半身に花弁を広げた、何らかの機動兵器の類だ。
そいつは得物を捨てると右手を背中に回し、長大な馬上槍に似た武器を取り出し、しっかりと把持する。反対の手には身を覆うほどのシールドを握っていた。シールドには、十本の脚を持ち大牙を備えた異形の蟲を模したエンブレムが描かれている。
それはソリフギという名で知られ、砂漠で戦う兵士たちに恐れられた、とうの昔に絶滅した肉食虫だ。
鋼の巨人の磨き抜かれ光を反射する紅い外装は、ある種のけれん味があり、荘厳さすら兼ね備えている。まるで儀典用の、重甲冑を纏った騎士のようにも見えた。
イブキの知識にない機体――それは無骨さと工学的性能の高さを同時に突き詰めることを至上命題としていた、人類統合軍の設計思想とは正反対のマシンだ。
「お姉さま、逃げて!」
またも小柄な少女が叫ぶ。アイリスフレアと呼ばれた機動兵器は、明確なまでに戦闘行動をとっていた。
白熱した装甲が周囲の大気を高熱により揺らめかせる。兜の羽飾りじみた頭頂部のパーツが、辺りにレーザーレーダーを照射するのをクレハのパッシブセンサは感じる。頭部のバイザー・アイが獲物を求めるように周囲を走査。リコリスを見つめ、しばし視線が停止。ゆっくりと再び動きだした頭部は、次にクレハを見つめる。
アイリスフレアのバイザー・アイが妖しく輝いた。
「そんなに、そんなにそんなに男のチンポがいいのかぁ! やはりやはりそうなのか、リコリスゥ!」
さきほど聞こえたのと同じ、ハスキーな声の女が大絶叫する。
突然男性器の名前が叫ばれた事体をイブキは理解できず――そもそも、今現在のうち現状を正しく理解できたことなぞ一度もなかったが――だが、意識を平時から急速に切り替えていく。
今から起こるのは、紛れもない戦闘なのだ。
眼前にいるのは、敵だった。