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月誓歌  作者: 有須
修道女、どの世界も世知辛いと知る
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 刺繍は得意だ。

 修道院のバザーで売れば、そこそこの値が付くからだ。

 元貴族の修道女たちから教わって、細やかで華やかな意匠をいくつも知っているが、平民向けのバザー用にはもっとシンプルなものが好まれ、簡素な花柄や小鳥柄、縁取りステッチなどの需要のほうが高い。

 メイラは生成りの亜麻布にオフホワイトの刺繍糸で小さな花を刺す。

 チクチクと、同じ小花柄を幾つも幾つも。

「本当にお上手ですね」

 テーブルにカップを置きながら、ユリが手元を覗き込んで言った。

「練習に丁度いいのよ」

 メイラは手の動きを止めず、刺繍糸で細かい花弁を形作りながら微笑んだ。

 侍女たちには刺繍の練習のついでに孤児院へ寄付すると言ってあるが、実際はがっつりバザーでの売り物にするつもりだった。

 平民向けに年三回、貴族のご婦人向けに年一回。修道院で開催するバザーで小物を売り、子供たちの為の生活費に充てている。メイラがいないからと言って、彼らに寒い思いも、ひもじい思いもさせたくはない。

「リネンではなく、絹は使われないのですか?」

 普通貴族の女性は着なくなったドレスや使わなくなった小物類、あるいはドレスを作った時のあまり布などを寄付品にする。たいていは柔らかな絹、あるいは真っ白な綿。

 しかし、平民が日常使いにするには亜麻布が丈夫でいいと思うのだ。枕カバーやテーブルクロス、エプロンや子供服など、少し大きめの布に仕上げると何にでも再利用が利き重宝する。

「前に孤児院の女の子に、リネンのブラウスに刺繍をしてとお願いされたの。それ以来大抵リネンに刺すようにしてるわ。長く大切に使ってもらえるようだから」

 亜麻布は丈夫なので、繰り返し使える。ブラウスは古くなると肌着にリメイクされ、最後は雑巾になった。小さく刺繍を入れていたので、ボロボロになっても可愛く、女の子に人気だった。

「亜麻布は普段使いだから、小さくてもいいから綿がいいという子もいたけれど。彼女は草木やお花で布を染めて、色を付けたハンカチを見せてくれたわ」

 刺繍が終わり、糸始末をする。ユリに糸切りばさみを返し、出来上がったものを広げてみた。

「可愛らしいですね」

「うふふ、ありがとう」

 ふちに一周ぐるりと小花をあしらった、派手さはないが品のいいものに仕上がった。

 ハンカチにするには大きく、枕カバーにするには小さい。丁度食事で使うナフキンにいいサイズだろう。

「もっと作りたいわ。リネンの布はある?」

「はい。掃除用に多めに用意してあります。ですがメルシェイラさまが刺繍なさるのでしたら、商人に申し付けましてもっと良い品を取り寄せます」

「わたくしはかまわないのだけれど……足りなくなるのなら困るわね」

 後宮の備品なので、これまでメイラが手作業をしていたものより桁が一つ違うであろうほどの高級品だ。むしろこれ以上のものを持ってこられては、安価なリネン小物の域を超えてしまう。

「いえ、困るというようなことはございません」

「そう。ならこの布でかまわないわ。手触りもいいし、刺しやすい厚みだし」

 メイラは出来上がった布を丁寧に折りたたんだ。

 すでに水通しが住んでいる亜麻布は、ごわつきも少なく柔らかく手になじむ。できるならアイロンをかけて仕上げたいところだが、そこまでメイラがしようとすると、侍女たちに止められてしまうだろう。

「でも……そうね。もう少し刺繍糸が欲しいわね。白い木綿の布や、小さめの針も」

「かしこまりました。出入りの商人に面会に来るように申し伝えます」

「そうだわ。ミッシェル様にお見舞いの品をお贈りしようと思っていたの。丁度いいからエルブランのサスランに来るようにと伝えて?」

「はい、メルシェイラさま」

 メイラが三年間の領主を務めることになったエルブランは、帝都から馬車で二日の距離である。サスランは帝都とエルブランとを往復して任務にあたっている。

 メイラが何か入用なものがあったら、エルブランの商人が御用達としてやってくる。本来は役人であるサスランを呼びつけることはないのだが、ミッシェル皇妃への献上品ということで、相談しておきたかったのだ。

 カップの紅茶を飲み切り、畳んだ亜麻布をさりげなく手元に寄せる。

 ひそかに拭き掃除をしようとして見とがめられ、ごまかす為に刺繍という言い訳をしたのだが、思いのほか上手くいった。

 掃除はできなかったが、これで懸念だった手仕事ができる。バザーが開かれる二か月後までに、少しでも多く作っておきたい。

「ユリは刺繍はするの?」

「心得はありますが、メルシェイラさまのお手には及びません」

 万事にそつがない彼女のことだから、きっと上手いに違いない。うまく誘導すれば、バサー品の増援を頼めるかもしれない。

「今度一緒にやってみましょう」

 ユリは刺繍道具を裁縫箱に片付けながら、小さく頬にえくぼを浮かべた。

「ほんとうに上手くはありませんよ。先ほどの小花柄、図案を教えて頂けるとうれしいです」

「見た目よりずっと簡単なのよ」

 今度などと言わず、今すぐにでも……と再び裁縫道具を手に取ろうとしたのだが、不意に入り口の扉が高々とノックされて会話が途切れた。

「……何かしら」

「見てまいります」

 先ほどの猫の一件があったせいか、ユリの表情は険しかった。

 毅然と背筋を伸ばして扉の方へ向かうその姿を、嫌な予感を覚えながら見送る。

 メイドの手で片方だけ開かれた扉が、数秒後に両側に全開にされた。

 現れたのは萌黄色の上衣を身にまとった中年の男性と、一日前に後宮総支配だと紹介を受けた女官長イザベラ。

 メイラは反射的に席を立った。

 立ち姿の整った灰色の髪の男性が、まっすぐにメイラの方を向いて首を上下させた。

「妾妃メルシェイラ・ハーデス殿」

「……はい」

「今夜九時三十分、陛下が貴女様をお召しになられました」

 どくり、と心臓の鼓動が高まる。

 メイラは静かに息を飲み、口上を述べたその男性をじっと見つめた。

 ここは皇帝陛下の為の後宮。

 そしてメイラは妾妃。

 いつかは召されるのだろうと覚悟していたが、こんなに早いとは思ってもいなかった。


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