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「ロバート・ハーデス青竜騎士団長さまです」
「……通せ」
朝議の後、束になって机に乗っていた決議書に目を通し始めて一時間、秘書官のかすれ気味の声がその名を告げた。
ハロルドは「ハーデス」という名に漠然とした何かを思い浮かべ、そんな己に小さく首を振りつつ応えを返す。
「失礼いたします」
音もなく扉が開き、狭くはない執務室内に張りのある太い声が響いた。
金属鎧のこすれる音とともに武装した男が近づいてきて、手入れの行き届いた絨毯の上に膝を付く。
ハロルドは帯剣を外し脇に置く気配を目の端で追い、最後まで読み終えた書類にサインをしてから顔を上げた。
もちろん初対面ではない。
幾度となくあった国難に、時にともに剣を取り、時に戦いの命令書を手渡してきた。親しく言葉を交わしたことはほとんどないが、国を支える有用な人材だと思っている。
「久しいな」
「陛下に置かれましては……」
「堅苦しい挨拶はまあ良い」
ハロルドは執務机の向こう側で膝を付いている男を、改めてじっと見つめた。
若くはないが円熟味をましてきた青竜騎士団長は、その父親とはあまり似ていない。
ハーデス公爵はどう見ても非力な文官だが、息子であるロバートは背が高くがっしりとした肩幅をしていて、見るからに武人の体つきをしているのだ。
「宰相に話は聞いたか?」
「はい。水源の調査ということですが、学識者は同道いただけるのでしょうか」
「考えてはいる」
「できれば、塔の研究者をお願いしたいのですが」
「……ほう」
ハロルドは改めてマジマジとロバートを見下ろした。
この会見は極めて事務的なものになる予定だった。
命令の詳細は宰相から青竜騎士団長に伝えられ、疑問や要望もその時に話し合われているはずなのだ。ハロルドに直接嘆願したことがフィドール候に知られると、あまり良い顔はしないだろう。
「中立的立場の方でお願いします」
つまりは、宰相派の人間は嫌だと言いたいのだろう。
かといってハーデス公派閥の誰かを推挙しようとするわけでもなく、その点には好感が持てる。
「実は若いころに、ユクリノスの水源を近くで見たことがあります。領庁舎の地下に広大な湖があって、たっぷりの水位で水が湛えられておりました。あの水量が枯渇しそうだなど信じがたい事です。もし本当ならば由々しき事態。一人とは言わず、複数の専門家に調査をさせたほうが良いかと」
まっすぐな目が、微動だにせずこちらを見ている。
真摯なそのハシバミ色の瞳を見ながら、ハロルドは心の中で、「やはり父親とは似ていないな」と思った。
「……いいだろう。至急学者団を作らせる。だが翼竜に乗ることが条件だと手を挙げる者がいるかどうか」
「民間人にも乗りやすい、気性の優しいヤツを厳選しておきます」
真顔だったロバートが、ふいに目元に笑みをはいた。
暗い色味の金髪に反してやけに明るいその眼の色が、微笑を浮かべた瞬間柔らかくほぐれる。
そこに一瞬、どこかで見た覚えのある気配を感じて。
何だったかなと考えているうちに、秘書官により面会時間の終了が告げられた。
ハロルドのスケジュールは分刻みで定められており、次の面会予定者が外で待っているのだ。
頷いて退出するよう指示すると、ロバートは立ち上がり、騎士の礼を取る。
「……陛下」
そのまま踵を返すのだろうと書類に目を戻したところで、若干遠慮したような声が掛けられた。
顔をあげ、直立不動で何か言いたそうにしているロバートに視線を向ける。
「あの、妹のことですが」
一瞬、この男の妹=メルシェイラという図式が成り立たず、次いで、鼓動が妙な動きをするのを感じた。
「……メルシェイラか」
「はい」
「そうか、そのほうの義妹だったな」
ふと、彼を見ていて覚えた既視感の理由を悟った時、ハロルドは困惑した。
どこからどう見ても、屈強な武人であるロバートとメルシェイラに共通点などない。
髪の色も、目の色も、肌の色も、骨格も。
まったく違う鋳型で出来ているとしか思えない二人なのに、どうして似ていると思ったのだろう。
いや、彼女がハーデス公の養女だということは、親戚筋だという可能性も否定できないのか。
ハロルドは、動揺している己を自覚すると同時に、危機を抱いた。
女ひとりにここまで気持ちをかき乱された経験はない。これ以上はまずいと感情に蓋をして、強いて平常心を保とうとする。
「も、申し訳ございません。アレは高位貴族の令嬢としての教育を受けておりませんので、なにか陛下にご不快な」
険しくなったハロルドの表情を見たロバートが、慌てて大きく身を引き掌を胸に当てて、謝意を表すゼスチャーをした。
「いや」
メルシェイラを「アレ」と呼んだ。その気安い口調に抑えきれず沸き起こる不快感。
強引にそれを飲み込み、まだ何か言いたげな将軍に続きを促す。
「元気にしておりますでしょうか。慣れない場所ですので、困ったことなどないかと心配で」
心配するほど近しい仲だということか?
みぞおちの辺りに、黒く苦いものが渦をまいて溜まっていく。
「……そうか。気に掛けておく」
きょとんと馬鹿面をさらけ出している男に抱いたのは殺意だった。
否定しようにも、蓋をして見ないふりをしようにも。
握りしめたペンを折りそうになっている事実がそこにある。
ハロルドはじっと相手のハシバミ色の双眸を見据えた。
この男を誰にも気づかれないように抹殺する方法を幾通りも考え、確実にそれは成功するだろうと確信したところでようやく我に返る。
あまりに危険なその思考に、血の気が下がった。
長年問題もなく仕えてくれている家臣を、空想の中とは言え惨殺しようとしたのだ。ありえないと考える以前に、『誰にも知られることなく』可能だから構わないだろう、と思ってしまった己に鳩尾から酸っぱいものがこみ上げてきそうになる。
ロバートが多少いぶかし気な表情をしながらも退室した後、ハロルドはずいぶん前に入れられた冷えた茶をぐいとあおり、こみ上げてきたその不穏な塊を強いて嚥下した。
それでもなお、腹の中に渦巻く『何か』。気づかないふりをして仕事を続けても消えることはなく、不快感としてずっとその場にとどまり続ける。
あまたの美女を妻として侍らせている皇帝をして、それが『嫉妬』だということに気づきはしなかった。




