002
バスに乗り、市電に乗り換え、蓮は自分の住んでいる場所よりも人で溢れ、外国のデザインをモチーフにした大きな建物がある都内へと足を運んだ。
服装も、着物や袴姿の人よりも、国外から輸入した服装を着ている人たちがちらほらといた。
「やっぱり、賑やかなのは苦手だな」
響く車のエンジン音やクラッシュ音、賑やかな人の声。
人の少ない場所で生活している蓮にとっては、あまり都内は好きではなかった。
市電を降り、多くの人の波を反対方向へと進んで行く。
慌ただしい病院の前を通り、白い彼岸花を手にした男の隣を通り過ぎ、味のある古い本屋の隣の店。その店の階段を登り、蓮は扉を開いた。
店内にドアベルの音が響く。シーンと静まり返った店内には、お客の姿はなかった。
木の床の上を歩き、迷いなくカウンターへと足を運ぶ蓮。そこには、タバコを吸いながら新聞を読む、一人の男がいた。
「よぉ蓮、ご苦労さん」
「仕事中にタバコを吸うな。着物に匂いが染み付くだろ」
「いや、暇なもんでな」
「客足は?」
「見ての通りだよ。わざとか?」
彼は紅。蓮の旧友で、この店の跡取りである。
紅の家は、古くから酒を売っている店だ。女児が生まれず、男二人が生まれて長男が後を次ぐ予定だったが、事故で亡くなり、急遽彼が後を次ぐこととなった。
蓮と同じで、彼も両親から厳しい教育を受けていた。だからたまに、お互いに愚痴のこぼし合いもしている。
「これ、頼まれてた袴」
「おぉー悪いな」
「タバコの火を消せ」
「いやぁ、本当にお前の見立てはいい」
「そりゃどうも」
「お前が羨ましいよ。俺と違って才能に恵まれている」
「俺に才能なんてない。ただ俺は、あいつの分まで頑張らないとって思っただけだ」
どこか、寂しげな顔をする蓮の表情を見て、紅は箱から新しいタバコを一本取り出し、吸い始めた。
「忘れろ、とは言わないが……いい加減、その感情を桜花ちゃんに向けてやれよ。いつまでも、後ろを見てんじゃねぇーよ」
「知った口を聞くな。俺は……」
ぐっと、蓮は奥歯を噛みしめる。紅は深々とため息を着くと、古びた店内の天井を見上げる。
「あれからもう、10年ぐらい経つのか」
店内に漂うタバコの煙。漂う煙に目を向け、遠い記憶が蘇る………
*
蓮には妹がいた。
その子は生まれた瞬間、後継として期待されて、
蓮はその瞬間、誰からも期待されなくなった。
男は国のために軍人になり、女は家を守る。という決まりで、蓮は父より時が来たら軍に入ることを言いつけられていた。
しかし、事態は一変する。
蓮の妹、《凪沙》は病弱で、後を継げるような体ではなかった。
新しく子供が生まれてくる予定もなく、その事実がわかった瞬間に、家の後を蓮が次ぐことになった。
「お兄様」
凪沙は蓮によく懐いていた。そして、蓮もまた凪沙にとても優しかった。
両親からの教育は厳しかったが、合間にある凪沙との時間で、苦にはならずに頑張れた。蓮は、凪が愛おしくて堪らなかった。
それは、兄妹の関係ではなかった。
「お兄様、大好きです」
幼いながらに確信したその感情は《恋》だった。
自分よりも小さな手や体。肌は白く柔らかく、凪沙という存在がものすごく儚く、美しく見えた。
「ほら凪沙。これがこの前見せた着物の柄の花だよ」
「まぁ、わざわざ持って来てくださったんですか?」
「前に見たいって言ってただろ?父さんに言ったら、用意してくれた」
「お父様もお母様も、跡取りとしての教育は厳しいですが、とても優しい方ですからね」
凪沙の笑顔を見ると、蓮の胸がぎゅっと苦しくなる。もっと、もっと笑顔を見たい。凪沙に、たくさん笑っててほしいと、そう思っていた。
「蓮、彼女がお前の許嫁になる子だ」
「初めまして、檜桜花です」
二桁の歳になって間もなく、蓮は桜花と許嫁になった。だけど、お互いに結婚ということにピンとはこなかった。
家業の稽古の合間は、桜花と凪沙の三人で遊んだり、お話をしていた。
桜花は見た目ももちろんだが、物腰がすごく柔らかくて、心配りのできるいい子だった。
料理や裁縫も得意で、芸事も目を惹かれるほどにきれいだった。
「桜花さんが将来、お兄様のお嫁さんになるのなら、心配いりませんね」
「……そうだな」
その言葉は、あまり嬉しいものではなかった。
確かに桜花はとても素敵な子だ。だけど、蓮は彼女に恋心を抱いたりはしていない。蓮が好きなのは、実の妹である凪沙なのだから。
けれど血の繋がった妹と結ばれることはできない。だから、この気持ちを口にすることは許されなかった。
許されないのなら、せめてずっと彼女のそばにいたいと、そう願っていた。
だが、神様はそんなことを許すほど、優しい人物ではなかった。
「ぅ……ぐっ、ふ、ぅ……」
梅雨の時期。その日は雨が降り、家の庭には鮮やかな青色の紫陽花が咲いていた。そんな中で、凪沙は眠るように亡くなった。
穏やか、本当に眠っているかのように、彼女は呼吸をせずに、瞳を閉じていた。
一人、凪沙の亡骸の横で、触れることもできず、蓮はただ泣き続けた。
「凪沙、凪沙……俺は、お前を……」
死んでもなお、彼はその言葉を口にすることはできなかった。
まるで、神様がその言葉を禁じるかのように。
その日から、蓮の明るさがなくなった。
「蓮さん、そろそろ夕食の時間ですよ」
「あぁ、すぐ行くよ。ありがとう」
笑顔を浮かべても、昔のような暖かな笑みではなく、冷たいものだった。
そして、彼の目には生者を誰一人映さなかった。
彼の瞳に映っているのは、最も愛したたった一人の死者だった。
「桜花、苦労をかけるがよろしくな」
「はい、蓮さん」
それからしばらくして、蓮と桜花は結婚した。多くの人から祝され、蓮自身も家の跡取りとして、日々努力をしていた。
「……」
だけど、何をしても彼の心が満たされることはなかった。
毎日のように、凪沙の仏壇とお墓の前で手を合わせる。きっと目の前に凪沙がいる。そう信じて、蓮は虚空に手を伸ばす。
触れたい。声を聞きたい。もう一度声が聞きたい。暗い部屋で一人でいると、凪沙を激しく求め、胸が酷く苦しくなる。
「蓮さん……私は、ずっと傍にいますから」
「……すまない、俺は……」
「わかってます。ずっと一緒にいたんです、わかってます」
苦しむ彼を、まるで泣きじゃくる子供を慰めるように、桜花は優しく抱きしめて頭を撫でた。
「わかったうえで、貴方と一緒にいるんです」
わずかに目を伏せ、どこか寂しそうな声で彼女はそう口にして、彼が落ち着くまで頭を撫で続けた。
それが心地よくて、蓮はゆっくりと目を伏せて行く……—————