010
梅雨の時期に入り、天気は連日の雨だった。
店に客が来ることはほとんどなく、販売よりも着物の手入れの方が忙しくて大変だ。
「桜花、気分はどうだ」
仕事を一通り終え、お昼を食べ終えた蓮は、部屋で休んでいる桜花の部屋へと足を運んだ。
「襖、開けておくぞ」
「ありがとうございます」
「雨続きで嫌になるな」
降り続く雨。だが、庭の紫陽花が鮮やかに咲き、その光景はとても目を奪われるもので、どんよりとした気持ちにはならなかった。
「お店の方はどうですか?」
「この時期はダメだな。客足以上に着物の手入れの方が忙しい」
「すみません。私もお手伝いできればいいんですが」
「気にしなくていいんだよ。お前は体のことを考えろ」
「……はい」
桜花は、どこか複雑そうな表情を浮かべながら返事を返した。
蓮が凪沙を忘れていることは、すでに身内も知人も知っていた。死のショックで、無意識に記憶から消したのだろうというのが結論だった。だけど、桜花と友人の紅だけがその結論に納得していなかった。
「蓮さん」
「ん?」
「本当に、覚えてないんですか?……凪沙ちゃんのこと」
「……覚えていない。覚えていないが……」
蓮は、再び庭へと目を向けた。
降り続く雨、その雨に濡れる鮮やかな青と紫の紫陽花。
「声が……聴こえるんだ」
「声、ですか?」
「あぁ。誰かが、俺を呼ぶ声」
【雨は、あまり好きじゃないです】
【けど、×××がいつもきてくださるので、悪くないですよね】
それは女の子の声。よく通る、蓮の心を締め付ける声だった。
その声が、ここ最近聴こえる。
「とても、懐かしい声が聴こえ……」
その時、桜花が縋りつくように蓮の腕を掴んだ。
「お、おい。桜花」
体を震わせる桜花は、まるで何かに怯えているようだった。
握っている手に力がこもっていき、蓮は痛みを感じた。だけど、話すように咎めはしなかった。
「どうした。そんなに怯えていたら、お腹の子供にも伝わるぞ」
「蓮さんは、私を愛してくれてますか?」
「あぁ」
「……私は、その声の主が誰なのか、何となくわかります」
桜花の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
その涙をぬぐい、蓮は桜花の頭を優しく撫でた。
「嬉しい事なはずなのに、蓮さんが私から離れてしまうのではないのかと不安になるんです……」
その言葉を聞いて、蓮は思った。自分が忘れた人物は、桜花をこんなにも不安にさせるほどに大切な人だったのかと。
「桜花……」
「やっと……やっと蓮さんが私を見てくれた。でも、とても悲しいんです」
「……桜花は、その人を思い出してほしくないか?」
しばらく、桜花は俯いたまま動かなかった。だけど首を左右に降って、ぎゅっと蓮の腕を掴んだ。
「私にとっても大切な子なんです。だから、こんなにも複雑な感情が芽生えるんです」
「それは……」
【桜花さんを、不安にさせちゃダメですよ】
不意に聞こえた声に顔をあげるが、蓮は大きく目を見開いた。
雨が降り、薄暗くなった縁側に一人の女の子が立っていた。
長い黒髪に、赤い彼岸花が描かれた着物を着た女の子。その子が、蓮を見て笑みを浮かべた。
【桜花さんと一緒に幸せになるために、私とお別れしたんじゃないですか。だったら、愛してあげてください】
覚えがあった。その容姿に、口調、仕草に……この感情に……。
「なっ……」
【けどよかった】
少女はホッとした表情で、でもどこか幸せそうに笑みを浮かべていた。
【また、三人一緒ですね】
蓮は、強く桜花を抱きしめた。
突然のことで彼女は酷く驚いたが、声を押し殺すように泣く。
「蓮、さん……」
「桜花、こんな俺の側にずっと一緒にいてくれてありがとな」
突然そんなことを言われて、桜花はただ困惑するだけだった。蓮は大きくなった桜花のお腹を撫で、にっこりと笑みを桜花に向けた。
「三人で幸せになろうな」
「……はい」
何気ない言葉だった。だけど、桜花にはその言葉に込められた意味を理解した。長く一緒にいるのだ、その言葉の意味ぐらいわかると。だから、桜花は返事を返した。
部屋の中に雨音が鳴り響く。二人は互いに抱きしめあった。その様子を、紫陽花の前で少女は嬉しそうに見つめていた。




