夜のバルコニー
その日の夜どうしても寝付けなかったセリアは、自分が滞在している客室を抜け、いつでも開放しているこの屋敷でも大きさのあるバルコニーへ足を向けていた。
客室のある階と同じ階なので、便利が良かったというのもある。
少し肌寒いだろうと思い厚手のカーディガンを羽織ったセリアは、大きなガラス張りの扉を小さく押して、人一人通り抜けるだけの隙間をつくると静かに外に出た。
これでも夜遅くに部屋を抜け出しているという罪悪感はあるのだ。出来るだけ人目に付かないように細心の注意を払っての行動だった。
外に出れば辺りは当たり前のように暗かった。
暗雲は夜の暗さでその形を潜めている。
近くに川があるからか小さく水の流れる音がする。
このバルコニーは入り口の反対側に位置するため、見えるのはオーリンピオス山脈と川のみである。それが余計に周りの静けさを加速させているようにも思えた。人の気配とは無縁の場所だ。
バルコニーの柵のすぐ傍に立ったセリアは、カーディガンの前を重ね合わせると、その上から腕を組んで更に背中を丸めることで暖を取る。
時々吹く冷たい風のせいで妙に頭が冴え渡る気がした。
今日一日で沢山収穫があった事を皆は喜んでいたけれど、セリアとしてはなんとも言えない気持ちでいた。
この事件に、アイテール家が関わっているかもしれないという予感からくるものなのか。
何か、知ってはいけないことに足を踏み入れているような気がしてならないのだ。
そっと目を閉じれば、彼女は一瞬で300年前の時を遡る。
厳しい冬でも、大好きな人達に囲まれれば寒くなんてなかった。
自分が禄に着込みもしないで外で剣を振り回していれば、リアンが無言の圧力と共に何かを訴えてくる。それを軽く無視すればエヴァが上着を片手に慌ててやってくるのだ。もちろんそれらをすべてを華麗に無視するのがフィアナがフィアナである一番の理由だ。
その後何故かカイルがうっとおしいくらいの笑顔で剣の練習の相手になってくれた。
しばらく打ち合いをし、汗を掻いたので一息いれようとエヴァを振り返れば、いつの間にか兄まで参戦しいて自分がいかに頑固で言う事を聞かないかを乳姉妹と熱く語っているではないか。それに深く頷くのは間に挟まれた白騎士の彼。
「セリアさん、このままだと風邪を引くよ」
「っ!」
不意に声を掛けられて、300年前のあの日から一気に時が進んだ。目を開けたそこは真っ暗闇が広がるばかり。
すべては、もう遥か昔の事。懐かしんだ所で、それは記憶でしかない。
途端に落胆する心を無視して振りかえれば、銀髪の髪を緩く耳の下で一つ結びにし胸元に流した男性が、手に二つのティーカップを持って立っていた。
つい先ほどまで一緒に居た彼の姿。
無意識の内に唇がその名を紡ごうとした。
「………リア」
「彼、じゃないからね」
けれど、それは相手によって阻まれる。
「僕は、リュシアンだよ」
はい、そう言って彼は持っていたカップの一つをセリアに渡してきた。
前回のジェラミーとは違い、兄はそれでも穏やかに笑っていた。
苦笑いにも似たそれに、セリアは言葉を濁し小さくありがとうと呟きながら条件反射のようにカップを受け取る。
「また、昔を思い出してたの?」
セリアの隣に立ち、バルコニーの柵にカップを持った両腕を置き、リュシアンがセリアを横目に見てくるのが、居た堪れなさを助長させた。特に、リアンとリュシアンを間違えてしまったものだから尚更だ。
「あ、あぁ。………完全に無意識だったがな」
いつもの威勢の良さもキレもないのは、セリアが申し訳ないと思っているからに他ならない。それを理解しているのか、リュシアンはそれ以上の追及はせず、前を向いた。
「寒いね」
「あぁ」
「でもその紅茶を飲めば暖かいよ」
「あぁ。………暖かいな」
「もうすぐ秋だ」
「そう、だな」
「好きだよ」
「………」
リュシアンの真っ直ぐな好意を受け、セリアは言葉に詰まった。
どうしたものかと言葉なく横目でちらりと彼の方を見上げれば、リュシアンはセリアではなく、真っ直ぐ山の方を見つめていた。その瞳は苦しそうにも見える。
弟のジェラミーにしてもそうだ。
どういった思いで自分達に愛を乞うのだろうかと、セリアは不思議で仕方がなかった。自分達は、その愛を受け止めることも出来ないし、ましてや返すことだって無理なのに。彼らだってそれは承知の上だろうが。
二人の人間が並んでいるにも関わらず、夜のバルコニーは沈黙に包まれていた。
「お前の兄君は」
ここは話題を変えた方がいいだろうと、今度はセリアが話しかける事にした。
リュシアンがこちらを向く事で、視線が合わさる。そこに、先ほどの険しさはない。
少しホッとした。
そこでセリアは瞳を何度か瞬かせて固まった。何故ホッとしたのか、自分の感情に疑問が湧き上がる。リュシアンはいつも笑っているから、あまり苦しそうな表情は似合わないと、そう思ったのだ。
もっといえば、彼に険しい顔はしてほしくないと、いつも通り笑ってほしいと。
そう、思った。
「セリアさん?」
自分から話題を振ったのに、不自然な形で固まったセリアを、リュシアンが訝しげに見つめるのも無理はない。
「あ、あぁ!」
自分の変な思考を最果てにふっとばして、セリアは我に返った。
「兄上が、どうかした?」
「あれは、ずっとあんな感じなのか?」
ズズッと、両手で持っていた紅茶を少し啜る事で冷静さを得たセリアはようやく本題に入る事が出来た。
ミネルバ家の人間は元来良い人々である。アイテール家に代々仕えてきた家系で、教養も知性も申し分ない家だったはずだ。ましてや平民を見下すなんてこと、するような人々ではない。
といっても、それはセリアの生きていた300年前の事で、今の事情は正直分からない。
しかし、それでもユラウスの対応は、少しがっかりするものではあった。
リュシアンは笑う。
ただの笑いではない、少しの弱弱しさを含んだモノ。
「兄上があぁなってしまったのは、僕達双子のせいだよ」
「というと?」
「僕達双子が、あの『女神姫伝説』の白と黒の騎士そっくりに生まれてしまったことで、兄上の劣等感を生んでしまったんだ。僕達が成長するにつれて、噂は大きくなっていく。生まれ変わりだなんだのってね」
本当は違うのにね、とリュシアンは俯く。
もし自分が本当に白騎士の生まれ変わりだったら、もっと簡単に、目の前の琥珀の色を持つ女神の心を手に入れられたのだろうかと、ふとそんな考えが過った。
「そのせいで、一時期跡継ぎ問題にまで発展してしまったんだ。白と黒の騎士、どちらかがミネルバ家を継ぐのが良いのではないかって。そのせいで兄上は荒れたんだよ。そんな噂話を流す平民を憎むようにもなった。ある意味家族が原因だから、父上もあまり強くは出られなくて」
「なるほど」
思わぬ話の展開に、セリアも困惑しつつ納得したように頷く。
少しの同情心を抱くぐらいには、理解したつもりだ。
「これ以上自分達のせいで家がゴタゴタするのは見たくなくて、僕とジェラミーは王都に行く事にしたんだ。それ以来、あまり家には帰らないようにしていた。兄に、申し訳なくてね」
「………申し訳ないと思う割に、お前達の兄君への言葉には棘があったような気もするが?」
リュシアンの言葉に引っ掛かりを覚え言葉を返せば、彼は首を竦めて見せる。
「もうそろそろさ、大人になってもいいと思うんだよね。ここまで引きずられると、なんていうか、鬱陶しいくない?」
呆れたような笑顔を携えて、久々に黒いリュシアンが降臨した。
セリアは賢明にも無言を突き通すことにしたのであった。