老人ホームにぶち込むのはボケてからにして欲しかった
桜田ファミリア。明らかに例の世界遺産をもじった名前の老人ホームの個室で、主水はぼんやりとテレビを見ていた。
人は何故生まれ、何故死んで行くのか。
そんな事を考えて、意識高い高校生かワシは、と自嘲気味に自分にツッコミを入れる。
ボケているわけじゃない。そう、きっとまだボケてはいない。なのに何故ワシはここにいる。最近、主水はそんな事をずっと考えている。
体は老いさらばえても、心はまだまだ若いつもりだった。パソコンでブログを書く。タブレットでゲームに課金はする。孫とは最近の芸人のネタで盛り上がる。動画サイトMyTubeで多分若者に一番人気のMyTuberである†タナシン†のチャンネルは欠かさずチェックする。こんな若いジジイなかなかいないはずだ、世界のどこにこんなジジイがいるのか。
それなのに、嗚呼、それなのに。
「昼飯、まだか?」
ある日昼飯を食った後に口からポロリと出た、たったその一言で。息子夫婦は大騒ぎし、クソヤブ医者は痴呆の初期症状だと誤診し。水面下でこそこそと老人ホームの部屋は予約され。主水の言葉は聞き入れられず。あれよあれよと言う間にこうしてこの桜田ファミリアというふざけた名前の老人ホームにいる。
しかしまあいい、息子夫婦に気を遣わなくて済むし、孫は遊びに来るし、自分の事は自分でできるから看護師の評判もいい、個室だって最後の孝行のつもりか、割と豪華だ。しかし。
「主水さん、いますかー?」
ほらきた、と主水は独りごちた。顔は可愛いがちょっと図々しい看護師、山中さんの声が聞こえる。
「毎度すいませんねー、高遠さんの散歩、付き合って頂けます?」
何の因果か、こうしてボケ老人の面倒を見て散歩に付き合わされる羽目になっている。
いやワシも一応ボケて入ってきたって扱いなんだからそういう事頼むんじゃないよ、もしワシが突如徘徊の楽しさに目覚めて迷子になって警察の厄介になったら困るのはそっちだろうが、危機意識が足りないよ危機意識が、プロフェッショナルの仕事ってのは
「主水さん、寝てるんですかー?」
内心グチグチと毒づくが、山中さんの呼びかけでそれも中断される。このまま寝たふりをしてもいい、してもいいが。一度その作戦を実行した時、看護師にバレで気まずくなった事があるのだ。やっぱり嫌でした? と気遣う様に聞いてきたが、嫌に決まってるだろそのくらい察してくれよ、気遣ってる様で気遣ってないなお前、と思ったけど口には出せなかった。しかし、山中さんはその無言を自分の都合の良い様に解釈し、未だに高遠の散歩の面倒をワシが見る、といういっそ入居料下げてくれよと言いたくなる様な状況は続いている。
面倒くさいが運動にはなる、そういうメリットがある、損ばかりじゃあないはずだ、頑張れワシ、ワシ頑張れ、やれよやれよやればできる、連れてくんだよ高遠を散歩に!
主水は自分にハッパをかけて、あいよ、と返事をした。
「おう主水、お前そろそろ結婚しないのか? いつまでも独り身は辛いだろ、カヨちゃんでもデートに誘ってみろよ、脈ありだぞ?」
見た目は車椅子に乗ったボケジジイ、心は昭和の大学生、小学生からの腐れ縁の高遠が謎のテンションの高さで既に孫までいる主水に昔気があった女の話題を出す。桜田ファミリアのリノリウムの廊下で、場にそぐわぬ大声で。
やめろよお前、こないだも知り合いでも何でも無いバアさんの前でそういう話して、お前のせいでなんかバアさんと気まずくなっただろうが、やめろよ勘弁してくれよ。
しかし、それを口にしたところで、高遠の耳には届かないだろう。山中さんに話さなければ良かった、腐れ縁だなどと。しかし、思わず声が出たのだ、名札にある高遠主税という名前を見て。主水も主税も時代劇で定番の名前だ。昔は時代劇コンビなどと言われ、仲が良かったのだ。社会人になってからは疎遠だったのに、こんな所で会うなんてのは、なかなか衝撃的だった。声が出るのも宜なるかな。しかし、それでも。そこをなんとか我慢して、知らんぷりをしていれば。 主水は、そう思わずにはいられなかった。
ため息を吐いてから、気持ちを切り替えて笑顔を作る。
「おいおい、カヨちゃんはどっちかと言うとお前に気があるんだろ。気付いてないとは言わせないぞ」
「えー、そうか? 本当に? そうかなぁ、俺本気にしちゃうよ?」
ジジイが頬を赤らめるんじゃないよくねくねすんなよ気持ちわりぃ、ていうか確かこいつ告白して玉砕してた様な? そんなに好きだったのかよカヨちゃんの事。
それにしてもなかなかきついものがある。頭に髪はなく、顔には深いしわが刻み込まれ、ひげの色も白く、顎は時折カクカクと意味も無く動き、まぶたはハリが無く垂れ目になって、腕の皮はたるんでおり、ボタンは掛け違えて、ズボンの裾に隠れる足は頼りなく細い、紛うことなきボケジジイである、高遠は。そんなジジイの取るしぐさではないのだ。いっそ面白くすらある。主水は作り笑いではなく、本当に、少し笑った。
まあ、ボケた幼なじみの面倒を見るのも、また人生か。
「おう、本気にしろよ、言っちゃえよコクっちゃえよカヨちゃんに」
「えー、いいのか? お前はそれでいいのか? 言っちゃうよ俺本当に」
言って既に玉砕してるけどなお前は。主水は、内心ツッコミを入れながら、車椅子をエレベーターへと進めて行った。
「おじいちゃん!」
エレベーターから降りて進むと、主水にとって聞き慣れた声がする。こんな所にぶち込んでくれた一度ぶん殴りたい息子よりも何よりも、世界で一番かわいい孫だ。
「おう、来てくれたのか安優子。名前の通り優しいなお前は、優しいいい子だお前は」
主水が手を広げると、安優子が飛び込んでくる。皮びろびろだー、などと言いながら顔の皮を引っ張る。肩にかかる綺麗な黒髪に、頭の天辺を飾る編み込みの天使の輪が映える。中学生には少し子供っぽい気もしないでもないが、ぱっちりとしたつぶらな瞳とは調和が取れている様に思う。息子よ、この孫を産んでくれたという点だけは評価してもいい。
「おじいちゃん元気だった? 元気だよね? この皮のびろびろさはきっと元気の証!」
「おうおう元気だよ、ていうかこのジジイはお前が来てくれたらいつでも元気いっぱいだよ」
そんな風に主水は孫と楽しく会話していたが、
「カヨちゃん!?」
高遠の事を忘れていた。ていうか高遠こいつ今なんて言った? 主水の頭にはてなマークが浮かぶ。既に何度か高遠は孫を見ているはずだ。しかし、今日の高遠はいつもとはまた違ったボケ方をしているらしかった。
「カヨちゃん、ずっと前から好きでした! 付き合って下さい!」
「お前何言ってんだ、カヨちゃんじゃねぇよ孫だよ俺の! 殴るぞこの野郎」
「アメリカ人に道を教えてた時に英語の発音綺麗だなって思ったらなんか好きになってました!」
高遠に言葉は届いていない。退行を否定する言葉は聞こえないのだ。
「ていうかお前その惚れた理由なんなんだよ意味わかんねぇよ、んな事聞いてねぇよ」
ツッコミを入れた後、はっと気付いて安優子を見る。ぽかんとしている。
「え、何? どういう事?」
説明するのも嫌だが、説明しないわけにはいかなかった。
「いやさ、こいつボケて少しずつ退行してて、今大学生だからさ。安優子をその時惚れてたやつと勘違いしてんだよ」
主水の説明を聞くなり、安優子は弾けるように笑った。腹をよじり、笑いすぎて咳き込みながら、それでも笑った。
「え、マジで? 私カヨさんって人なんだ? ていうか大学生? 私中学生なのに」
目の端に涙を浮かべながら、楽しそうに安優子が言った。
「ああそうだよ、こいつにとって今お前カヨちゃんだから、しっかりフってやってくれ」
「え、フるの? 壁に当たって砕くの?」
返事をして、こらえきれなくなったのか、また安優子は笑った。
「実際昔告白してフられてんだよこいつ。過去を再現してやれ、我に返るかも知れん」
「えー、でもかわいそうだよ。別に本気なわけじゃないんだし、せめて今叶えてあげようよ、その恋心」
悪乗りしてるな孫よ、いや、これは優しさなのか?
判断がつかずに主水がまごまごしていると、安優子が笑いすぎて荒くなった呼吸を整え、車椅子の高遠の前に座り込み、目線を合わせた。
「ありがとう、高遠さん。私で良ければ、喜んで」
あ、なんかいいなぁ。ワシもボケたフリしたら安優子は同じ事言ってくれるだろうか。そんな馬鹿な事を主水が考えていると、高遠の目から涙がこぼれた。
「ほ、本当かい? ありがとう、ありがとうカヨちゃん」
涙を流しながら、安優子を抱きしめる。
まあ、ボケても尚覚えている心残りを果たす事ができたのだ、そのぐらいのセクハラは許してやろう。
安優子が高遠の頭をポンポンと叩き、体を離す。
「ほら、デートしようよ! せっかくだしさ!」
これはまあつまり散歩についてきてくれるという事なのだろうが、孫が同級生のボケジジイにデートだのなんだの言うのを聞くのは、なんだか微妙な心持ちになった。
まあいいさ、今日は高遠を喜ばせてやろう。少し優しい気持ちになって、主水はそう考えた。
「行こう、行こうよカヨちゃん! 那古水族館とかどうかな?」
おい高遠、もう潰れてるぞその水族館。内心ツッコミを入れるが、
「いいね、珍しい魚いるかな?」
安優子は話を合わせてくれた。賢いなぁ、優しいなぁ、安優子は。少し孫馬鹿になりながら、主水は車椅子を押した。