十六話 新たな名前の名づけ方
あの後、服だけでなく日用品も買い揃えたため、俺たちが帰宅したのは日が落ちてあたりが真っ暗になってからだった。
そうして、リビングで夕食を食べ終え、俺としてはようやく人心地つけたタイミング。
母さんは昨日と同じように、真剣な面持ちで光理と向かい合っていた。
「あのね、光理君の戸籍についてなんだけど……。意外とあっさりなんとかなりそうなのよ」
「……本当!?」
まさか、こんなに早く片が付くとは思わなかった。
それは光理も同じようで、赤い瞳をまん丸にしている。
すると、母さんは何束かの封筒を。
確か、今朝方手にしていたものである。
続けて、それらの中身をさっきまで食事をしていたテーブルにずらっと並べるのだが――。
どれも英語で書かれてて、俺にはなんて書いてあるのかさっぱりわからなかった。
「これは、海外の戸籍のようなものね」
「は、はあ」
とは言われても、ピンとこない。
そんな俺たちに、母さんは細かく噛み砕いてくれる。
「これで、『外国人の光理君』っていう架空の存在を捏造して、日本に留学していることにするの。そういう手順なら、一週間もせずに戸籍が作れるはずよ。幸い、今朝方にお父さんと繋がりの深い人にお願いしたら、快く引き受けてくれたから」
……俺の父さんは個人の貿易商をやっていて、世界中を飛び回っては怪しげな商品を買い漁ってきている。
正直、俺には何がいいのかよくわからないものばかり。
それどころか、おどろおどろとしていて見たくもないぐらいなのだが、好事家相手の評判は悪くないようで、顔が効くのだと以前自慢げに語っていた。
どうやら、今回はそれを利用しようという腹らしい。
しかし、そうなると疑問が一つ。
「……ちょっと待ってくれ、母さん。なんでわざわざ海外を経由する必要があるんだ?」
確かに、今の光理の容貌は日本人離れしていて、外国人といった方が自然なぐらいだろう。
だが、何故わざわざ回りくどいことをするのか。
そんなでっち上げが出来てしまうほどのコネなら、銀髪の少女が『日野 光理』だと書き換える方が、よっぽど手っ取り早いんじゃないだろうか?
俺にはそう思えてならなかったのだが、母さんはゆっくりと首を横にする。
「日本に住んでると実感がわかないんだけど、戸籍がかっちりとしている国って、先進国でもあんまり多くないのよ。だから、海外を経由した方が簡単に戸籍が捏造できるの。勿論、最初は庸介の言うような方面でも相談してみたんだけど……。どうしても一年以上はかかるって言われてしまって。ごめんなさいね、光理君。力になれなくて」
「ううん、ヨーコさんには本当に良くしてもらってるから……! あんまりわがまま言ったら、罰が当たっちゃうぐらいだよ!」
申し訳なさげな声色に対し、光理はあくまで明るい口調で言う。
それに安心したようで、母さんがほっと表情を緩めるのが俺には見えた。
「……でも、本当に光理はそれでいいのか?」
……そんな空気に水を差すようで心苦しいんだが、俺はぼそり。
光理が行方不明になっている間、教えてもらったことがある。
それは法律についてで、七年間所在が確認できなかった場合、戸籍的にその人物は死んだと扱われるという話。
だから、もし、あいつが別の人間として生きるのであれば、これから六年後、今度こそ俺の親友だった少年は死ぬこととなる。
本来の両親との繋がりも失われて……、だ。
『光理』は間違いなく、今俺の隣にいるのに。
俺にはそれがどうにも奇妙に感じられて、あいつ自身の問題だとわかっていても口にせずにはいられなかった。
「平気平気! どんな名前になっても、どんな姿になっても、僕は僕だもん! それに、六年なんてどうせあっという間だよ」
一方、あっけらかんとして光理。
ドン! と、まるでなんてことないように胸を叩く。
「形見はヨースケのおかげで僕の傍にあるし。それに……」
「それに……?」
「ねえ、ヨーコさん。新しく戸籍を作る場合の名前って、僕が決めてもいいんだよね?」
「ええ。そのつもりだったけど……。もう決まっているの?」
そして、こくんと頷いて用紙の端にさらさらと。
見慣れない字体で、間違いなく英語じゃない。
その証拠に、母さんも何と読むのか首を傾げていた。
「……なんて読むんだ?」
「ミコト・アーディガン、だよ。向こうの世界に召喚されたばかりのころ、頼るもののない僕の後ろ盾になってくれる人がいてさ。対外的に、僕はその人の養子になってたんだよ。……これなら、『日野 光理』じゃなくなっても、使い慣れた名前でいられる。いいと思わない?」
そう言って、書いた字を指でなぞる光理の表情は、過去を懐かしむように愛おしげで。
なんだか、俺の心に小さなしこりを残していた。
しかし、俺にその件を詳しく考える時間は与えられない。
何故なら、母さんによってまるきり話題が変わってしまったからだ。
「なら、戸籍の次は学校の話なんだけど……。光理君は勿論通いたいわよね?」
「うん! 僕も、ヨースケと同じ学校に通いたい!」
……昨晩の様子は一体なんだったんだろう。
あまりの心変わりの速さに若干釈然とはしないものの、望ましい変化ではあるので、一々茶々を入れるつもりはない。
それに、俺にはそれより先に、注釈を入れる必要があった。
「……あー、今の俺が通ってるのって、南高じゃなくて北高なんだ。それでもいいのか?」
北高とは、偏差値があまり高くなく、家から最も遠く離れている高校だ。
一年前の光理の志望校である、南高とは正反対。
そこに通うとなれば、正直、複雑な心境なんじゃないかと気にかかる。
「大丈夫だよ、ヨースケと一緒ならどんな学校でも楽しいし! そもそも、僕って一年間勉強が遅れてるんだよ? 南高に入っても、多分ついていけなかったと思う」
「……なら、いいんだけどな」
しかし、光理はそんなことかと言わんばかりに、俺の懸念を笑い飛ばしてくれる。
おかげで、少しだけ空気が和らいだように感じられた。
もっとも、俺にはもう一件、伝えなければならないことがあるのだが……。
まごまごとして口に出来ないでいると、母さんがパンと手を叩いて視線を自分へと向ける。
「とりあえず、お話は纏まったってことでいいのかしら?」
……なんとなく嫌な予感がした。
こういうとき、母さんの提案は、往々にして突拍子がないものなのだ。
そして、その推測は当たっていて――。
「じゃあ、これから二週間――夏休みが終わるまで、二人とも外出禁止ね。その間に庸介は夏休みの宿題を、光理君は一年分の勉強を済ませること。いいわね?」
満面の笑みでそう告げるのだ。