逃げてその先に
そろそろ授業が始まりそうだったので、一旦夏穂との話を切り上げ教室に戻ってきた。
先ほどの夏穂の爆弾発言のせいでクラスメイトの――主に男子から――尋問に遭うかと思っていたが、俺の懸念とは裏腹に教室は穏やかなものだった。
その代わりというのか、何故か神田が俺の肩に手を置く。
そして何故か同情にも似た視線を送られている気がした。
「ノミヤ、お前も大変だな」
「何がだ。あと俺は一宮だから。野宮だと別人になっちゃうから」
「いやあ、同じ名字がクラスに二人もいるとどっちか分かりづらいだろ? だからお前がノミヤで、転校生が夏穂ちゃんだ」
「夏穂のこと名前で呼ぶなら俺の名前を省略する意味がなくならない?」
こいつもう自分の言ったことを忘れたのか。鳥頭なのか。
神田の悪ノリはいつものことだけど。
「もう名前を呼び捨てする仲なのか。さすが父親になっただけあるな」
「誤解だってば」
いや、誤解じゃないんだけど。
あとその表現別の意味にも聞こえるから。
妹だろうと娘(自称)だろうと近親ルートは発生しません。
「え? てっきりその若さで結婚して、結婚相手の連れ子である夏穂ちゃんが血縁上の父親になったから、お前の趣味でお父さんと呼ばせてるんじゃなかったの?」
こいつは一体何を言ってるんだ。
脳みそがキャリーオーバー……繰り越してどうする。
えーっと、こういう時はなんて言うんだっけ。
「おーい、ノミヤ?」
「……はっ! すまん、脳みそがキャリーオーバーしてた」
「お前は宝くじか」
「で、俺がこの年で結婚して、夏穂が連れ子だって? 馬鹿言うな、俺まだ十八歳にもなってないんだぞ」
「そういえば! でも夏穂ちゃん連れ子説はクラス中に広まっちまったぞ。俺もその年で一児を養うなんて大変だなあとしみじみしてたのに」
誰かー、このクラスに民法学者呼んできてー。
もしくは民法第七三一条の条文を百回くらい暗唱させろ。
「ったく、そんなに想像力豊かなら小説家にでもなったらどうだ?」
「犯人の台詞だな。でも証拠は上がってるんだぞ」
決まった――と言いたいかのような見事なドヤ顔でこちらを指差す。
ムカつくから折ってやろうか。
「何のだよ」
「お前が夏穂ちゃんの父親である証拠かな?」
「断言しろよ」
名探偵を気取るなら自分の推理くらい自信を持ってほしいものである。
自信満々にDNA鑑定の診断結果とか持ち出されても困るけどな。
などと、つまらない応酬を繰り返していたら、こらと先生に注意される。
そりゃあ授業中に後ろ向いて話してたら当然の話だが。
以降は真面目な高校生よろしく勤勉に授業に臨んだ。
神田は知らん。
退屈な授業も一区切りがつき、やっと昼休みを迎える。
クラスメイトたちは十人十色に束の間の休みを謳歌して、今日に限っては改めて夏穂を質問攻めにしている。
でも悲しきかな、休み時間にもこの学校に俺の安寧の地はない。
迅速に購買でコロッケパンを買い、校内でアトランダムに食事場所を選ぶ。
旧校舎の空き教室でパンを素早く胃袋に詰め込んだら、五分以内にその場を離れる必要がある。
“あいつ”は異様なまでの察知力で俺の居場所を嗅ぎ付けてくるのだ。
見つかったら最後、どんな末路が待っているかは俺にも想像がつかない。
幼馴染の魔の手から逃れるために次は中庭にでも行こうとその道すがら、廊下に倒れている少女を発見した。
……あの緑のバッジは一年生か。
一年生の教室はここからは離れているのになぜこんな所に。
まさかストーカーの幼馴染に追われている訳でもないだろうに。
本来なら保健室に運んでやるべきなのだろうが、見ず知らずの女性に触るのはどうもはばかられる。
このまま放っておくのも心苦しいが……。
「ええい、なるようになれ!」
思い切って倒れていた少女を抱き上げる。
抱き上げてみると体重は軽く、ちゃんとご飯を食べているのか心配になる。
軽い分にはむしろ運びやすくていいけど。
ただ歩くたびに揺れるポニーテールは手の甲をくすぐりこそばゆいな。
「あの、降ろしてください」
聞こえてきた声にはっとして、抱えた少女の顔を見る。
気が付けば先ほどまで閉じていたはずの目からは、俺を貫く冷たい視線が放たれていた。
「さっさと降ろさないと大声出しますよ」
「あ、ごめん」
齢十六にして社会的抹殺はされたくありません。
言われるがままに少女を地に降ろす。
「勝手に人の体をベタベタ触って、変態ですね」
「滅相もございません」
人が善意でやってたのに、この言われようは何だろうか。
やはり触らぬ神に祟りなし。触らぬ女性に冤罪なし……なんてことはないけど。
「私も鬼じゃないので弁明があれば聞きますけど」
「廊下に倒れていたので保健室に運ぼうと」
「へえ、保健室に」
何だその疑うような目つきは。
別に薄い本みたいな展開があればラッキーとか思ってないぞ。
……本当に、微塵も。
「二年生……先輩、ですね。先輩、名前は?」
「一宮夏彦だけど」
「一宮先輩ですね。……ん? 一宮?」
少女は俺の名前を聞くと、何かを思い出すように目をつむる。
しばらくしてその何かに思い至ったのか、ついで俺のことをじろじろと見回す。
さながら鑑定士のようにじろじろと。
「俺は骨とう品か何かか?」
「鑑定してもらえば百円くらいの値打ちはつくかもしれないですね」
「たったの!? スナック菓子じゃねえんだぞ!」
値上がりの激しい昨今じゃポテトチップスもろくに買えやしない。
この子初対面の先輩に対してなんて毒舌。
「一宮先輩ってあの変態オタクブラコンのお兄さん?」
あー、千秋の友達なのか。
「的確なネーミングセンスだな」
「やっぱり。兄がこんなだから妹もあんななのか……」
呆れたとため息をつく。
いえ、たぶん家庭環境のせいだと思います。
「申し遅れました、私は塚原早月です。一宮先輩は千秋のお兄さんのようですから今回は大目に見ますが、今度私に変態的行為を働いたら次はありませんからね。覚えといてください」
「覚えとくって名前? 変態的行為をするなってこと?」
「両方です! では」
名前も覚えてほしいのか。
これがツンデレか。多分違うけど。
「保健室に行かなくていいのか? なんなら俺も付いていくけど」
「一人で行けます!」
俺の心配をよそに早月は風のように去っていった。
大丈夫かなあ。