美味なる温泉ゆで卵
ロープウェイはその名の通り、ロープを伝い移動する乗り物である。
もちろん、そこに地面などない。
「お、お父さん……浮いてるよ、これ」
ロープウェイに乗った夏穂は真っ青な顔をしていた。
「ロープウェイは初めてか?」
「うん。私高い所はそこまで得意じゃないし……」
「そうか。高い所では下ではなく上を見るといいって言うけど」
まあ、上を見てどうなるかは自己責任だけど。
「う、上……?」
夏穂は宙ぶらりんの状態で高所にいる恐怖から逃れようと、何気なく上を見た。
上には――言うまでもなく――この乗り物を支えているローブが伸びている。
「ひゃっ……あんなので支えてんの!? 無理、死ぬ!」
夏穂が腰に抱きついてくる。
そして、俺の体をぐらんぐらんと揺らし始めた。
うっ、吐きそう。
「お父さん、こんなの落ちちゃうよ! 私もう降りたい!」
「うっ……落ち着け夏穂。まずは俺の体を揺するのをやめてくれ」
お願い! さっきの天丼とお蕎麦がリバースしちゃうから!
吐き気を催しながらも、夏穂の肩を両手で掴んで止めることに成功する。
うぅ、まだ気持ち悪い……。
「と、とりあえず途中で降りることはできないから、到着するまで目でもつぶってろ」
なんて、俺の助言を聞かなかったのか、夏穂はぴたりと動きを止めた。
「おーい、夏穂……?」
顔を覗き込むと、なんとも虚ろな目をしていらっしゃった。
え? 生きてるよね?
あまりの恐怖にショック死したとかないよね?
「はっ! 私は何を!?」
ロープウェイ降り場に着くと、夏穂は我に返っていた。
「何かすごく恐ろしい体験をしていた気がするんだけど……」
「まさかお前……自分で自分の記憶を消していたのか?」
どれだけ怖かったんだよ。
ロープウェイを利用して降り立った火山上部。
そこには硫黄の独特な臭気が立ち込めていた。
「卵の腐ったみたいな臭いがするね」
「情緒もへったくれもないな」
「あ、見てお父さん! あそこからすごい煙が出てる!」
「聞けよ」
一人で先に進んでいく夏穂に、俺は後を追っていく。
山だけあってそれなりに傾斜があるのに、よくもまあポンポンと進んでいく。
どこにそんな体力があるんだか。
「お父さん、ゆで卵だって!」
先行していた夏穂がさらに先にあった建物を指差した。
「ゆで卵? 温泉卵じゃなくて?」
「温泉で茹でたゆで卵ただよ」
「それは温泉卵って呼ばないの?」
「やだなあお父さん。温泉卵は中身が半熟なんだよ」
「うぅん? そ、そうなのか」
温泉卵とゆで卵の違いは俺にはちょっと理解し難い。
でも、未来では料理部に所属していたという夏穂のことだし、ここは夏穂が正しいのだろう。たぶん。
「それで、なぜゆで卵なんだ?」
「有名らしいよ。温泉で茹でることによって、なんたらかんたらの成分で旨味が増すんだって!」
「へえ、そりゃすごい」
「しかも、温泉のなんたらかんたらの効果で健康になるとか。食べれば寿命が延びるなんて逸話もあるんだって」
「で、そのなんたらかんたらの中身はなんだよ」
肝心な部分……でもないけど、説明があいまいだぞ。
「やだなあ、お父さん。ナンタラカンタラっていう名前の温泉成分があるんだよ。知らないの? あ、そっか。発見されたのはもう少し先の未来だもんね」
「今考えただろそれ! さすがの俺でも騙されないぞ!」
こればかりは料理をしない俺でも嘘だとわかる。
そんなふざけた名前の温泉成分があってたまるか。
「ちっ、バレたか。渾身の未来人ジョークだったのに」
「嘘だって丸わかりだったぞ」
「でもニホニウムとか名前が決まるまではウンウントリウムとか呼ばれてたくらいだしあるいは……」
「え? そうなんだ」
どうでもいいことを知っているのは親譲りだな。
「そんなことはどうでもいいんだよ。私もゆで卵食べたい」
「ん。そんなに美味しいというなら買ってみるか」
旅行を楽しむコツは金を惜しまないことだからな。
名物というならとりあえず買ってみるくらいの気持ちが丁度いい。
店の列に並び、まずは俺と夏穂の二人分を買った。
近くにあったテーブルの上で殻を剥き、付属の塩をひとつまみして剥き身の卵にまぶした。
温泉で茹でた位で美味しくなるのか、と疑いながらも一口かじる。
「むむっ、これは――」
――美味い。
味付けといえば塩のみであるのにも関わらず、いや、塩だけだからか卵の旨味がよく出ている。
ただ茹でただけとは思えない芳ばしさが口の中で広がって、すぐに二口目をかぶりつきたいという欲望に駆られた。
嗚呼、ゆで卵とはこんなにも美味いものであったのか。
「ふぉいひいへほへへ」
「夏穂……口に物を入れたまま喋るんじゃない」
「んむ……ぷはぁ。このゆで卵すごい美味しいね! 私の一番好きな食べ物がゆで卵に変わってもおかしくないくらいだよ」
「それはさすがに言い過ぎ……でもないか」
たしかにとても美味かったからな、このゆで卵。
「ねえ、もう一個買おうよ!」
「もう食べ終わったのか? もうちょっと味わって食えよ……。ま、いいか」
せっかくだから父さん母さんと千秋の分も買っておこう。




