第7話 嵐の前
「わぁ、今日のお食事、いっぱいだ!」
はじけるような笑顔の少女。目の前の食卓が色鮮やかな料理で埋め尽くされていた。
「正月くらい奮発しないとな。今日はな、お肉もあるんだぞ!」
父親も機嫌が良く、いつもよりテンションが高かった。
「ええっ! 嘘みたい。どれがお肉なの!?」
「これが、豚肉ときんぴらのハンバーグ。その餃子も今日は豚肉入りよ。そしてなんといってもその鳥の唐揚げ。それは、百パーセント天然物よ」
料理を指さし、満面の笑顔で少女に応える、母親。得意気に教えているが、母親自身は料理を作れない。作った本人から聞いたのだ。AIの『お家、コンシェルジュ』に。
「凄い、凄い! いつもは、お野菜とプロテインバーなのに。豚肉なんて久しぶりっ! それより天然のお肉を食べるの、わたし初めて!」
「そうか。千春は天然物は初めてか。父さんもお得意様の接待の時しか口にできないからな」
西暦二〇五〇年十二月三十一日の大晦日の夜。首都圏の一般家庭の団欒の光景だ。
肉を頬張り、幸せそうに目を瞑る愛娘。それを眺めながら父親がぼやく。
「しかし、日増しに肉や魚が高くなっていくな」
「そうね、人工肉でさえ、買うのがやっとよ」
「ほんと、子供の頃が懐かしいな。もう何年も牛肉なんて口にしていないぞ」
そう言いつつも父親の口元は緩んでいた。目の前の皿に釘づけだ。盛り付けられているのは朝獲れ鰹と養殖鮪の刺身が三切れずつ。それを愛おしそうに口へと運び、ゆっくり咀嚼する。まさに一年のご褒美だった。刺身の皿だけで半月分の食費とほぼ同額なのだ。
流通システム自体は格段に進歩した。その日の朝に収穫された全国の野菜や果物、そして水揚げされた魚介類。それらはその日中に食卓に並ぶ。
国内産であれば前日に予約しておけば良い。最寄りのスマートストアに午後三時までには届く。そもそもAIコンシェルジュがいればいつでも自宅で受け取れた。外国産であっても翌日には届くのだ。
「お父さん、やっぱり本物は違う?」
目を細める父親の手にはお猪口。お酌する母親の口からもサクランボの軸が飛び出ていた。
「ああ、香りと味が格別だ。蒸留酒とは比較にならん。日本酒なんて最高の贅沢だ。食糧難で酒米なんてほとんど作ることが許されてないからな」
「私は久々のフルーツ三昧。もう最高ね! どれも旬の美味しさで最高の保存状態だもの」
家族三人は暫く至福のときを過ごした。
空腹が満たされてきた少女は家族水いらずの正月休みに思いを馳せる。
「あー、明後日の温泉と紅葉狩りが楽しみ!」
「千春は昨日からそればっかだな」
「だってバーチャルツアーじゃないんだよ!」
「確かにあれは少しばかり風情が足りないからな」
「家族、皆で旅行するのも久々よね」
世界人口はすでに百億を超えた。二十一世紀初頭から新興国は爆発的な経済発展を遂げる。当然、それに伴って人口も増えた。
これに対し、先進国は一時期大不況へと落ち込んだ。そんな状況を先進国の国民は許すはずもなかった。生活に直結する経済回復を強く政府に求めた。政治基盤ともいえる経団連のロビー活動の影響も大きかった。
政治家は自らの政党を維持することを第一とした。気候変動対策よりも経済発展を優先したのだ。結果、地球温暖化物質の排出量は増加の一途を辿ることとなった。
削減目標を達成したのは欧州の一部の国だけだ。しかし、それらの国は大きな代償を支払った。経済が大不況に陥り、いまや国家破綻の危機に瀕していた。
気候変動対策は、まさに絵に描いた餅となった。国連のシミュレートからは大きく外れたのだ。しかも、非情に悪い方向に。
大量に排出され、大気に蓄積された二酸化炭素。その濃度は既に八百ppmを超えた。世界の平均気温は約四度上昇した。南極とグリーンランドの氷は溶けだし、既に海面は一メートル弱上昇した。海抜の低い国では国土の多くが侵食され後退した。
乾燥地域では干ばつ、砂漠化が急速に進行。甚大な水不足が穀倉地帯の食糧生産に大打撃を与えた。当然、世界中を飢饉が襲う。すでに環境難民は世界中で十億人に達する勢いだ。
「そうえば、年始の天気は大丈夫かしらね?」
ニュースをつける、母親。
「また災害のニュース」
「もう見飽きたな」
リビングの壁に投影された映像に両親ともに顔を顰める。流れるテロップ。そこに気候変動の文字は無い。いつからかそれは気候破壊というフレーズに変わっていた。
「はあ、来年は少しはまともな年になって欲しいわね」
「ま、無理だろうな。首都移転計画の審議も来年には賛成多数で議決されるだろう。下町はもう全滅だし、山の手も限界だ。相模原あたりまで移動するんじゃないか」
海水温の上昇は気候に大きな影響を及ぼした。今年もスーパー台風が次々と日本列島を襲った。海水位も上昇したため高潮は数メートルを超える。各地で頻発する洪水。沿岸都市部では多数の死傷者が発生した。ライフラインは断絶し復旧に困難を極めていた。
「お父さん。来年も暑いの? 私はこのままずっと冬がいい」
「残念だけど夏はさらに暑くなるだろうな」
「えー! そしたら、またお外に出れなくなる。そんなの嫌っ!」
千春は顔を顰めようとしたが、餃子の美味しさがそれを許さなかった。
「ははっ、なんて顔してるんだ」
「そうねぇ、四十度を超えて学校がお休みの日が数十日にはなるでしょうね」
「学校もそうだが、お父さんは今年みたいに暑さで死者が数千人も出ないことを願うばかりだよ」
とは、いいつつも両親はともに諦めていた。来年も酷い有様だろうと。
「えー、学校行きたいよー。バーチャルクラスはつまんないもん」
「いっそのこと私の実家に引っ越す? ここよりは断然涼しいわよ」
「ああ、本気でそう考えたくなるほど切実だな。母さんの実家なら海の幸も少しは手に入るだろうし、少しはましな生活が送れるかもしれないな」
食料危機は日本も例外ではない。飼料用穀物の世界生産量は激減した。それにより国内外の畜産業は多大なダメージを受けた。
「お母さんが子供の頃は、毎日のように魚が食べれたのよ」
「ほんと、最近は魚がほとんど獲れなくなったよな」
「だからって、あんなまずいものを食べさせられるのは勘弁して欲しいわ」
海水温の上昇、そして酸性化現象。これによりまっさきにサンゴは絶滅した。海の生態系も大きく乱れ、漁獲量は従来の数分の一となった。
人口は増加、食料生産は激減。その結果どうなるかは、明白だ。庶民の日頃の食卓は米、麦、そして野菜が中心。不足する蛋白源を昆虫から作られたプロテイン食で補っていた。とても美味しいと呼べる代物ではなかった。たまに口にする肉も工場で培養した人工肉がほとんどだった。ごく一部の限られた富裕層だけが未だに本物の肉を食べていた。
「千春が大人になった時に世界がどうなっているか心配だな」
「十年後の私達の将来ですらわからないわよ」
「まったく政府や政治家はこれまで何をしてきたんだ。国連もだ。なんでこうなるとわかっていて、適切な対応策をとらなかったんだ。いまだ政敵の揚げ足取りにばかりじゃないか。他にやらなければならないことがあるだろう。大事と小事の区別もつかないのか」
「どんどん食べ物が無くなっちゃうの? この美味しい鶏肉、もう食べれないの?」
千春は悲しそうな顔で見つめる。視線の先は箸に掴んだ唐揚げだ。
「千春、心配するな。お父さん、もっとお仕事頑張るからな。いっぱいお金を稼いで、千春にもっと美味しい物を食べさせてあげるぞ」
「うん! お父さん大好き!」
来年もまた頑張ろうと心に決める、父親。どんどんと貧しくなる食生活。いかに他者よりも豊かにできるかにかかっていた。裕福になり、子供の頃のように牛肉や刺身を満足ゆくまで食べたい。愛娘に食べさせてあげたい。
「そうね。幸いにも家は海沿いでもないし、山にも面していないわ。とりあえずは、すぐに何か危険ってわけでもないわね。私も来年からはバーチャルショップのマネージャーに昇格したし、頑張るわ。老後に向けてお金も貯めないといけないしね」
「俺はそろそろ新しい車が欲しいな」
「また、その話?」
「だって、家のはオートドライブの最高速度。たったの百キロだぞ。しかもいまどきタイヤでしか走れない。ご近所様のを見ろ、みんなホバリング機能付きだ。川や海だって平気でショートカットできる。明後日の温泉も、それがあれば一時間は短縮できるんだぞ。お迎え機能やオートクリーニングも――」
「はいはい。それは、お父さんの趣味のようなものでしょ。あなたの来年のボーナスに期待ね。頑張ってね。お父さん」
旦那の願いを笑顔で受け流す、妻。旦那はそれ以上何も言えなかった。嫁の稼ぎは旦那よりもかなり良かった。金銭面では頭が上がらないのだ。目の前の皿に乗った刺身が食べられるのも妻のおかげだ。
日々、報道される世界の危機。それでもやはりどこか他人事だった。誰もが今日、明日に自分の命が脅かされるとは思わなかった。自分は大丈夫。そう思っていた。
全世界に平等に訪れた「それ」は、人々にとって突然のことであった。
しかし、これは必然的な運命であったのだ。




