001
「人のことを悪く言うのは止めよう――とまるで正しいことを言った先生が職員室でいじめっ子の悪口を言っていたことを忘れない。
「人は誰だって一人ぼっちだ――とまるでこの世の真理を説いた聖職者が懺悔室で自殺したことを忘れない。
「人は一人では生きていけない――とまるで当然なことを当然に言った委員長がいじめられたことを忘れない。
「そのいじめっ子が,先生に悪口を言われ,いじめっ子の親が激怒して,先生を追い詰めて,先生が自殺して,いじめはその間も加速して,いじめられっ子が自殺したことも,忘れない。忘れてはいけない。忘れることはできないけれど……」
と,ぼやくのはエンミだ。
わたしはその間,横に座っていて,果たして今の話のどこまでが真実なのか思案していた。たった1つも真実はないのかもしれないし,全て真実であるかもしれない。どちらの可能性もある。エンミの人柄を考えれば。
というか,エンミがいじめっ子だった可能性だってあるのだから。
「それで,激昂したいじめっ子の親はどうなったの?」
話が真実であったにしろ,なかったにしろ,わたしはエンミのこういう話に合わすことにしている。エンミは無視されることを極端に嫌うから,独り言のようなこんな話にも反応を返してあげるのだ。
「いじめっ子の親? そんなののうのうと生きているに決っているじゃないか。だって,いじめっ子の親はなにも悪くない。いじめっ子の親が,先生をこっ酷くいじめたとしても,いじめっ子の親は悪くない。いじめに屈する弱さが悪い。――いや,真に正しく言うのであれば,いじめに屈して,自殺することも,何一つ悪いことはない。この話はただの結果の連なりに過ぎなくて,誰一人悪い人間はいないんだから」
ただ人が何人か死んだだけ,とエンミは言った。
エンミはそう言って笑った。
笑うエンミを直視することは難しい。エンミの笑顔は――到底笑顔だなんて言えるような顔ではないし,くしゃりと横に裂かれたような口と,歪んだ下瞼は,ちゃんとお人形のように笑っているのに,笑顔とは到底言えない,醜悪で,美しすぎるものになっている。
醜悪で美しすぎる。
黙っていても,それは変わらない。けれど,エンミが人間らしい行動を見せるとき――それは特に醜悪で美しすぎるのだ。
「それよりさ,いいのかよ,モテギちゃん。モテギちゃんはこうしてアタシの相手をしているような状況じゃあ,ないはずだろう?」
「それもそうだけれど……」
そうでもないというか。
エンミの心配は当然で。
現在わたしは追われている身なのである。エンミはこの様に,人様の眼には映らないというか――逸れやすい。エンミのような妙な存在は,それだけで視界に映らない。正確には脳が認識しない。思考が脳を超えるというか,思考を守るために認識が制御するというか。そういう,現象が起こる。
だから,とにかく,エンミは大抵の人間の眼には映らない。
しかし,わたしは違う。
状として,わたしはまっとうな人間だ。如何ばかりか一般人とは違うことができるけれど,マクロな視点からでは只の人間だ。そんなわたしが,エンミと同じように,ぼんやり河原で石を投げている場合じゃないのだ。
「でもまぁ,エンミの側にいて,エンミ以上に不幸が訪れる筈もないでしょう?」
「……まぁ,そうだね」
わたしの言葉に,エンミが頷いた。
「それもそうだ。確かに,アタシ以上に不幸なヒトなんて存在しない」
「ヒトどころか,生物すら存在しないでしょうね」
恥ずかしいことに。悲しいことに。恨めしいことに。
「生きていて,それほどの不幸な生物はエンミ以外に存在しないと思う」
「だったら死ねばいいと思うのかい?」
「そうね。死ぬのがもっとも幸せだと思うよ」
「じゃあ,今度死のうかな。きっと失敗するけれど」
「何回目?」
「さぁ? 1日に最低でも1回は死を試みているから,これで何度目の失敗になるかなんて,さっぱり」
今まで食べたパンの枚数くらいわからないことだ,とエンミは笑った。醜悪で美しく。
「でもさ,アタシのもとに,あいつらが来てくれれば,アタシは死ねるかもしれないな」
「それは無理だと思うよ。わたしでもエンミを殺すことが出来なかったんだから,あんなのがエンミを殺せるはずがない。あんなんがエンミの弱点だったら,さすがに怒っちゃうね」
「なにに怒るのさ?」
「エンミに」
それからしばらく河原にいたが,追っ手は来なかった。
本当に。
エンミは不幸極まりない。