000
〈思考〉と〈認識〉の話
行動の源泉が思考にあるのだというのなら,わたしはその言葉を嘘だと言うだろう。
現象の原因が認識にあるのだというのなら,それもまた,わたしは嘘だと言う。
不可解な問題が列挙され,枚挙され,これ以上ないほど色々なものに圧し潰されたとしても,わたしはそんなような取り繕った解決に結びつけようとは思わない。
3月。
それを穏やかな季節と捉えるか,悲しい季節と捉えるかは――まさしく,思考と認識の話だけれど――わたしにとっては憂鬱な時期である。
それは当然,わたしの思考と認識によるところで――こんな遠回しに言う必要もなく,わたしがその時期になると嫌なことを思い出してしまうからだ。
嫌なこと。
一言でそう言ってしまうと,それはとてもチープで,些細なふうに思えてしまう。けれど,チープな出来事が,今後3月を嫌うほどの爪痕を残すはずもなく,わたしにとって特別嫌なことだったというわけでもないのだ。
母が死んだ。
別れの季節でもある春は,そして3月は――決して朗らかなものではなく,ましてや穏やかなものでもない。
悲しみ――と言うほど,わたしはその事を悲しまなかった。
母とは仲が良いわけでもなかった上に,わたしはその母のことを殆ど知らなかったのだ。
母はとても若い人で(それは当然ながら年齢のことを指すわけではなく,気質のことを言っている),簡単に言えば浮気症であった。
浮気――というと,どういうわけか男がするものだというイメージが一般的な女子中学生にはあるそうだが――物心がつく頃には浮気し,父とは離婚し,別の男と何処かへ行き,その男とも離婚し,時折わたしの父の元へ顔を出し,甘い声を出し,それから何処かへ行った――母がいるわたしにとって,そんなイメージは全くなかった。
これも思考と認識の話かもしれない。いや,もっと簡単な話だろうけれど。
ともあれ,生まれて13年。まだ,こども料金でも通用するようなわたし。そんなわたしは,たった13年で,女が浮気症で,男が阿呆だという真理に辿り着いてしまった。きっと,真理というほど大したことではないのだろうけれど。
しかし,こんな身の上話をすると,きっとわたしという人間は不幸の星に産まれたお姫様なんじゃないかと心配もする。心配はするけれど,当然,下には下が――上には上が存在していて,わたしはそんな女の子に出会ってしまったが故に,これまでの生き方を呪い,恥じた。
人形魘魅。
そのまるで,人でないような,人でなしに,わたしは出会った。
別れの季節。
3月21日のことである。
どういう作品なのかは、以下のサイトに少し書いてます。
気が向けばどうぞ。
http://meloncream-natrium.tumblr.com/post/84320623629