07 やあ 著 海岸 『メジナ』
大潮の3日目。磯場ではひと組の父娘が潮だまりを覗き込んでいた。普段は海水にすっぽり覆われている岩場も今は夏の日射しに晒されている。 潮のそこり(干潮時刻)まで、あと30分ほど残されていた。
都心の水族館で学芸員をしていた父親のほうは、この三月に妻を亡くしたばかりであった。妻の病名は決して楽観出来るものではなかったが、発病から年数を経たことで彼も妻自身もそれなりに病との折り合いをつけられるようになったつもりでいた。
気がついた時には後戻り出来ない場所に妻だけが佇んでいた。
そして彼の元にはまだ小学生の娘が遺された。お別れの時、娘があまりに泣きじゃくるので、彼は慟哭しそうになる自分をかろうじて抑えた。妻の分までこの子を守らなければいけないという想いだけが彼を支えていた。悪いことに妻側の親族には、彼のその姿が妻の死に涙も見せない冷酷な人間として映った。娘の遺骨を引き取りたいという義父と半ば喧嘩別れのようにして、彼は妻の入った骨壷を抱き、娘とともに自分の故郷に帰ってきた。
彼の故郷は老人ばかりとなった過疎の島であった。当然ながら、母もすっかり老いていた。母は遺された孫を強く抱き締め、声を殺して泣いた。
「おばあちゃん、そんなに泣くとおかあさんが天国へ行けなくなってしまうよ」
ぽつんと小さな声で娘が呟いた。それは妻が亡くなった日、義母が娘にかけた言葉と全く同じものであった。
4月の新学期を待って島の小学校へ編入した娘は、新しい環境に馴染めなかった。頭痛や腹痛を訴える娘をだましだまし登校させていたが、5月の連休後にはそれも全く不可能な状況になっていた。仕方がないと彼は思った。生まれた時から同じ顔ぶれで、全員が家族同然に育てられてきた子どもたちなのだ。その上3年生のクラスは娘を含めても4人の児童しかいない。それも娘を除くと男児ばかりだ。複式学級の為、同じ教室に4年生の児童もいるにはいたが、娘は登校から下校までの長い時間をたったひとりで過ごしていたに違いなかった。
同時期、彼も多忙を極めていた。漁業以外の産業がない郷里で暮らすには、まず生活の糧を得ることから考えなくてはならなかった。彼は行政に働きかけ、島から見えている無人島で磯遊び体験のツアーを始める準備に取りかかったばかりであった。人手集め、HPの作成、観光コーディネーターの資格を取る為の勉強。しなければいけないことばかりが山積みになって目の前に立ちふさがっているように思えた。だからといって妻の忘れ形見でもある我が子の危機を放置する訳にはもちろんいかない。疲労が極限に達してしまいそうになると、彼はアルバムを開いた。生まれたばかりの娘を抱く妻。七五三の晴れ着姿ではにかむ幼い娘。1ぺージをめくるごとに成長していく娘の写真と、亡くなった日を境に突然上書きされることがなくなった妻の記憶。
彼はツアーを計画している磯に一番最初に娘を連れて行こうと思いたった。 実行に移すのは早いほうがいい。漁業を営む幼馴染みに無人島への送り迎えを頼んだ。生まれた時から高校を卒業するまでずっと一緒に過ごした仲間には多くの説明は不要であった。「お安い御用だ。ただし二回目に行く時はおいらんとこの息子たちも連れてけや。定や由紀んとこの子等もな。いや、いっそ次は小学生全員連れていって遊ばせてやろうぜ。その時にはおいらも監視に行くからよ」
「おうっ。すまんのん」
こうした経緯を経て父娘は誰もいない磯場を訪れていた。柄の短いタモ網を2本使い、広げた両手を近づけていくと魚の稚魚が面白いように網に入った。久しぶりに見る娘の笑顔。小さな魚をバケツに移す度、まるでほうせんかの種がはじけるように娘は歓声を上げて顔をほころばせた。
満ち潮が来るといきなり水温が下がる。
「さあ、弱らないうちに魚を海に返してやろう」
父親の言葉に1匹ずつ名残惜しげに少女は稚魚を海に放し始める。
父親は体長3㎝ほどの銀色の魚だけを別容器に移すと娘を日陰に誘った。乾電池式のエアポンプがぷくぷくとかわいらしい音を立てている中、銀色の魚たちは涼しげにひれを揺らしている。
「これはメジナっていう魚の稚魚なんだ。よく見てごらん。分かるか?この1匹だけがほかの奴らから追い回されているだろう?」
「うん。どうして?」
「メジナはな、群れを作って生活しているんだ。網ですくう時にも群れていたから一度に2匹も3匹も入って来ただろう?」
「うん」
「その群れの中で一番弱い奴をみんなで攻撃するんだ。かわいそうに思って、父さんは違う群れにその弱い奴を移してみたことがある」
「そしたらどうなったの?」
「その群れでは別の奴が攻撃されてて、移したばかりのメジナも攻撃するほうへ回った」
「そんなのひどい」
少女は涙ぐんだ。
「だがな、それでもこいつらはまっすぐ生きとる。攻撃するほうもされるほうもな。違う群れに移るのもよし。1匹で休憩するのもよし。仲間にいっぱい揉まれながらもちゃんと大きく成長していくんだ」
父親は視界の端に、握りこぶしで涙をぬぐう娘の姿を確かにとらえた。
タイミングを見計らったように船外機の音が近づいてきた。
「おーい。迎えに来たぞう。大漁しとるかーっ」
船の上に立ち上がった男は両手をぶんぶんと大きく振ってみせた。
「豊おじさんったら、あんなに手を振ってる」
少女は小さく微笑みながら手を振り返した。
岸に近づいた船は速度を落とし、ふたりのいる海岸へ緩やかな弧を描きながら近づいていく。